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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-08-16 15:41:11 (141 ヒット)
週報巻頭言

もはや隠し切れなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチ
で防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
(出エジ2:3)
イスラエルが、エジプト脱出に踏み出した時代の状況が、出エジプト記の1章に記さ
れています。ヤコブの子どもたちがエジプトに移り住んで以来、長い年月が経ちました。
エジプトの支配勢力は取って代わられ、ヤコブの子ヨセフがエジプトに与えた功績もエ
ジプトを恵まれたイスラエルの神への尊敬も全く払われない時代が訪れました。強大な
軍隊と大都市建設によって世界に君臨することを望む冷徹な国家エジプトのもとで、イ
スラエルの民は今や奴隷として強制労働の苦しみに喘いでいました。それどころかイス
ラエルの民の人口増加を恐れたエジプト王ファラオは、新生男児虐殺の政策を採用し、
労働力をコントロールしようとします。
このような残酷非道な支配は、歴史に時に出現する現実でもあります。血も涙もない
身勝手な人間利用、調整という名のもとでの殺戮や排除。創造の神への畏敬(生命への畏
敬)を捨て、自らが神として君臨し、いのちに価値づけを行おうとするこの世の王。その
欲望は肥大化し、常に大きな権力、大きな謀略、大きな暴力を振るいます。人々は、そ
の膨張した力に怯え、ものが言えなくなり、従うばかりになっていきます。
けれども、まさにそのような中に、別の現実が動き始めます。気が付かない動きで神
の業は始められます。小さな人間たちの小さな手を用いて、神は働き始められるのです。
神の働きを受け取ったのは数人の女性たちでした。ファラオの娘を除いて、みな名もな
き女性たちです。召使いとしての助産師たちであり、一人の赤子の母であり姉でした。
ただし彼女たちに共通しているものがあります。「神を畏れ、いのちを殺すことができな
い人々であった」ということです。
彼女たちにはできませんでした。手の中に取り上げるいのちを殺すことができなかっ
たのです。神の創造の業の現場である分娩台の上で、いのちを殺すことができませんで
した。神の祝福を無垢に受け止め安らいでいる赤ん坊を、川に投げ込んで殺すことがで
きませんでした。ファラオの命令と罰はもちろん怖い。しかし彼女たちは、それ以上に
神を畏れたのです。彼女たちは、何も出来ないという弱い人間でありながら、堂々とフ
ァラオとたたかっていきます。彼女たちの「武器」は、神を畏れる心と、何もできない
弱さと、いのちのために機転を利かせていく知恵だったのです。【吉盂陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-08-09 09:22:30 (126 ヒット)
週報巻頭言

 私たち人間の欲望から始まる言い争いの向こうに対抗や敵意があり、対抗や敵意の向こうに剣と槍があり、剣と槍の先に銃と大砲があり、銃と大砲の先にミサイルと爆撃機があり、ミサイルと爆撃機の先には核兵器があります。核兵器の先には・・・もう何もありません。
 アメリカの科学誌「原子力科学者会報」は今年7月23日、地球滅亡までの時間を示す「終末時計」の針が昨年より20秒進んで残り100秒となり、1947年の開始以来、最も終末、破滅に近づいたと発表しました。核拡散、気候変動対策の遅れ、サイバー空間における偽情報の広がりが原因です。また時の指導者、トランプさん、習近平さん、プーチンさん、安倍晋三さん。「終末時計に関係する国々」の指導者たちに共通した「権力欲」と「好戦的な体質」がとても危険なのです。超大国の対抗と敵意と、火に油を注ぐ政治家たちの存在によって、核をめぐる破滅的な過ちを引き起こす可能性が非常に高まっています。しかも、はるか遠くの国々、強国の争い、それはそれがもたらす破滅は、私たちの身近な経済生活、政治の在り方と直につながっています。

 歌詞カードにはミカ書4章3節のみを記させていただきましたが、司会者には1-3節を朗読していただきました。1節の「終わりの日に」と呼びかけられて始まる預言のフレーズです。けれども、この「終わりの日」とは決して冒頭で語った核戦争による破滅の日のことではありません。やがて主ご自身がこの世界を締めくくられる時のことで、「神が天地と生命をお造りになったときに抱いておられた神さまの本意が示される」という展望の下で、この預言は語られているのです。そこで心に留めたいのは「終わりの日」に締めくくられるみこころこそが、神の「初めからの心」なのです。それゆえに、私たちは「初めからの神の心」を、今知り直し、取り戻すことによって、人間の愚かさが生み出してしまう「ただの破滅の日(虚しい破滅の日)」を抑止していかねばならないのです。
 終わりの日には、神は多くの民の争いを裁かれます。
 終わりの日には、神は、はるか遠くまでも、強い国々を戒められます。
 終わりの日には、人間は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
 終わりの日には、国は国に向かって剣を上げす、もはや戦うことを学ばないのです。
 これが、初めからの神の人間へのみこころです。これが神の人間への初めからの要求です。神は、かならず、このみこころのかたちで世界を締めくくられます。争いといくさをさばき、争いといくさの中で奪われていった無辜の民のいのちを慰められます。終わりの日がそうであるからこそ、わたしたちはわたしたち自身が生きている、この今というときを、その神の要求を満たしていきるように努めていきたいのです。
 神がしめくくられる平和に向かって、今を生きようとするなら、そこに平和の道が生まれます。この平和の道を歩むこと、この道を行こうとすることが、神の要求に対するわたしたちの誠実であります。
◇神はわたしたちに求めています。「剣を打ち直して鋤に変えなさい。槍を打ち直して鎌に変えなさい。相手に向かって、他者に向かって、他国に向かって剣を上げず、戦うことを学ぶな」と。
 今から75年前に、剣と槍とで近隣の国々を蹂躙し支配してきたわたしたち日本のいくさが終わりました。単に終わったのではありません。負けて、やめさせられました。でも、勝った負けたという以前に、そもそもあの日本の引き起こした戦争は破綻する運命でありましたし、自らに滅びを引き寄せたものであったと言うべきでありましょう。
 その時、手にしていた剣と槍(それは実際には銃剣であり戦艦であり戦闘機でありましたが)、その剣と槍は、大きなるつぼに投げ込まれ、溶かされました。剣を打ち直す。槍を打ち直す。それを生活の道具に変える。社会づくりの働きに変える。それが、アジア2000万人、自国300万人の犠牲の死によってやっと悟った平和の道への第一歩でした。
 「争いの道具、いくさの道具を打ち直し、それを二度と手に取らないようにします」と誓ったのが私たち日本の憲法であり、とりわけ憲法9条でした。この約束によって、ようやくわたしたち日本は、周囲の国々から、そして神から、再出発を許され復興を遂げ、生活を豊かにしてきたのでした。
 多くの政治的指導者、経済界の重鎮たちが「今の日本の繁栄は戦後の日本人の努力だけではなく、日本のために死んでいった英霊のおかげでもある」と語ります。しかし、そうではありません。今の日本がこうして国際社会の中で生きることができているのは、あの戦争の愚かさを表明し、生き方を悔い改めて方向転換し、武器を捨てて非戦の約束をしたことと、その約束を受けとめてくれた周囲の国々の理解があってこそなのです。しかしいま、この約束と決意は、ほとんど風化しようとしています。ミカ書の言葉に深いつながりを持つ「あの約束(平和憲法)」を、あからさまにあざ笑い、葬り去ろうとしている指導者たちが、この国の運転席に長く座り続けています。
 巻頭言に先日8月6日の安倍首相の挨拶の要旨を掲載させていただき、私の率直かつ辛辣な感想を書かせていただきました。「美しい言葉の恐ろしさ」を改めて思います。「心の伴わない平和の挨拶」の暴力性に寒気をおぼえます。1954年生まれの安倍晋三さん。戦後高度経済成長の寵児のお一人です。自ら作ったわけではなく敗戦によって降ってきた民主国家を謳歌し、朝鮮半島の戦争によって始まった経済発展の恩恵に贅沢な生活を許され、祖父・岸信介さんが戦中に振り回した日本万歳史観の精神論と、戦後の資本主義が生み出す莫大な富の、その美味しいところだけ切り貼りして国家を語り、日本という国民性と永続する経済性を担保するためには「強大な軍備とそれを発動する権利」が必要なものように語り直して、憲法の改訂に先陣を切って突き進んできた。しかし、それらの人々の実体は、(麻生さんしかりですが)、権力欲と利己心に冒された野心家の群れであり、時代を演出し、国策を操る俗物たちです。平和を語る尊い言葉を拾い広める拡声器の前に、なぜ彼らが立ってあんな虚しい言葉を語っているのか。あの広島、あの長崎の爆心地で、ほんとうに発せられるべき言葉、聞かなければならない言葉は、誰の言葉なのでしょうか。
 からだにケロイドを遺され、ひきつる皮膚と心を抱え、その人生にもおそらくは深いひきつりを引きずりながらいきてきた人々。被爆地の惨劇を自分たち自身の報いであるかのように背負わされ、引き受け、悩み続けている。そのようなヒバクシャたちの重さを思うとたまらないです。
◇毎年毎年、ヒバクシャたちの証言を集めた特集がつくられテレビで報じられます。そこには、年々、年を重ねておられるヒバクシャたちの、焦りと祈りの切実な声が発せられています。これらの人々の人生こそ、誠実な歩み、戦争を繰り返さないための誠実な人生。若かりし日には竹槍をもって軍事教練に明け暮れさせられ、兵器工場の下働きや炊き出しにかり出されてきた軍国少年、軍国少女たちが、あの「戦争終結のために」とはいえども、あまりにも無残な地獄の経験を身に背負わされ、絶望の中で立ち上がり、心の向きを変え、剣を鋤に、槍を鎌に打ち替えて生きてこられたのです。盲信の愚かさ、敵意のむなしさ、戦争の残酷さを身をもって証言し、「もはや戦うことを学ばない道」を訴えて生きてこられたのです。まさに「平和への誠実な生き方」を75年間も続けてこられたのです。しかし、75年経ってもその荷を降ろすことができないのは、たった一発の原爆があれほどの地獄をつくるというのに、この地球にはその何万倍もの核兵器があり、それらの廃絶に未だに道筋をつくることができない現実が、彼らの荷を降ろすことができなくしてしまっているのです。何より、足下のこの日本社会が戦争を忘却していく。あの悲劇と悲しみを忘れ去っていこうとするこの日本の時間の中で、必死に記憶を彫りつけようとしておられるのです。もはや「過去の記憶」ではなく、「未来のための記憶」として、それを今という時に彫りつけようとしておられるのです。私たちの歴史に生きてこられたこのような「誠実な人々」を、私たちは社会をつくるための真ん中に置いていかねばならないのではないでしょうか。その残りわずかな時間しか与えられていないこの時にこそ。
 昨年、長崎原爆の日に、長崎市長がそのスピーチの中で引用された「山口かず子さん」の詩を今年も朗読して、せめて私たちの心に、平和の誠実を刻みたいと思います。

 幾千の人の手足がふきとび
腸(はら)わたが流れ出て
人の体にうじ虫がわいた
息ある者は肉親をさがしもとめて
死がいを見つけ そして焼いた
人間を焼く煙が立ちのぼり
罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた
ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった
だけど・・・
父も母も もういない
兄も妹ももどってはこない
人は忘れやすく弱いものだから
あやまちを繰り返す
だけど・・・
このことだけは忘れてはならない
このことだけはくり返してはならない
どんなことがあっても・・・
            山口カズ子(当時17歳) 長崎バプテスト教会員

◇今日は「長崎の空は」という聖公会聖歌集の賛美歌をご一緒に歌いました。この中で、殉教という言葉があります。普通ならば、戦死した人々や被爆者たちを簡単に殉教者と呼ぶことにためらいを感じます。そして感じるべきと思います。ただし、あえて平和への道のりにとって言い表すことを、その思いをもって捉えたいと思います。
 長崎であの8月9日から、浦上の小屋の中で、運び込まれる重傷者たちの医療活動に来る日も来る日もあたって来られた当時の医学生、濱 清さんの口述記録にはこのように書かれています。
「長崎の爆心は浦上の天主堂のすぐ近くなので、私が行った救護所でのほとんどの被爆者がクリスチャンだったのです。その方々が、起き上がれない人もみんな助け合って起きて、夕方になるとお祈りをされるのです。それを見たときに、初めは本当に腹が立ちました。 これほどむごいことを信者たちに与えることを許した神様がどうしてお祈りの対象になるのかと思ったんです。しかし後で考えてみると、あの人たちの祈りは、原子爆弾を作り、落とした人も含めて、人間が犯した罪に対する謝罪の祈りだったんじゃないか・・・。すべてを失った人間の、最後の最高の尊厳を見たのではないかと思うようになりました。」
 被爆の結果を身体に背負いながら、死ぬも地獄、生き残るも地獄のような瓦礫の中を、剣を鋤に、槍を鎌に持ち替えて、祈っていた人々がいる。剣を鋤に、槍を鎌に持ち替えて、生きるために生かすために、助かるために助けるために、手を尽くし、働いていた人々がいる。「平和をつくりだす人」たちです。神の子と呼ばれるべき人たちを、私たちは心に刻みたいのです。
 平和の道を行きたい。誠実に生きたい。憎しみや怒りの心と打撃の道具を、キリストの和解の命・その愛のるつぼの中で溶かされ、平和のためにこそ地獄の証言を聞き、立ち止まり、いったん言葉を失い、大切な言葉を受け継ぎ、平和のための想像力と、平和を語ることばとを用いる人間に打ち直されたい。
 75回目を迎えた8月9日。私たちは、「平和をつくりだす人」へと今日も招かれているのです。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-08-02 15:31:11 (104 ヒット)
週報巻頭言

「主の祈り」を教えてくださる際に、イエスは倒錯してしまった祈りの姿を指し示されました。それは、人に見せるために人通りで祈る姿であり、長々くどくどとこちらの願い事を並べる姿のことでした。「しかし、あなたがたは、こう祈りなさい」と言ってイエスは「主の祈り」へと導いてくださったのです。
 その「主の祈り」の特徴の一つは「我ら・私たち」の祈りであるということです。上記の祈りの姿はあくまでも「私を」とか「私に」という焦点を持っていますが、そうではなく、「我ら」の「我」として自分をとらえ、共に生きる中にのみ生かされている「我」であることを日々おぼえることが「人間」の基本的な姿だと言うのです。
 「日用の糧」、それは一日分の必要、一日分の生の支えのことです。この一日分で生きる「ひとり」としての私は、このひとりの一日の背後に、たくさんの人々との命のつながりがいただいています。「我ら」による「今日の私」なのです。また、誰も昨日を生きられず、誰も明日を生きられない。誰も他人を生きられず、誰も他人なしに一人で生きられない。決して、私が満ちたから「私たち」に行くというのでもありません。「私たち」こそが「私」なのでもあり、昨日の今日であり、明日の今日であり、今日の明日が来る。そのどこでも「私たち」なのです。祈りは「我ら」を祈るものであり、祈りは「我ら」で祈るものなのです。
 韓国民主化闘争の激しい弾圧の中で、金芝河(キム・ジハ)が歌った詩は、若かりし日の私の胸に突き刺さって離れません。今は変節してしまった金芝河ですが、イエスから受けたあの日のインスピレーション、「飯が天である」、このラディカルにして明快な信仰的宣言を、私は失いたくないし、自分の祈りにしていきたいと思っています。
  飯が天です / 天を独りでは支えられぬように
  飯はたがいに分かち合って食べるもの
飯が天です / 天の星を共に見るように
飯はみんなで一緒に食べるもの
飯が天です / 飯が口に入るとき 天を身体に迎えます
飯が天です / ああ 飯はみんながたがいに分かち食べるもの 【吉高 叶】


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-07-26 14:35:34 (126 ヒット)
週報巻頭言

だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。(マタ6:9)
聖書の証する神は人格的な交わりの神です。といってもピンと来ないかもしれません。
交通安全の神とか無病息災の神・・・という人間の願望の先にある神や、○○山の神とか
○○池の神・・・という場所の主(ぬし)などは、いわゆる人格的関係や交わりの神ではあり
ません。では聖書の神の人格的交わりをどう捉えればよいのでしょうか。それはずばり
「苦しむ神」だということです。「私の苦しみを苦しまれる神」である、と。
キリスト教の神は「愛の神」だというのはよく知られています。でも何かしら善いこ
とや麗しいことの源泉のようなイメージで「愛の神」と理解していないでしょうか。し
かし、愛するとは、共に苦しみ、共に痛むこと抜きにあり得ません。が、そうであるな
らば、神は「苦しんでしまう方」ということになります。神がどんなことでもお出来に
なる「全能の神」であるならば、「決して苦しまない」こともお出来になるはずです。で
も、神は「苦しまないことができない」のです。私のために、私と苦しむ関係者になる
ことゆえに、神はもう、「全能の神」という姿を保てなくなってしまうのです。神はそれ
を選ばれるのです。「全能の神」は、全能ではないご自身であられたという逆説をここに
見ます。私は、イエスが神を「アバ(おとうちゃん)」と親しげに呼んだことは、それま
で人間が考えてきた神の全能性、神の絶対的な威厳や権威をひっくりかえすような、全
能ではないけれども人格的な神と人の関係の新しい「入り口」に立つことだと理解して
います。ですから「おとうちゃん」でなくてもいいし、「父」である必要はありません。
さて、D.ボンヘッファーは獄中書簡『抵抗と信従』の中の一節をご紹介します。
「神はご自身をこの世から十字架へと追いやり給う。神はこの世においては無力で弱い。
そして神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、
また僕たちを助け給うのである。キリストは彼の全能によってではなく、彼の弱さと彼
の苦難によって僕たちに助けを与え給うということは、マタイ8:17 に全く明瞭である。
この点に、あらゆる宗教に対する決定的な相違がある。人間の宗教性は、人間が困難
におちいった時にこの世における神の力を示す。その時、神は機械仕掛けの神である。
聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。苦しみ給う神のみが助けを与えることができ
るのだ。」『抵抗と信従』253 頁1944 年7 月16 日―ある友人への手紙―(新教出版社)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-07-19 07:38:08 (144 ヒット)
週報巻頭言

彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタ6:8)

 私たちは、毎週礼拝の中でイエス様が「こう祈るように」と教えてくださった「主の祈り」を祈っています。暮らしの中でもこの祈りを祈ります。それはとても素敵なことです。「祈り」は私たちの人間性が造られていく場でもあります。私がまず自分を律し整えてから神とやりとりする、というのではありません。祈りの中に、自分の喜びもみじめさも全てがいったん投げ出され、神の目の中に自分がさらされ、そこでもう一度自分がつくられていく、そういう行為や業こそが「祈り」というべきものです。「主の祈り」にはその本質が余すところなく凝縮されています。
 ところで、「主の祈り」の「主の」というとき、「主エスが教えてくださった」という意味合いと共に、「主イエスの祈り」「主イエスご自身が祈られた祈り」という視点も大切です。彼が神と向き合い、神と結びついていた、その神と彼の関係の中に私も招き入れられていくのです。とても人格的で相互関与的な関係性に、私たちは引き込まれているのです。往々にして、私たちが「神」を捉えようとするとき、哲学的思考や宗教的概念を持ち出して、論じたり考えたり対象化して認識しようとします。すると、その神への祈りも、かなり理屈っぽかったり、結論を先取りしたもの(そう、どうみても対話的でないもの)になってしまいます。イエスの時代のユダヤ教宗教家たちがまさにそうでした。彼らの誰もが、それはそれは一生懸命神を認識しようとし、律法を学び、「神の民の形成」するという命題に腐心していました。その結果、「神の民」にふさわしい「祈りの枠組み」を考案し、「18祈願」という伝統モデルをつくり、これを朝昼夕と祈っていました。しかも、人通りに出て、みなに聞かせるように(お手本を見せるように)祈っていました。
 けれども、イエスは「違う」と言います。「天の神に、呼びかけ、飛び込み、包まれ、願いなさい。そう、無防備のまま『お父ちゃん、お母ちゃん』と飛び込んでいって抱いてもらうように」と言うのです。そして教えてくださったのが「主の祈り」でした。彼が神を「父・アッバ(お父ちゃん)」と呼んだのは、一般化されて語られるような神にではなく、「向き合う相手、向かい合う関係者としての神と自分の間柄に入って」という意味です。しかも、主イエスが大切に感じたのは、「あなたの苦しみを苦しむ方、苦しむあなたをいたわろうとする方としての神を感じ、信頼して」ということでした。 吉盂


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