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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-10 20:24:21 (77 ヒット)
週報巻頭言

「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」
     とお答えになった。 (マルコ 6:37)

明日3月11日で東日本大震災から8年目を数えます。この8年それぞれどのような歩みだったでしょうか。私は3月11日の被災後、結果として避難所的な働きや地域へ会堂を開いたり、皆様から届いた物資を地域や必要のあるところに運ぶなどの初期の働きから始まり、次第に現地支援委員会、教派間協力、宗派間協力による支援に加わり、「できることはみなしよう」と思いながら4年を過ごしました。阪神淡路大震災を経験した牧師が、ご自分の経験を「引き出されてしまった」と表現した言葉を聞いたとき、自分を振り返って深くうなずいたことを覚えています。その後の埼玉では、病気のため自分の生き死に集中せざるをえない日々でしたが、体力も戻って来て市川八幡教会のご依頼にもお応えできることになり、やっと新たに3・11に向き合う時が与えられたように思いました。実はそれが思いがけずきつい日々になりました。被災後を生き、支援に関わる中で見たこと聞いたことにまつわる感情も含めた諸々が、それぞれの箱を飛び出して押し寄せる感じになることもありました。きっと被災地で「記念日反応」と呼ばれるものと似たものなのでしょう。しかしそれ以上にきつかったのは、被災後の今を直視することでした。8年後の今の現実をそのまま知ることは、同時にこれまでやはり見たくないと思ってきたこと、できれば避けたいと認めようとしなかった姿を突き付けられることでした。けれどもその状態でいる以上、共に生きさせていただくことはできないのです。
 主イエスと弟子たちが、休むために向かった場所にも人々は集まってきました。弟子たちの疲れもよくわかります。しかし、同じ人々を見ていながら、主イエスと弟子たちの間には見て判断したことに違いがありました。主イエスはその人々の「飼い主のいない羊のような有様」という現実を見て、知って、受け止めました。その現実から共に生きようとされる主イエスの「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」の言葉は、弟子たちを試したり諭したりする言葉ではなく、「わたしたち」として一緒に生きていかないか、という呼びかけではなかったでしょうか。
           (ふじみ野バプテスト教会 井形英絵)                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-03 21:18:12 (62 ヒット)
週報巻頭言

園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。』(ルカ 13:8)

月が改まって、いよいよ2018年度最後の月となりました。
市川八幡教会にとっては大いに揺さぶられ、慌てふためきながら、しがみついたり、とにかく担いだりしながら歩んだ一年でした。みなさまお疲れさまでした。
でも、その市川八幡教会という「いちじくの木」の傍らには、「ご主人様、この木を切らないでください」「どうか、この木をもう少し辛抱して待ってやってください」「この木の世話をわたしがやってみますから」と言いながら懇願してくださっていた主イエスがいたのです。イエス様の「ゆるし」と「とりなし」、ほんとうは、そこにおいてだけ存在させられた教会(わたしたち)だったのだということを憶えていたいと思います。そうです。私たちの2018年度の歩みは、いつもの年以上に、主イエスの必死の「とりなし」が注がれた一年だったのかもしれません。きっと、そうです。傷ついたり、情けなかったり、しんどかったり、それでもばたばたしていたりの一年でしたけれど、イエス様の期待が教会の命をつないでくださったのです。神様の前に、そしてこの街の人々にとって、味わい豊かな実りになるようにと呼びかけ、ただし、「その味の源はここ(十字架)にあるよ」と、自ら痛みながらとりなしを祈って下さるイエス様が、私たちの傍らには確かにいたのです。 インマヌエル、アーメン。
市川市八幡2丁目。この街に植えられて、この街のある部分の土地を所有して、私たちは根を張り、枝を張っています。歴史もそれなりにできました。でも、そうだから私たちは教会として存在している、というようなものではありません。この教会には、イエス・キリストの血が注がれています。そして主イエスの復活の知らせが太陽のように注がれています。実を結べ、人々を生かしめる実を結べと、とりなされ、励まされています。だから、私たちは教会なのです。
 私たちが、私たちの教会という交わりが、主イエスの十字架があってもなくても変わらないような言葉で語り合い、主イエスの復活があってもなくても変わらないような気持ちで進んで行こうとするならば、2019年度の活動計画を、どんなに一生懸命立てても、誰もが何かをしていても、忙しく話し合いをしていても、それは葉っぱばかりのいちじくの木になってしまうかも知れません。
 今週、3月6日より、レント(受難節)に入ります。3月11日には、東日本大震災の記念日も迎えます。いよいよ、人間の愚かさとはかなさに思いを凝らし、主イエス・キリストの慈しみと愛とに深く接続する日々となりますように。 (協力牧師 吉癲ヽ陝
                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-02-24 20:47:13 (52 ヒット)
週報巻頭言

義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
(ヤコブ 3:18)

「ヤコブの手紙」は大づかみな分類を当てはめるならば、キリスト教会の歩みが第二世代に移った後の教会とキリスト者たちに宛てて書かれたと考えられている。「現実的な教会形成」というものに関心が集まる一方、主イエスと直接出会い、その言葉を熱く伝える第一世代のリーダーたちがこの世を去り、生き生きとした信仰を教会とキリスト者が持ち続けていくうえでの危機があった。その渦中で人々を諭し、励ますために書かれたのが「ヤコブの手紙」であった。
 本日取り上げた箇所は、この世に二つの「知恵」があることを語る。神から与えられた「平和をつくり出す知恵」と、悪の力に由来する「争いを生みだす知恵」である。両者の違いを見極めるよう、この手紙の著者は勧めている。
 神から与えられた「知恵」の目印の一つは「柔和さ」である。聖書の語る「柔和さ」は、単純に「やさしい、おとなしい」という意味を超え、やがて「平和」をつくり出していく力となる積極的なニュアンスを含み持つ。「柔和さ」を備えた「知恵」は、神の示すところを粘り強く求め、しなやかに、したたかに、まことの平和をつくり出す。
 残念なことにそのような「知恵」は我々の中に自明のものとして存在しない。神の知恵に満ちた平和などというものがこの世界に存在しては、悪の力の「居場所」がなくなってしまうのであるから、悪の力は巧妙な手口で「悪の知恵」を吹き込もうと、今日も教会とキリスト者を近くから狙っている。
 しかし神は、神の声を聞き、神を愛する心を我々の中に創造し、この世界に送り出してくださった。そのことに信頼し、悪の知恵に惑わされることなく「平和を実現する柔和な知恵」をまっすぐに求めたい。心を新たにし、諦めたり迎合したりすることなく、神の心に適うまことの平和がこの世界に実現するために、希望を持って神と世界に仕えたい。 (目白ヶ丘教会副牧師 内藤 幹子)
                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-02-17 17:31:27 (61 ヒット)
週報巻頭言

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ 25:40)

さあ、神の国を受け継ぎなさい。なぜなら「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」と王が言います。
驚いた正しい人たちが「そんなこといつしましたっけ?」と尋ねたときに、
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。」
と答えが返ってきました。
皆さんはお気づきと思いますが、聖書に書かれている人々の中心は貧しい人です。明確な指針が示されています。友達や裕福な人ではなくむしろ貧しい人や病気の人です。いつも貧しい人々は優先的に福音の対象なのです。ルカ14章13-14節には「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しいものたちが復活するとき、あなたは報われる。」とあります。お返しができない人を招きなさい。見返りを求めることなく彼らに寄り添いましょう、そうしたらあなたは神からの力を得ると言われます。
 教会の外には、「助けて」の声が出せずに小さくさせられた人が大勢います。テレビをつければ目や耳を覆いたくなる事件が飛び込んできます。やっと声を出しても、家庭、学校、自治体が受け止める力を持たず、この社会に愛が満ちていないせいで大切な命が失われています。私たちのすぐまわりで小さくされて泣いている人がいます。
キリストの愛を知っている私たちが、小さくされた人に気づくことができますように。
その方々と寄り添うことができますように。(鹿島 美紀子)
                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-02-10 17:47:43 (44 ヒット)
週報巻頭言

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
(ガラテヤの信徒への手紙 5:13)
●巻頭コラム「バプテストと信教の自由」●
 16世紀から17世紀にかけて、最初のバプテストの人々は「信仰者のバプテスマ」ということの大切さに気づきました。ヨーロッパでは、それまでは領土と教会の関係はイコール関係であり、人は生まれたら自動的に幼児洗礼を受けてクリスチャンになりました。そして教会員に登録されました。領土の領主・諸侯と教会が一体化して、つまり政治と宗教が一体になって人間を管理しました。人々もそれを不思議なことだとまだ感じなかったのです。そんな中から、「個人の信仰」ということを言い出す人々が出てきました。バプテストたちです。「一人ひとりが自分の信仰によって自覚的にキリスト者となり、聖書を自分で読み、指針(メッセージ)を自分で受け取って、主体的に生きていく、それこそが信仰生活の素晴らしさなのだ」と言い始め、それまでの領土教会から独立し、新しいグループをつくりました。自覚的な信仰ということ、主体的な参与ということを現す、「再バプテスマ」をしました。聖書に基づいて全身を水につける浸礼で「新生の姿」を表しました。それは、当時の世界の常識からすると、保たれてきた秩序やいろんな前提を乱す元になると映りましたから、たいへん危険視されました。とてつもない迫害を受けました。けれどもその運動はどんどん広がっていきました。
 「信仰者のバプテスマ」ということ、「自覚的にクリスチャンになる」「主体的にクリスチャンとして生きる」という態度が、初めて「信教の自由」という考え方となってヨーロッパ世界に登場したわけです。やがて、それが政治の枠組みの中では「政教分離の原則」となって、近代国家づくりが進む際には「民主主義の原理」の大切な柱となりました。もちろん、バプテストの人たちは、最初から「政教分離原則」というものを考えたわけではありませんでしたが、「信仰者のバプテスマ」という、人間にとってとてもシンプルであたりまえのことに気づき、忠実に生きてみたら、結果として、民主主義の原理の中の原理、「人間の思想や信条の自由」というテーマにはっきりと輪郭を与えたのでした。
バプテストの人々は、自由ということを捉えたのです。「信仰者のバプテスマ」それは、決して古い教会からの教会の縛りからの自由ということではなくて、主体的に信じて生きる者への自由、キリストへの自由。「〜からの自由」ではなく、「〜への自由」、そんな創造的な運動だったのです。キリストへの自由、これがバプテストの精神です。 (協力牧師 吉癲ヽ陝法                                                                                                                                    


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