はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-06-18 18:00:00 (69 ヒット)
週報巻頭言

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:21)

紀元49年ごろ、ローマにいたユダヤ人キリスト者はこれに反対するユダヤ人との衝突をきっかけに皇帝の命により追放され、教会に異邦人の信者だけを残してローマを去りました。5年後、ネロの即位と共に追放令が解除されると帰って来て再び伝道に取り組みますが、生活の再建も困難なら、すっかり異邦人化した教会に再び溶け込むのも容易ではありません。異邦人の側も、帰って来たユダヤ人たちがまた問題を起こすことを恐れています。教会の一致を回復させる薬は、偽りのない愛しかありません。10節をはじめ多くの勧めはユダヤ人と異邦人の双方に向けられていますが、13節と15–16節は異邦人への呼びかけ、14節と17–21節は迫害を経験したユダヤ人への呼びかけです。「燃える炭火を彼の頭に積む」(箴言25:22)は公に悔い改めるエジプトの習慣に由来し、敵対する者に好意を示すことで相手を悔い改めさせよという意味でしょう。悪にうち勝つには善による以外にないのです。
 何かと物議をかもす13章1–7節もこの文脈と背景のもとで理解する必要があります。パウロに「今ある権威はすべて神によって立てられたものだ」とまで言わせるのは、セネカのような賢臣に助けられたネロ帝初期の善政です。ユダヤ人キリスト者が再びローマで伝道できるようになったのもネロのおかげでした。他方、権威に従うことは支配者も愛すべき隣人のひとりであることに根拠を持っています。
 しかし、支配者が善を行う者にとっても恐ろしい存在になることがあります。パウロが予想もしなかったことに、数年後にネロは暴君に早変わりし、パウロ自身は処刑され、ローマのキリスト者も再び苦難に遭うことになりました。パウロはあまりにお人よしであったと見るべきでしょうか。むしろ徹底的に愛に生きようとしたのだと言うべきではないでしょうか。「あなたの権威は神に由来するのでしょう? あなたは神に仕える者として務めに励んでいるのでしょう? それならば神に仕える者らしくしましょうよ」と説得するきっかけさえここには含まれていないでしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-06-11 18:00:00 (52 ヒット)
週報巻頭言

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテヤ6:8)

自分たちが霊的な者だと言うなら、人が何かの罪に陥ったとしても、柔和さの霊(5:23参照)をもって正すことができるはずだ、とパウロは言います。霊的だと自認する指導者たちが過ちを犯した者をしかりつけることが多かったのでしょう。実際には、そういう人ほど誘惑に弱かったりします。だから互いに重荷を担うこと、つまりお互いに欠けのある罪人どうしとして相手の悩みを共有することが大切なのです。それは他者の過ちを正すという場面に限りません。そのようにすることでキリストの律法が全うされる(5:14参照)と言うのですから、互いに重荷を担うことは隣人愛そのものなのです。わたしたちに問われているのは、過ちを犯した人をどう正すかという以上に、むしろ自分をどう正し、どう高慢を克服するかです。人はだれしも実際には何者でもありません。「自分に対してだけは誇れる」とは、そういう自分をそれでも肯定し、同時に他者に対しては謙虚を保つことを言うのでしょう。5節は2節と矛盾するようですが、未来形で終わりの日にたったひとりで神の前に立つことを指しています。
 霊の実は、みことばを教える人の生活を支えるという形でも現れてきます。しかしここでも問題は終わりの日と永遠の命を展望する生きかたへと直ちに一般化されます。まいたものは刈り取らねばなりません。人間が抱える弱さや罪深さを肥え太らせていくのか、霊を生き生きと健やかにしていくのか。この二つに中間はありません。8節で「肉」だけが「自分の」で限定されているのは、霊に生きる者は利己心(5:20)から解放されているからでしょう。世の終わりに手にする実りを楽しみに、今はたゆまず善を行い、飽きずに励もうではありませんか。
 その善は、すべての人に対して行うべきものですが、特に信仰上の家族=キリスト者に対する善が最後に強調されています。パウロは俗世間を離れて聖なる世界に生きたがっているのではありません。異邦人キリスト者の信仰を否定し、割礼を押しつけるのは愛ではないから、長々と書きつづってきたのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-06-04 18:00:00 (58 ヒット)
週報巻頭言

あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)

キリストを信じた異邦人に割礼は必要ないことを、イエス・キリストを通しての無条件の救いという視点から論じてきました。ここからは、この大きな恵みを受けた者がどう生きるかが述べられていきます。え、無条件ではなかったの、と思われますか? 救われるために善行をすることは無意味です。しかし、神によって義とされるという大きな愛を受けた人の生きかたがその後も何も変わらなかったらおかしなことです。その人は神を愛し隣人を愛する喜びを取り逃がしているのではないでしょうか。それでは、救われるために律法に従おうとして、かみ合い、共食いし、うぬぼれ、互いに挑み合いねたみ合うに至ったガラテヤの人々と変わりません。
 霊によって歩む以外に出口はありません。肉、すなわち人間の弱さは律法を通してあなたを操るだけでなく、さまざまな悪しき業に導きます。19–21節に挙げられる15の悪徳のうち、敵意からねたみまでの八つが教会内の争いに関係していることは、これがガラテヤの諸教会の最大の課題だったことを物語ります。そうした業から解放されるためには、ぜひとも聖霊の助けが必要です。麦や果実がおのずと実を結ぶように、愛、喜び、平和などの実も聖霊を受けた人の内面におのずと結ばれます。そうすれば結果として律法で禁じられていることをする心配もないのですが、律法を守って立派な人になろうとするのではありません。イエスが十字架につけられたからこそ、イエスのものとされたわたしたちも自分の弱さを十字架につけてしまうことができるのです。ただし、これらの実は聖霊からいただいたものですから、うぬぼれることも他者を見下すこともできません。
 聖霊に導かれて生きられることはすばらしい恵みですが、いただきものであることを忘れると教会に分裂をもたらすおそれがあります。イエスは主であると告白した人はだれでも聖霊を受けています(第一コリント12:3)。しかし、愛、喜び、平和といった実を結ぶという宿題に完成はないでしょう。聖霊の恵みを感謝することも、謙虚に自己を振り返ることも大切なのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-05-28 18:00:00 (66 ヒット)
週報巻頭言

もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。(ガラテヤ5:2)

「罪の奴隷であった人間がイエス・キリストの信仰を通して自由にされ、神の子、相続人とされたことを聞いてきました。それなのに、ガラテヤの人々はこの貴重な自由を投げ捨てて律法の奴隷になろうとしています。割礼を受けるか受けないかは、律法を行うことで神に自分を認めさせるかイエス・キリストが示された神の恵みに身をゆだねるか、人の業による救いか神による救いかの選択を意味します。この二つの道に中間はありません。割礼を選ぶことはすなわちキリストを選ばないことなのです。律法全体を行って一つのまちがいも犯さなければ、救いの希望もあるでしょう。パウロは最初その道を取りましたが、高慢と差別に陥っている自分に絶望するしかなくなりました。そのときキリストの大きな恵みを知り、百八十度歩みを転換したのです。二つの道に中間はありません。聖霊にあって信仰に基づく希望、すなわち義の希望を待ち望めとパウロは勧めます。割礼の有無ではなく、愛を通して作用する信仰にこそ救いの力がある――このことばで2:15以下の長い議論が結ばれます。
 ガラテヤの人々がキリストの信仰に頼る生きかたを捨て、割礼に頼ろうとするようになったのはなぜでしょうか。邪魔をした連中がいたからです。わずかなパン種がパン生地全体を発酵させて除酵祭に使えないものにしてしまうように、律法が信仰かというたった一つのことが教会全体をキリストにふさわしくないものにしてしまうのですから、堅く立たなければなりません。そして彼らはそうするでしょう。それ以外の福音(1:6–7)は彼らの念頭にないことにパウロは主にあって信頼しています。割礼を勧める連中は、パウロだってかつては割礼をのべ伝えていたのだと宣伝していたのかもしれません。しかし、パウロがなお割礼をのべ伝えているのなら、迫害を受けるはずはありません。それをやめたからこそ迫害を受けており、十字架のつまずきを身に負っているのです。
 あなたにとって失ってはならないものとは何でしょうか。ほかに何もなくても大丈夫なものとは何でしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-05-21 18:00:00 (59 ヒット)
週報巻頭言

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。(ガラテヤ4:22)

「語調を変えて話したい」と願うパウロですが、律法を支えにして生きるか神の恵みに信頼して生きるか、言い換えれば律法の奴隷か自由な相続人かという問題についてなお論ぜずにはいられません。律法を振りかざす相手には律法の土俵で論じましょう。イスラエルの祖先であるアブラハムは、まず女奴隷ハガルによってイシュマエルをもうけ、次いで100歳のとき妻サラにイサクが生まれます。神の約束の成就です(創世記16, 21章)。イシュマエルの子孫はアラブ人、イサクの子孫はユダヤ人で、アブラハムの跡を継ぐのも後に律法を受けるのも後者ですが、パウロは「ハガルは今のエルサレムに当たる」と意外なことを言いだします。
 律法は人を奴隷にし、神の恵みの約束は人を神の子とするとパウロは考え、アブラハム一家の物語に神と人間の二つの契約という「別の意味が隠されている」と解釈します。ハガルはアラビア(語)ではシナイ山を意味するから(確かにアラビア語に岩、石といった意味のハジャルという語はあるが、少々苦しい)女奴隷ハガル→シナイ山→そこでモーセが受けた律法→肉の行い(割礼)→人間の奴隷化→女奴隷の子、と話がつながるのです。実際、律法の行いによる義を頼んでイエスを信じない「今のエルサレム」はローマの奴隷にされています。これに対してキリスト者こそ自由な女から生まれた子であり、シナイ契約を超える新しい契約に属する「天のエルサレム」の子らです。天のエルサレムは、イザヤ54:1のことばで祝福されます。しかし、イシュマエルが幼いイサクをからかったように、今もユダヤ人がキリスト者を迫害しています。
 それでも、キリスト者はやがてエルサレムを相続するでしょう。聖書が約束しているからです――と言って引用する創世記21:10は神の命令のように聞こえますが、本来はサラのせりふです。母が奴隷だから子も奴隷と決めつけてよいのかという疑問も残ります。結局これは24節に言うように一つのたとえであり、その趣旨は自由という貴い贈り物を投げ捨てるなということに尽きるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 10 »
市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム