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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-29 18:23:35 (40 ヒット)
週報巻頭言

近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に 名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、 エッサイはダビデの父である。 (ルツ記 4 章 17 節)
最近読んだカロリン・エムケさんの『「憎しみに抗って」−不純なものへの賛歌−』か ら下記の一節を引用させていただきます。 「ファナティスト(熱狂主義者)の教条主義が依存しているものがあるとすれば、それ は一義性だ。ファナティストは『均一』の民衆、 『真の』宗教、 『根源的』伝統、 『自然な』 家族、『適切な』文化といった純粋な教義を必要とする。異議も多様性も矛盾も認めない パスワードとコードを必要とする。 −中略− 均一で純粋な国家は、まず初めに『異 質』『敵』『虚偽』と断罪されるものを排斥してからでなければ成り立たず、したがって 決して安定をもたらすものではない。本質主義的な意味で使われる『共同体』という概 念は、安全も安定ももたらしはしない。」 カロリン・エムケさんは、こう語ったあとに、「だからこそ不純で多彩なものを支持す ることが大切であり、また社会(集団)にとっては、本質主義的要素、つまり均一で「純 粋」な要素が少なくなればなるほど、他者と同じでなければならないという強制も弱ま り、むしろ安心し、安定する」という主旨のことを書いています。他者の多様性を尊重 することは、その人の個ばかりでなく、自分自身の個も守られるからだと言うのです。 さて、ダビデの系図とかイエスの系図、というと何かしら純粋性とか正当性を立証し ようとしているように考えがちですが、ルツ記の物語そのものが、そしてそれを包括し たマタイ 1 章のイエスの系図そのものが、決して純粋や正統を証明しようとしているも のではなく、むしろ歴史がたどったそれぞれの時代の中で「不純」とか「不義」「不浄」 と烙印を押された人々との交わりや繋がりを、隠すことなく記しているものであること がわかります。そのように、聖書が光を当てる「人の繋がりの歴史」から、私たちは「宣 教」のダイナミズムを学ばねばなりません。教会とて、自らを「純粋にしよう」「正しく あろう」とすればするほど、実は不安定になります。むしろ、異質なもの、不純なもの、 駄目なものを抱えた個と出会い、つながり、多元的、複数的に生きることに自らを開く とき、実は自分も安心でき、安定性と持続性のある交わりをつくりあげていくことがで きるのであって、教会の「活路」はそこにあるのではないか、と感じるのです。吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-22 20:08:09 (60 ヒット)
週報巻頭言

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻 に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (創世記 2 章 7 節)
神ヤハウェがこの世界を創造したとき、その最後に人間をお造りになりました。それ は神の天地創造の決定的な喜びでした。神の息を受けるもの、神の想いを受けとめ、神 に向かい合って生きる存在を世界に据えたのです。また、人が独りで神と向かい合うだ けではなく、神と人が息を交わすように、人と人とが息を交わし合い共に向かい合って 生きていくようにと、骨と骨・肉と肉を分けあう他者として、人格を異にするパートナ ーを造られたのです。この「異なる者が向かい合って生きる」という「かたち」こそが 「神のかたち」「神の似姿」でした。 にすがた 人間は神から自由と使命を託されました。「園のすべての木から取って食べなさい。」 人間に生きる糧を、それもどの木から取って食べても良いという自由をお与えになりま した。と同時に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。すべての生き物を支配せ よ(豊かに保て)」という使命を与えられたのでした。望外の祝福、望外の幸せです。神 と人が向かい合い、人と人とが共に生き、そして神さまのお造りになった世界を「祝福 の世界」として満喫し、喜び、賛美して生きる。この調和と豊かな依存と賛美の世界が、 「エデンの園」に言い表される神の祝福の世界なのです。ただし、神さまは、「許可」と 「使命」に合わせて、人間に明確な「戒め」と「禁止」を備えられました。それが、園 の真ん中の二本の木、すなわち<命の木>と<善悪を知る木>の実からは取って食べて はならないという戒め(禁止)でした。なぜでしょうか? どういうことでしょうか? それは、命を生み出すこと・命を与えることと、善と悪の判断をすること、このこと は神の業・神の領域であって、人間がそれを自分の手に握ろうとしてはならないし、そ れはできないという、はっきりとした(人間の)限界設定なのだと思います。 しかし、人間はこの善悪を知る木の実を取って食べるのです。それは、人間自身が神 のようになろうとした、という出来事です。神の似姿(創り主をおぼえて生きる、その にすがた ような神にかたどってつくられた)としてつくられた人間が、 「神のようになろうとした」 のです。そしてそのことによって、人間は、自分が真ん中になったと思ったとたん、実 に創り主を失い、まさに真ん中から離れ、エデンを追われていくのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-15 18:09:51 (80 ヒット)
週報巻頭言

確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によっ て味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられる だけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。 (ルカ14:34-35) 東日本大震災から8年6か月。復興支援の歩みの中で、また教会形成の歩みの中で、私 は、聖書の言葉が新しい命をもって心に響いてくる経験をしてきました。その聖書の言 葉の一つが、今回の礼拝で分かち合わせていただく、ルカによる福音書14章34-35節の 言葉です。 この塩の話は他の福音書にも記録されていますが、ルカによる福音書の塩の話は、他 の福音書と少し違う書き方になっています。ルカでは、塩の話は非常にシンプルになっ ていて、さらに「聞く耳のある者は聞きなさい」というイエスさまの問いかけで終わっ ています。イエスさまは、「何を聞きなさい」と言っているのでしょうか。震災を通し て、私は、このルカの塩の話は、「役に立たないものとして投げ捨てられた塩の叫び」 がテーマとなっているのではないかと考えるようになりました。投げ捨てられた塩の 叫びを、私たちは聞かなければならないのです。 確かに塩は良いものです。味を付けることができ、食品の腐敗を防ぐこともできる。 人間になくてはならない栄養素の一つでもあります。今も昔も大事にされ重宝されて きた塩。しかし、いざその塩から「塩気」が取り去られてしまったら、「役に立たない もの」と見做され捨てられてしまう、この落差。私たちは通常、塩の「存在」自体を尊 んでいるわけではなく、「塩気」という「能力」を尊んでいるだけであり、もしその塩 から「塩気」という「能力」がなくなってしまったら、人々はその塩に何の価値も見出 せずに、「もういらない」と平気で外に投げ捨ててしまう。この悲しみと問題性をイエ スさまは示し、私たちに問いかけているのではないでしょうか。 「人や社会の役に立ちたい」と願うことは大変尊いことですし、素晴らしいことで す。しかし同時に心に留めておきたいことは、「役に立つこと」を何よりも優先する価 値観に生きると、「役に立たない」と見做された他者の命を軽んじ、時には自分の命を も軽んじてしまうことがあるということです。人間の価値は、人の役に立つとか社会の 役に立つとかで決定されるものではありません。塩から、たとえ塩気がなくなったとし ても、私たちの神はその存在自体を深く愛しておられます。人々が取るに足らないと見 做すものや人々が投げ捨てるものを、神は拾い給う!その希望と慰め、そしてチャレン ジを受けてこの世を歩み直したいと願います。 仙台長命ヶ丘教会牧師 金丸 真


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-08 22:43:10 (80 ヒット)
週報巻頭言

わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まり ます。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。 (ルツ記 1 章 16 節)
【敬老感謝礼拝に寄せて】 “白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる”箴言 16 章 31 節 日の出とともに農場で働き、日没とともに家に帰り、親子三代の家族が大きな机を囲 んで夜の時間を過ごす。そうした農夫の家族が、一年に一度「家族写真」を撮っていま した。祖父母を真ん中に、家族がぐるり囲んで写っている写真です。そのような写真が、 以前の典型的な家族写真の構図でした。やがて、工場がつくられ都市が形成されました。 この農夫たちの家族も都市へと移り住みます。合理化された工場で、父が働き、兄が働 きました。収入は安定していきました。ところが、一年に一度撮り続ける写真の構図は 明らかに変わってしまったのでした。父が真ん中、そして母と兄。子どもたちが囲み、 はしっこに祖父母が写るようになっていたといいます。 20 数年で教育を終え、40 数年生産し、65 歳で引退、あとは“余生”。戦後、復興と経 済成長期に急速につくられ、多くの日本人がそのように当てはめられてきた枠組みや価 値観は本当にそれでよかったのでしょうか。 機能性、合理性、生産性が価値観となる世界では、中心は元気に働く者であり、次に その予備軍、周辺に引退者という位置取りになってしまいます。でもそうした構図はち っとも優しくありません。温かくありません。教会はどんな「家族写真」を撮りまし ょうか。 「超高齢社会」と定義される時代を生きる以上、当然のことですが教会もまた高齢者た ちがたくさん生きている場になります。それはほんとうに豊かな風景です。「高齢者」と いう名前の人はいないので、そこにおられるのは 齢 を重ねられたお一人ひとりです。そ よわい のように人生を長く歩んだ方々がいる場には、生への慈しみと命の深みが満ちています。 キリスト教信仰の核心は「復活信仰」です。復活の福音から人生の苦楽を再解釈する 人生観です。そこでは、労苦に新しい意味が聞かれ、また語り直されます。生も死も、 喜びをも苦悩をも包み込みながら注がれる主の祝福を、子どもたちもいっしょに、その 交わりの中で味わっていきたいものです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-01 23:30:40 (76 ヒット)
週報巻頭言

く び き わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは 安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから である。 (マタイ福音書 11 章 29-30 節)
まずは、 軛 とはどのようなものかについて二種類の辞典から紹介します。 くびき ◇『新明解国語辞典』 軛(「頸木クビキ」の意)車の轅(ナガエ)の先に取り付ける横木。 牛馬の頸にあてて車を引かせる。広義では、自由な思考・行動を束縛するものの意にも 用いられる。例「圧制の軛」 ◇『聖書辞典』(新教出版社) 牛、ろばなどの首 につけて、鋤、車を引かせるために使用する木製 軛のイラスト の道具(民19.2)。頑丈な横木の下方にくぼみを作 るか、4本の堅棒を差し込み、下端を縄で止めた。 軛 を共にする二頭の牛を「軛の牛」と呼んだ。 くびき 福音書には苦しい荷車、悲しい荷車を引っ張りながら生きている人々がたくさんいて、 主イエスの前に登場しています。否、むしろ主が、重荷を負わされ失われかけている人 々のところに進んで行かれたからでしょう。その出会いを通して、目の見えない人は開 かれ、人々から遠ざけられてきた病人は交わりに復帰し、孤独で貪欲であった徴税人が 他人の為に働くようになり、38 年間寝たきりの男性は床を取りあげて歩き出します。鎖 でしばりつけられ、自分で自分を傷つけていた人物は自分を大切にできるようになり、 長年出血に苦しんできた娘の出血はおさまり、生きるために仕方なく身を売って生活し ていた女性が呪われていた人生に解放を見いだすのです。 それは主イエスが触れられたからです。「生きる」という事にずしりと伴う個々の荷車 に軛を渡し、その片方に自分の頸を突っ込むように共感されながら伴われたからです。 その時、イエスの力が一人ひとりに流れ込んだのだと思います。主イエスは「共苦」さ れる方です。主はまず「その人」と、その人が引く荷車の意味と重さと辛さを知られま す。そして「その人」を慈しまれます。「自己責任だ」と放置しない。「その重荷の責任 はいまの政治にある」と言って別の問題にもしてしまわない。その人の隣で、その人の 「軛の人」となられるのです。そうです。このわたしにもそうなのです。主イエスとわ たしとは「軛の牛」ならぬ「軛の人」の関係となったのです。 吉 叶


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