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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-29 19:49:00 (59 ヒット)
週報巻頭言

主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。(創世記 21:1‐2)
       
創世記21章には、アブラハムとサラの子、「イサクの誕生の出来事」が記されています。子どもの誕生、特に男の子の誕生という出来事は、アブラハムの生きた時代、また、創世記が書かれた時代の人々にとって大きな「祝福のしるし」でした。
このような「祝福」の価値観は現代の日本でも見られる「価値観」です。そして、この当たり前に思える「価値観」が悲しみや痛み、そして、差別を生んでいることも見過ごしてはならないでしょう。特に、少子高齢化の進む現代の日本の中で、子どもを得ることへの評価と子どもを持たないことへの批判の言葉が、時には露骨に、時には巧みな形で様々な場面で表れています。そして、最近もまた「子どもを得る」ということに関連して、少数者に対する差別に満ちた言葉が政治家から発せられました。このように、聖書に記されている「価値観」が差別につながるという現実を目の当たりにしながら、私たちは創世記21章の「イサクの誕生の出来事」とどのように向かい合うことができるでしょうか。
この数日、今日のカリキュラムで与えられている『聖書教育』誌の聖書個所と向き合いながら、このような思いを巡らせていました。そのような中で、今日の宣教の準備をしようと手に取った、市川八幡教会の『週報』に掲げられた教会主題の言葉、『裂かれたカーテン〜隔ての壁を除く群れへ』という言葉が目に飛び込んできました。そして、イエス・キリストは「隔ての壁」を取り除くために、世に来られ、十字架で死なれたことを思いました。教会主題の言葉を通して、神様は差別を生むために「祝福」を与える方ではなく、差別を取り除くために「祝福」をくださる方なのだということを確認することができました。
「祝福のしるし」によって、人と人との間に上下を作り、「隔ての壁」を建てるのは人間です。しかし、「祝福のしるし」によって人間の建てた「隔ての壁」を取り除くことが神様の御心なのではないでしょうか。
(中田義直)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-22 20:03:37 (75 ヒット)
週報巻頭言

園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」 (ルカ13:8-9)
       
聖書には、ぶどうの木やいちじくの木のたとえがよく出てきます。イエス様が言われた。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)この聖句で、私は長く離れていた教会にまたつながるきっかけとなりました。
 聖書によれば、ぶどうの栽培とぶどう酒の製造はノアの時代にさかのぼります。ぶどうの木はパレスチナの人達に身近で親しまれたものだったでしょう。ぶどう酒は祝福の象徴であり、反対にぶどうが枯れることは滅亡の象徴でした。たくさんの歌やたとえが聖書に出てきます。
主人はぶどう園にいちじくの木を植えます。このたとえが福音書に出てくるのはルカだけです。19章で、ザアカイさんがイエス様を一目見ようと登った木がいちじくでしたから、ぶどうと比べてしっかりとした枝で幹も大きかったでしょう。ぶどう園にいちじくの木を植えた? 何故に? 主人の気持ちがわかりません。いちじくさんはどんな気持ち? ぶどうさんは、自分たちの園によそ者のいちじくさんが来てどう思ったかしら? そんな事が気になってぐるぐる頭を駆け巡りました。「実をつけないなら切り倒せ」なんて事を。しかし園丁がいちじくを助けようとがんばってくれています。園丁はイエス様です。命拾いしたいちじくは、翌年実をつけることができるでしょうか?                  (鹿島 美紀子)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-16 18:13:43 (83 ヒット)
週報巻頭言

しかしヨナは主から逃れようとして出発し、
タルシシュに向かった。 (ヨナ書1:3)

ヨナは、紀元前8世紀の北王国イスラエルの預言者です。神はヨナにアッシリアの都ニネベへ行って預言をするように命じます。その内容は「悪を悔い改めて行いを改めなければ、まもなく神の審判が下り滅ぼされる」というものでした。しかし、ヨナはこの命令に従わず、反対方向のタルシシュ(現在のスペインの辺り)に逃げて行きます。
しかし、神はヨナが逃げるのを許しません。神はヨナの乗った船に嵐を送り、身動きが取れないようにします。船員たちはそれぞれ自分の神に助けを求めながら必死になって船が沈まないように努力します。しかし、ヨナは船底に降りて横になって安心しきってぐっすりと眠っていました。しばらくすると、船長がヨナのところに来て「寝ているとは何事か」とたたき起こし、「この嵐の原因はお前にある」と言いました。ヨナは自ら責任をとって海に投げ込まれるようにしました。
この船の中で眠っているという場面は、マルコによる福音書4章35節以下にも似たような場面があります。ガリラヤ湖でイエス様が嵐を静めたというところです。
ヨナは神の命令に背き、タルシシュに向かう途上で大嵐に遭ったとき、「これでもう、神様から逃げることができた」と安心しきって眠っていました。一方、イエス様が乗った船もまたガリラヤ湖で嵐に遭いましたが、イエス様は神様に信頼していたので平安のうちに眠っていました。両者は嵐に遭うことも、船で眠っていることも共通していますが、中身が全く対照的です。イエス様の船は「向こう岸に渡ろう」というイエス様の呼びかけに従って、「向こう岸」に向かっていました。しかし、ヨナの乗った船は神様が示した方向とは逆の方向に向かっていました。
私たちの人生にも嵐が襲ってくることがあります。そのとき私たちはどちら向きの船に乗っているでしょうか?
(松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-08 22:23:47 (78 ヒット)
週報巻頭言

イエスは手の萎(な)えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
(マルコ 3:3)

マルコ3:1以下に「手の萎えた人」が出てきます。当時のユダヤの社会においては、人が悲しみや辛い目に遭うのは、その人自身の罪に原因があると考えられていました。故にこの人も周囲の人々から「お前自身に問題があるのだ」という目で見られ、虐げられていたのです。しかし、イエス様はこの人に「真ん中に立ちなさい」と言われます(3節)。人々から虐げられ、いつも片隅に置かれた人を会堂の真ん中に置く。それはまるでこの人の救いこそが礼拝の中心であると宣言しているかのようです。イエス様のこの人を見る眼差しは、人々の非難の眼差しとは全く対照的です。馬鹿にし、無視するような冷たい眼差しではなく、憐れみ、受け入れ、支えようとする温かい眼差しです。
一方、その様子を非難の目で見ていた人たちの間に「安息日」を巡っての議論が起こります。イエス様は彼らに「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問います。彼らにとって安息日に人を癒すことは悪いことであり、そのまま放置しておくことが良いことだったのです。それ故に彼らはイエス様の問いに対し沈黙したままでした。その彼らの態度に対してイエス様は怒り、また、悲しむのです。おそらく、イエス様の問いに対する答えはその場にいた誰もが分かっていたはず。しかし、律法・慣習・伝統の故に、それらに縛られていた人々は何も声を発することができなかったのです。そこにイエス様の怒りと悲しみが向けられるのです。
無理にこの安息日に癒すのではなく別の日に癒せば、このような衝突を避けることができたと思います。しかし、イエス様にとって、この安息日こそ苦しみを持つ人が解放されるのにふさわしいのです。律法を破ってでも一人の命を救うことにこそイエス様の本当の思いがあるのです。
この聖書の個所を通して私たちが問われ、教えられるのは、_燭問題を抱えたり、失敗したりして、非難や批判を浴びなければならない人に対する私たちのあり方です。∋笋燭措身が問題を抱えたときに、私たちに注がれているイエス様の眼差しです。
(松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-01 12:39:01 (82 ヒット)
週報巻頭言

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」(創世記 12:1)

創世記12章からは、それまでの記述が、人類の生や罪の所在などについていわば根源的に語る「原初史」であるのに対して、アブラムという具体的な登場人物の人生にフォーカスをあてる(これがイスラエル史になっていくわけですが)記述となっていきます。ただし、一人の人にフォーカスをあてると言っても具体的な個人記録のようなものではありません。このアブラムという人が生きたのは、今から4000年ほど前のことですし、このアブラム(アブラハム)のことがこのようにまとめられたのは今から3000年ほど前のことです。ですから、私たちは、4000年前に生きた人のことを3000年前の人々がどのような意味合いをもって記憶し、記録したかという記述に向き合っているわけです。そこには、「アブラムという人の人生はどういう人生だったか」ということについての明確な主題があります。そしてその主題は何かと申しますと、「彼は出発した」ということなのです。
 ところが、アブラムはなぜ出発したのか、何の目的で出発をしたのか、という「出発の背景」について事細かく書かれているわけではありません。また、彼アブラムは「やがて何を成し遂げたのか」ということについても記されてはいないのです。ただ、後代の人々が、彼を記憶していく時の主眼としたのは、「彼は呼び声を聞いて出発した」「それが信仰だった」ということだけなのです。
 しかし、そこにこそ聖書が主題としている人間の生き方の原型を見るような思いがします。旧約聖書・新約聖書のあらゆる登場人物たちは、「呼び出す声」を聞いて生きた人たちだということがわかります。アブラムに始まり、モーセも、エレミヤも、イザヤもそうです。イエスの弟子たちも、もちろんパウロもそうです。皆、それまで包まれてきた生活、家族、その他のつながりの中で「呼び声」を聞いている。自分の願望の声ではない。その証拠に、その声に従った者たちは試練と艱難を余儀なくされていきます。ところが、そこでこそ神の御心(福音)が証しされます。そうです。福音宣教は、すべて出発した人々によってのみ証しされています。呼び出す声、切り出す声に応えて、出発するような出来事を通してのみ福音は明らかにされていくのです。 
(吉癲ヽ陝


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