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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-28 07:24:13 (59 ヒット)
週報巻頭言

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
(マルコによる福音書 3:3)

福音書には23通りのイエスの奇跡物語があると言われています。私たちは奇跡物語を読むと驚くべき結果(病気が癒される、嵐が静まる等)に関心を集めてしまいがちです。この物語も手の萎えた人がイエスの言葉に従って手を伸ばしたとき、その手が元通りになった事に感動します。視点を変えるとイエスが語った「真ん中に立ちなさい」という言葉はその人の人生を変え、少なくとも周りの人々に影響を与えた言葉でした。障害を持っていた為に蔑まれ、社会から片隅に追いやられて生きてきた人が、彼自身も誤った律法解釈を植え付けられ、それを当然のこととしていた社会の呪縛から解放されたのです。この解放こそが主イエスに出会った彼にとっての救いです。
ここから彼の新しい人生が始まったと言えるでしょう。イエスが安息日に律法で許されていない治療行為をするのではないかと見張っていたファリサイ派や律法学者たちに対して、イエスは怒って彼らを見回しました。イエスは人々の人権・尊厳を侵害することに対して怒りを発したのです。見方を変えれば、その怒りは虐げられた人々への憐れみであり愛なのです。
先日分級で、メンバーの方から「旧約聖書の神はイスラエルばかり守るのですね。依怙贔屓(えこひいき)の神じゃないですか?」という率直な意見が出ました。
そうです!聖書の神、主イエスも依怙贔屓の神です。それはいつも弱い人々、貧しい人々、虐げられた人々の側に立つ神なのです。
主イエスも十字架を背負わされ、罵声を浴びせられ、鞭打たれながら、ただ一人でゲッセマネの丘に向かいました。十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と問いながら、全ての苦しみを担い死んでいったのです。そうしたイエスの生きざまと死にざまに対する神の肯定が「主イエスの復活」です。徹底して低くされた者と共に生き、自らをも低き者となって生き抜かれたイエスを神は善しとされたのです。                            (眞嶋 豊)                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-21 22:54:10 (53 ヒット)
週報巻頭言

彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(ルカ5:28)

イエス様は、徴税人レビのところに出かけて行き、「わたしに従いなさい」と言って彼を招かれました。27節に「イエスは出て行って」と書かれていますが、並行箇所の『マタイ』と『マルコ』は「通りがかりに」となっています。つまり、『ルカ』はイエス様が「通りがかりに」レビと出会ったと言うよりも、わざわざ出かけて行ってレビに出会われた、ということを強調しているのです。
 レビは、徴税人としてローマ帝国がユダヤ人から税金を徴収するのを請け負う仕事をしていました。ローマの手先となり、しばしば不正な利益を得ていたので、人々から嫌われていました。また、徴税人は異邦人であるローマ人と接触するので、当時のユダヤ人社会の中では汚れた「罪人」とされていたのです。そのレビが仕事中にイエス様に見つめられ、「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。すると驚くことに、彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従ったのです。 
このイエス様の「わたしに従いなさい」という言葉は、ただ上から下への命令的な招きではなく、「あなたのその生き方を私と一緒に変えてみないか。もう一度生き直してみないか」という、愛と励ましに満ちたイエス様の思いが込められた言葉であったと思います。
 座っていたレビがイエス様と出会い、何もかも捨てて立ち上がって行く、という短い文章の中に、とても大切な意味が込められているように思います。何もかも捨ててイエス様に従うのは簡単なことではありません。しかし、聖書には何も書かれていませんが、イエス様の招きの言葉の中に、レビの心に触れる何かがあったことは確かです。この「何か」がとても大切なのです。
「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という言葉と同じギリシア語の単語が使われています。つまり、「新しい人間になる」、「新しく生まれ変わる」ということを意味しているのです。イエス様の招き(愛)が、レビの心に触れて、罪人として無力と束縛と絶望の中にあった彼を揺り動かし、命の息を吹きかけ、立ち上がらせたのです。そして、レビもまた持てる物を何もかも捨てた(手放した)からこそ、その場から立ち上がることができ、イエス様に従って行くことができたのです。 
                                     (松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-14 20:58:36 (53 ヒット)
週報巻頭言

今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。(ヨハネの黙示録14:13)

世の中に幸福論はいくらでもありますし、「幸い」「幸福」のイメージも千差万別です。でも、ほとんどはいわゆる人生論であって、幸いな生き方や、生きているときに味わう幸福感のことを取り扱っていると思うのです。しかし、今日お読みした黙示録の言葉は、とても驚くべき事に、「死」と「幸い」とを結びつけて捉えています。
 この短いフレーズを繰り返し復唱していますと、不思議な味わいに包まれるのです。「死」を厳しい事実としながらも、「死」の空しさを粉砕しているように思えます。「死」を、「幸い」という視点からおおらかに包んでいるように感じます。でもそのために、すなわち、死すべき私たちが、「命」と結ばれるために、キリストはいつもわれわれの傍らで、われわれを招き続けておられます。たとい、われわれがそれに気づかなくても。
 イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人たち。二人の内、一人は最後まで毒づき、もう一人はそれをたしなめ、イエスに心を開きます。一見、「それまでどんなに悪さをしてきたとしても、ぎりぎりのところで悔い改めれば、救われる」というように取りがちな話ですが、そうではないと思います。「救い」とは、人間の態度で、いとも簡単に引き寄せてしまえるようなものではないと思うからです。「素直な犯罪人は救われて、最後まで毒づいたもう一人の方は救われなかった」なんてどこにも書いていませんし、そんなことは判らないのです。いや、「救い」とは、人間の態度や状況がどうであっても、どうでなくても、主イエスがそこにおられるという、その事実にこそあるのではないでしょうか。
 最後の最後まで毒づいた犯罪人の傍らにもイエスはいたのです。毒づくしかなかったところの、荒れ果てた心のままで死んでいく、その男の横にもイエスはいて、その犯罪人の痛みと苦しみと絶望を、まさに自分自身も味わいながら、その犯罪人のためにとりなし、祈っていたという、その事実が救いなのだと思います。
                               (吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-07 21:04:50 (52 ヒット)
週報巻頭言

もしだれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
(マタイ5:39)

イエスは、徹底的に弱者の側に立っておられました。イエスに従っていた群衆の中の多くは、貧しくてその日の食べ物にも事欠くような人たち、罪びととされていた人たちだったのでしょう。差別されていた人たちだったでしょう。中には悪い者呼ばわりされ排除されていた人たちもいたのではないでしょうか。イエスはそのような人たちと共にいました。そのような人たちを励まし、「神の国はあなたがたのものだ」と語りかけていたのです。
イエスが厳しく糾弾したのは、貧しい人々を虫けらのように軽蔑していた、社会的に力のある権力者や金持ちであって、彼らこそ悪人なのだとさえ言っています。イエスは常に弱い立場の人の側に立ち、弱い者を苦しめる者こそ悪者と呼ばれるべきだとしています。人々はそんなイエスの姿に慰められ、励まされたのでしょう。神の国の希望を与えられたのでしょう。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」という言葉も、右の頬を打たれる人、下着を取られる人、1ミリオン行かせられる人を励ます言葉として語られたのではないでしょうか。右の頬を打たれても、下着を取られても、問答無用で1ミリオン行かせられても、手向かうことなど到底できない、じっと耐えるしかない人々に、「それならいっそのこと左の頬も向けてやったらどうだ。上着も持っていけと言ったらどうだ。1ミリオンではなく2ミリオン行こうと言ってやったらどうだ。悪人たちはきっと驚くことだろう」と。
この言葉が励ましの言葉として語られたのであれば、「右の頬を打たれた時には左の頬も向けなければならない」という意味にはなりません。確かにイエスは、相手が悪者であったとしても実力行使は認めていません。しかしこの言葉には、実力行使にはない気迫が込められています。
                               (関 玖仁男)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-30 05:56:13 (83 ヒット)
週報巻頭言

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカ22:32)

最近読んで感銘を受けた本の一つに、深井智朗氏の「伝道」があります。非常に読みやすい本ですので、ぜひ皆さんもお読みになることをお勧めします。その中で深井氏が紹介しているのが、ドイツ人牧師パウル・ゲーレのこの言葉です。「むしろ、すべては挫折からはじまったのではなかったか。」
「伝道」というと、私たちはどんな方法で、どうやったら多くの人が教会に来てバプテスマを受けるかということをまず思い浮かべます。そしてそのためには、どのような「企画・方策・技術」(そして予算)が必要か、また他の教会の成功の実例がないかと考えます。これらの事柄はもちろん大事です。しかし、それよりももっと大事なこと、すなわち聖書がありのままに語っている「伝道」の根本について、私たちは気づかずにいるのではないでしょうか。教会史の専門家である深井氏は言います。「伝道の歴史を見るなら、挫折からすべてははじまったのです。そこから立ち上がることからはじまったのです。その力は私たちの努力や分析や企画力ではありません。真のキリストとの出会いです。」(同書p.22)
 ペトロはガリラヤの一介の漁師であった時、イエスさまに声をかけられ従う者とされました。以来、彼は持ち前の積極的で情熱的な性格のままに、どんな時でも主と行動を共にしてきました。イエスさまが「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われた時、ペトロはすぐさま否定しました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」(マタイ26:33)彼自身にとっては偽りのない言葉だったでしょう。ところがイエスさまは言われました。「あなたはわたしにつまずく」「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と。
ペトロは確かにつまずきました。窮地に置かれたからとは言いながら、自ら三度もイエスさまを知らないと言ってしまったのです。彼は激しく泣きました(ルカ22:54−62)。しかし、その挫折からペトロの再生がはじまりました。復活の主との出会い、新しい人生のはじまりです。 「伝道」のはじまりです。                      (坂元 幸子)


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