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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-04-30 18:00:00 (65 ヒット)
週報巻頭言

神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(ガラテヤ3:9)

「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。何という大きな恵みでしょう。しかし、ガラテヤの人々はどうでしょうか。神を知らなかった昔、神でない神々、無力で頼りにならない「諸元素」の奴隷だったのはしかたがないとして、神を知った、というより神に知られている今、どうやって「諸元素」の支配のもとに逆戻りしようとするのか、とパウロは問いかけます。ギリシャ人は火・風・土・水を世界のあらゆる物質の根源と考え、これらを崇拝する人もいました。その影響を受けたユダヤ人の中には、律法こそ世界の根底をなす諸元素だと説く人が現れました。「いろいろな日、月、時節、年などを守っている」とされるガラテヤの人々も、安息日(出20:8)、新月(アモ8:5)、過越祭や仮庵祭(申16:1–17)、安息年(出23:11)などの律法とギリシャの哲学とを融合させようとしていたのでしょうか。
 パウロは「あなたがたのことが心配だ」と言います。彼らに福音を伝えたのは、奴隷の立場から解放されて神の子らとしての自由を得てほしかったからです。それなのに再び諸元素の奴隷に逆戻りすることも、割礼を受けて律法の奴隷になることもいとわないガラテヤの人々。救われるためならだれの奴隷になってもいいと言う彼らは、イエス・キリスト以外のだれにも人を自由にし、安心させることはできないことを皮肉な形で実証しています。
 なぜ日や月や時節や年を守ることに頼ってしまったのでしょうか。科学的知識が乏しかったためもあるでしょう。しかし今日のように科学的知識が普及しても、将来のことをすべては見通せませんし、不安が完全に消えるものでもありません。だからと言って魔術的な方法で諸元素を操り、自分に都合よく動かそうとすべきではありません。世のすべてを支配しておられるのは諸元素ではなく神なのですから、そんなことをするのは自分を神の上に置くに等しいのです。ひとえに神に頼ることがどうしても必要ですが、この単純なことがとても難しいようです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-04-23 18:00:00 (55 ヒット)
週報巻頭言

既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 (ヨハネ21:4)

弟子たちもまた動き始めました。まずは、閉じこもっていたエルサレムの隠れ家から扉を開いて出発したのです。とは言うものの、新しい人生の明確な手がかりをまだ掴むことができない弟子たちが、ガリラヤのティベリアス湖畔で夕暮れを迎えています。
 思えば、この湖の岸辺から全てが始まったのでした。ここで、あの方と出会ったのでした。「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」あの言葉に惹かれて、この数年間の歩みを始めたのでした。ペトロたちは、ふたたびこの湖のほとりに立ち、水面をながめ、舟を見つめています。
 あの方に従ってきた、けれど従い続けられなかった。あの方を愛していた、しかし最後は捨ててしまった。あの方の言葉に心が燃えた、だが勝手な思い込みだらけだった。そして受け容れがたい十字架。主の絶命。全てが砕け散った。もうだめだと思った。
しかし主はよみがえって生きて顕れてくださった・・・。それまでのことを振り返りながら弟子たちの心は揺れています。「見えるようで見えない。」「確かめようとしても打ち消される。」「打ち消されるのだが、まだ終わっていない。」「もう見ないでいようとも思うのだが、よみがえりの主がまぶたに焼き付いている」。漁師に戻るべきなのか。いいや、「人間をとる漁師にしてあげよう」あの招きがまだ続いているのか。だとしても、それはどんな風に生きることなのか。こんな自分が、どう生きればそんな漁師になれるというのか。寄せては引き、引いては寄せる波。岸辺の波うち際のように、一つの思慮が押し流され、満たされかけた水辺がまた引いていきます。
 ペトロは、思わず舟を出します。手応えを何かに求めて。弟子たちも舟に乗ります。これからどう生きるべきかを知りたくて。日が暮れた闇夜の水面に、彼らはむさぼるように網を打つのでした。無我夢中に。
夜通しの虚しい投網の末、手応えを得られぬまま夜明けを迎えた弟子たちが、闇夜が払われる朝の光の中に見たものは、岸辺にたち、語り掛けてくださる復活の主イエスだったのです。(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-04-16 18:00:00 (61 ヒット)
週報巻頭言

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

ローマ総督ピラトの暴虐によって、イエスの神の国宣教は挫折したかに見えました。しかし、イエスはよみがえられました! そしてガリラヤに戻ってもう一度弟子たちを集め、宣教を再出発させられます。マタイはイエスがどんなお姿だったかを語らず、ひれ伏しつつ疑いも捨てきれない弟子たちだけを描きます。しかし、イエスは近寄って来て語られました――「わたしは天と地のすべての権能を授かった」。天と地の一切の権能は、イエスを反逆者として十字架につけたローマ皇帝と総督にあるのではなく、無惨にも十字架につけて殺された方にあるのです。人間の歴史の中で、善悪がこんなにも完全に逆転したことはありませんでした。イエスに出会った者の生きかたもまた変わらざるをえません。
 そのことは、イエスが弟子たちに与えられる新たな委託に表現されています。イエスはイスラエルの失われた羊のところへ行って「天の国は近づいた」とのべ伝え、病気や悪霊に苦しむ人々を助けるというかつての委託(10:6–8)を一歩進めて、イスラエルだけでなく「すべての民族を」、のべ伝えるだけでなく「弟子にしなさい」と言われました。弟子にするとは、バプテスマによって教会の一員とされ、イエスの命じられたすべてのことを守る新しい生きかたに招くことであり、これが十一人の、ひいてはすべての弟子の、務めなのです(植民地支配と結びついた世界宣教や他宗教の否定は反省されなければなりませんが)。
 イエスは世の終わりに再び地上に来られることを約束されました(24:30–31)。しかしそれまで弟子たちはひとりぼっちではありません。すでにこの日から、すべての日々にイエスが共におられるのです――「神われらと共にいます」という預言の成就として世に来られた方(1:23)、徴税人や罪人と共におられた方(9:11)が。だからわたしたちは安心していられます。苦しみを避けられないこともあるでしょう。それでもわたしたちは父と子と聖霊の所有であり、主の命じられたことを一心に守ることができます。主が共におられるからです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-04-09 18:00:00 (54 ヒット)
週報巻頭言

そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(マタイ27:5)

ユダがイエスを裏切ったとは具体的にどういう行為に及んだのか、福音書には漠然としか書いてありませんが、おそらく祭司長たちがイエスを逮捕しようにも日中民衆が見ているところでは騒ぎになるおそれがあり、かといって夜中に襲おうにも居場所がわからなかったところへ、ユダが夜の隠れがに導き、暗がりで本人を指し示そうと持ちかけたのでしょう。ただし「銀貨30枚」はゼカリヤ11:13を下敷きにした肉づけと見ざるをえず、史実とは考えられません。ましてユダがなぜイエスを引き渡したのかに至っては、イエスにしいてダビデの子として力を振るわせようとした、救いを成就させるために必要だと見抜いていた、全人類の罪の象徴など、さまざまな説明が試みられましたが、皆目わからないというのが結論です。
 きょうの聖書では、イエスの有罪判決を聞いて後悔したユダが「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言って祭司長たちと長老たちに返しました。あわてたのは祭司長たちです。共犯者が名のり出れば自分たちの立場が危うくなると思ったか、彼らは「われわれの知ったことではない」と知らぬ顔を決め込みます。そこでユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました(これも神のものである命を勝手に処分したのか、絶望的な状況で名誉を保つ行為なのか、神罰なのか不明です)。祭司長たちはその銀貨を外国人墓地の購入に充てるしかありませんでした。
 このユダの行為を、マタイは律法に基づく罪の償いの手続きとして描き出しています。ユダの罪はすでにゆるされていると見ているようです。教会の伝統の中では悪人中の悪人とされ、ユダヤ人差別にもひと役買ったユダですが、マタイの描写は人間を100%の善人と100%の悪人に二分することを許しません。にもかかわらず、ユダは人の心に潜む憎悪をぶつける標的にされたようです。世の人を善玉と悪玉に分け、悪しきでき事の原因を異質な存在に求めようとする衝動はだれにもありますが、教会はその心のやみを乗り越えようと呼びかけられています。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-04-02 18:00:00 (56 ヒット)
週報巻頭言

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:28)

パウロは、なぜ割礼を受けてユダヤ人にならなくてもイエス・キリストの信仰だけで義とされるのか、なぜその人たちがアブラハムに約束された祝福を受け継ぐと言えるのかを旧約聖書に基づいて論証したあと、律法の行いよりも信仰が大切なら、なぜ神は律法をお与えになったのかという問題に進み、律法で人を生かすことはできないが、罪の支配下に閉じ込めることはできる、その結果キリストの信仰によって神の約束が信ずる人々に与えられることになったと説明しました。きょうの段落は、この過程を子どもの成人にたとえています。
 信仰が現れる前、つまりキリストが来られる以前には、律法がわたしたちを縛っていました。といっても、それは啓示されようとしている信仰に導くため、キリストのもとへ導くためです。それは富裕な人が奴隷に子どもを養育させるようなものです。養育係は口うるさいかもしれませんが、親の愛の表れです。律法もわたしたちを縛りますが、神の愛から出たものではあるのです。しかし、成人すれば養育係の役目は終わります。キリストが来られたとき、わたしたちはその信仰を通して神の子となったから、キリストを着たからです。衣服が人体を寒さや直射日光から守ると同時にその人の人格をも表現するように、わたしたちは世の荒波の中でキリストに守られ、キリスト者であることを第一にして生きます。ユダヤ人だギリシャ人だ、奴隷だ自由人だ、男だ女だと区別を立てる必要はありません。わたしの中でキリストが生きておられるのですから、わたしたちはキリストにあってひとつの人格です。だから必然的にアブラハムの子孫であり、跡取りです。
 相続人が成人するまでは後見人や管理人の監督に服するように、信仰が現れるまではわたしたちも世の諸霊に隷属していました。しかし神のみ子がお生まれになると、律法のもとからあがない出されて神の子とされました。神を「アッバ」(おとっつぁん)と呼ぶキリストの霊がわたしたちの中で生きています。この方がわたしたちを奴隷から子へ、一つの人格へと変えてくださったのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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