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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-05-05 15:31:03 (93 ヒット)
週報巻頭言

主よ、助けてください。おぼれそうです。(マタイ 8:25)

1911 年生まれの私の母から、「関東大震災」(1923 年 9 月 1 日発生)の出来事をよく聴かされまし た。当時、本所の緑町に住んでいて、昼食の準備のため多くの家庭では「七輪」で木炭を燃やし、ご 飯を炊いていたそのときの地震で、瞬く間にあたり一面は火の海と化したという。焼死者は 10 万人 以上、両国橋から見る隅田川の川面には、川に飛び込んだ死体の上にまで火が走っていたそうです。
そうした混乱の中、「朝鮮人(当時の呼称)が青酸カリを井戸に投げ込んだ」との全くの“デマ” (政治的虚偽情報)により、大勢の朝鮮人や中国人が虐殺されたとの事。「ざぶとん」を「ジャブトン」 と発音する者を日本人として認めず、竹やりやナタで殺したそうです。なまりのある人、聾唖者の日 本人もその中に含まれていたという。無数の焼死者や殺人現場を見たとき、「神様助けて!」と母は泣 き叫んだと言っていました。 私たちの人生は、しばしば『航海』に例えられることがあります。順風満帆、平和な楽しいときを 過ごしながら舟に乗って目的地に向かいます。ところが、時には予期しない大事件に遭遇することも あります。どうしたらよいのか、自分ではどうしても解決できない難題にぶち当たることもあります。 引き返そうにも、どんどん悪い方向に進んでしまう「難破船」になってしまいます。 本日のみ言葉から、「解決策」を見出しましょう。 最初に、 「イエス様が舟に乗り込まれた」とあります。続いて「弟子たちも従って乗り込みました。」 そうです、私たちの乗っている舟には、私たちの主イエス様がご一緒なのです。ヤコブ、ペトロ、ヨ ハネの弟子たちは、もともとベテランの漁師です。荒海の航海にも当然慣れている者たちです。その とき激しい嵐に遭遇し、自分たちの知識や経験を駆使し、全力を振り絞って乗り越えようとします。 しかし、なすすべもなく死の寸前に至りました。 そこで、ようやっと思い出したのがご一緒している主イエス様のことです。「主よ、助けてくださ い。おぼれそうです」と叫んだのです。主イエス様は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」 と言われ、嵐を凪に変えてくださり、助けてくれました。 主イエス様は、どんなときでも、どこにいても私たちに伴われていることを忘れないようにいたし ましょう。イエス様が私たちの救い主、そして私たちの教会の主なのです。 (鳥飼 好男)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-27 13:45:00 (64 ヒット)
週報巻頭言

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
(ヨハネ15:11-12)

ヨハネ福音書15章はよく御存じの「私は〇〇である」というたとえをもって語られている箇所です。「私は命のパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は道である」とか、いろいろなたとえを用いて、イエス様は、ご自身がいかなる存在であるかを語って来ましたが、ここでは「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と語っているところです。
 とても分かりやすいたとえで話されておりますので、当時の人々はイエス様のこの話はすぐに理解ができたのだと思います。私たちはどうでしょうか。私たちが十分に理解するには、まず当時の人々がぶどうの木をどのように理解していたかを知らなければならないと思います。
 旧約聖書には、ぶどうの木についての記述がたくさんあります。そしてそのほとんどが、イスラエル民族を表す象徴的な言葉として用いられております。たとえば、イザヤ書5:1〜7では農夫がぶどうの木を丹精込めて世話をするように、神様はイスラエルの民を愛し、そして、神の民として豊かな日々の生活をあたえようとしているのに、その神の意に反してイスラエルの民は神から離れていく。そのようなイスラエルの民を、神は見捨てる、という神の意志が述べられております。ぶどうの木とは神に逆らうがゆえに、神に見捨てられるイスラエルの民という理解がされています。イエス様はそのような理解を前提に、「私はまことのぶどうの木である」と語っているのです。イエス様ご自身が「まことのぶどうの木である」という宣言により、弟子たちはイエス様において実を結ぶ、新しいイスラエルとして神に招かれている存在であることが語られているのです。
神様とイエス様との関係が語られ、イエス様と弟子たちとの関係へと進み、その関係の類比からイエス様は、私の愛に留まることを掟として弟子たちに語り聞かせているのです。そして私たちにもイエス様は「互いに愛し合いなさい」と語りかけておられるのです。この語りかけに私たちはどのように応答してゆけばいいのでしょうか。
        (品川バプテスト教会協力牧師 松村 誠一)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-21 20:19:01 (55 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 (マタイ28:10)

「マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(1節)という言葉には、 どんな意味が含まれているのでしょうか。彼女たちは家父長制に基づく男性中心的な 中近東の文化の中で、女性蔑視という社会的差別を受けるほか、重度の精神的疾患を患 い、宗教的な差別にもさらされていました。二重、三重の差別にさらされていた彼女た ちにとって、主イエスの教えと生き方は、まさしく「福音」そのものでした。主イエス によって癒やされ、新しい人生を取り戻した彼女たちは、当時の文化では、きわめて稀 な「女性の弟子」として、物心両面でイエスと十二弟子たちを支えることはもちろん、 福音宣教の一翼を担うようになりました。 ところが突然の主イエスの逮捕と十字架上の死は、青天の霹靂のような出来事でし た。主イエスの死は、もっとも頼りにしていた存在が突然いなくなった悲しみ以上に、 自分の存在が絶たれてしまったかのようなものだったのでしょう。「墓を見に行った」 ということは、ほかならぬ、生きる希望を失い、絶望感にさいなまれている姿をあらわ す表現であると思います。しかしそれが終わりではありませんでした。絶望のどん底の 中、彼女たちは復活のイエスに出会うのです。復活の主の第一声は、「恐れるな」でし た。それは、絶望が希望に変えられる、「希望のはじまり」でした。絶望の中で苦しみ 悲しんでいた彼女たちが、最初の復活の証人として、新しく生きようとする希望に満ち あふれるときだったのです。 私たちの生きる一日一日は、ある意味では誰も経験したことのない未知の世界です。 それ故に期待感でわくわくするときもあれば、不安にさいなまれるときもあります。し かし、復活の主が、決して私たちを「ひとりぼっちにさせない」ことを忘れずに、どん な状況に置かれていても、「恐れることはない」と私たちに語りかけてくださる復活の 主に信頼しつつ、希望をもって誠実に歩んでいきたいと思います。 (日本バプテスト連盟宣教研究所・所長 朴 思郁)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-14 06:29:34 (65 ヒット)
週報巻頭言

本当に、この人は神の子だった。(マタイ 27:54)

マタイ受難曲は、バッハ研究の第一人者が「音楽という言葉では表わせない、 自分の指針となる存在」と言い、多くの著名人が「名曲中の名曲であり、人類の 遺産である」と絶賛しています。しかし演奏時間が 3 時間にも及ぶ難曲であった ため、メンデルスゾーンに見出されるまで、100 年もの間、陽の目を見ることは ありませんでした。 それ以来、時代を越え国境を越えてその人気は高まり、人の心を捉え続けてい ます。なぜでしょうか? バッハはルターの影響を受けて育ち、20 分にも及ぶ礼拝の為の音楽を毎週作曲 しました。彼は音楽の使命は何かを問いつつ、自分の音楽は神の栄光を表わすた めにあるのだという明確な認識を持っていました。 この受難曲は「来なさい、ご覧なさい」「誰を?」「十字架に屠られた小羊を」 と歌う合唱で始まり、マタイ福音書 26 章の『最後の晩餐』から 27 章の『墓が封 印される』までを、語り手のレチタチーヴォ(朗唱)、合唱、コラール、アリアで 歌われます。最後は「われら涙してひざまずき、墓の中のあなたに呼びかけます。 安らかにお休み下さい。」との大合唱で終わります。 この曲は私たちがイエスの死に立ち会った感じにさせます。バッハはキリスト の受難を自分の目の前で起こった出来事として深く受け止め、神に語りかけ、祈 りつつ作曲したのです。そして人間の心の奥に在る、こうしようと思っても出来 ない弱さ、哀しさ、もろさ、醜さ、傲慢さ、残酷さを音楽で表現し、聴く私たち の心を神へと向かわせます。そして私たちの中に共通して存在するこれらもろも ろに光が当たり、神に憐れみと慈しみを願い求めるのです。 「わたしの心よ自らを潔めよ。世よ出て行け、イエスに入っていただくのだ」 と歌う最後のバスのアリアは、バッハの信仰告白のようで私たちもアーメンと唱 和するのです。 私たちの心は世の事でぎっしり詰まっていますが、今年の教会課題「静まって 聴く」とは、イエスに心を明け渡すことではないでしょうか? (教会学校・旧Cクラス:眞嶋 広実)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-07 17:57:21 (67 ヒット)
週報巻頭言

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来た のは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 (マルコ 2:17)

福音書は、たくさんのイエスの言葉を伝えています。これらは、イエスご自身が 書き残した言葉ではなく、イエスは、こんな状況の時に、誰々に向かって、このよ うに話された、という形で伝えられています。ですから、イエスの言葉は、言葉の 意味だけではなく、どのような状況で、誰に向かって、どのようなニュアンスで語 られたのかを考え、推し量ることでより深く味わうことができると思います。 わたしたちはイエスの言葉を聞くときには、イエスが語っている現場に立ち会っ て聞かなければなりません。イエスに付き従った群集の一人として、その場にいる 者の一人として聞かなければなりません。イエスの言葉はその言葉が語られた現場 でこそ生きているのです。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりで収税所に座っているレビに声をかけます。「わ たしに従いなさい。」イエスの声に立ち上がったレビの家に行き、一緒に食事の席 につきます。 ファリサイ派の律法学者は黙っていられない。弟子たちに嫌味を込めて言いまし た。「おまえたちが先生と言っているあの男は、どうして徴税人や罪人と一緒に食 事をするのか。」イエスはこれを聞いて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではな く、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くた めである。」さあ大変、イエスは、「わたしは罪人を招くために来た、徴税人を招く ために来た。」と宣言してしまいました。これはファリサイ派に対する痛烈な批判 にほかなりません。一緒に食事をしないことはもちろん、はっきり徴税人を差別し、 排除するファリサイ派の人々に対して挑戦状をたたきつける気配があります。イエ スは正しい人は招かないと言っているのです。これには弟子たちも驚いたかもしれ ません。しかし、この現場で立ち会っていた者であればこそ、イエスがどんな思い でこんなことを言ったのか察したことでしょう。 (関 玖仁男)


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