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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-03 18:00:00 (93 ヒット)
週報巻頭言

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (創世記2:7)

イエス・キリストがわたしたち人間の救いのために世に来られたクリスマスが近づいてきました。主が救おうとされた人間とは、そもそも何でしょうか。聖書の創造物語はその問いに意味深い答えを与えてくれます。第1に、人間は金銀宝石ではなく土からできています。昔の人は、愛する者を葬るとまもなく土に帰ってしまうという痛切な経験を通してそのことを学んだのでしょう。この物語が書かれたのはソロモン王の時代と言われます。貿易による空前絶後の繁栄に酔いしれる人々に、どんなに身を飾ろうとも人は土にすぎないという事実を突きつけたのです。
 第2に、しかし神は土である人間をいとわれません。命の息を「吹き入れる」と言うからには、神にも人と同じように鼻や口があると考えざるをえません。そして人は神に口づけされて生まれてきたのだとも。このひと言に、神の深い愛がみごとに表現されています。これがわたしたち皆の祖先です。体を重荷とのみ考え、霊魂の解放を望んだ人たちもいましたが、聖書は人間の体につきまとう病や死という現実を見つめながらも神の愛に慰めを見いだすように招き、弱さの中に現れる神の力をあかししています。
 第3に、人間はひとりで人間になることはできません。助け合い、共に生きる相手がいて初めて人間と呼べるものになるのです。この物語はなぜ男と女がいるのかという問いにも答えようとしていますが、夫婦の関係に限らない、人間のより深い本質を語っています。人間という字も、人と人との関係の中に人間性があることを示しているでしょう。そうした関係もまた、体を通して経験されるものです。もしかすると現代人は理性に価値を置きすぎて人間が体であることの意味を見失っているかもしれません。そのゆがみは人間を能力で測るばかりで存在そのものの価値を知らないという形で、津久井やまゆり園の事件のような形で、表れてきます。イエス・キリストはそのような世界に来てくださいます。神の形でありながら、自分を無にして人間の姿で現れられたのです(フィリピ2:6–7)。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-11-26 18:00:00 (105 ヒット)
週報巻頭言

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 (出エジプト18:2)

エジプトから導き出されたイスラエルの人々は、シナイの荒野で律法を授けられます。その最初のものが「十のことば」です。せっかくファラオから自由になったのに、今度は神に束縛されるのでしょうか。そうではありません。序(2節)が言うように、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神」が、彼らが二度と奴隷に戻らないために言われるのです。実際、「……てはならない」と訳されているところは古代ギリシャ語訳のように「……ないであろう」と訳することができます。主なる神の強いみ手によって自由を得た民が、その神を悲しませるようなことをするはずがないという思想が基盤なのです。「十戒」という通称に反して、「戒め」や「命令」などの語はこの段落に現れないことにも注意しておきましょう。
 第一〜四戒(3–12節)は神と人との関係の指針です。主なる神が奴隷の身分から解放してくださったのですから、その神のみを愛し、礼拝するのは当然です。イスラエルの民が後にこの神に背いて豊作を約束する神にすり寄っていったように、自由と富とを引き換えにはできません。神が人を造られたのですから、人が像を造って神と呼ぶような逆立ちもできません。神が人々を自由にするために示された名を唱えて自己の利益を図ることもできません。七日目は神ご自身の時間であり、人が労働のために使うことはできません。
 第五〜十戒(12–17節)は人と人との関係の指針です。神が解放してくださったのですから、いっしょに解放された隣人から自由を奪うことはできません。年老いた両親を見捨てることも、命を奪うことも、人妻に夫を裏切らせることも、盗むことも、隣人が裁かれているとき偽証することも、隣人の家、妻、奴隷、家畜を横取りすることも、皆隣人の自由を損なうことです。そんなことはできません。キリストは、神を愛することと隣人を愛することの2点に律法を要約されました。それをより詳しく言えばここに挙げられた十のことがらとなります。キリストによって自由を得たわたしたちにとっても、依然として生きる指針なのです。 (高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-11-19 18:00:00 (100 ヒット)
週報巻頭言

あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。 (出エジプト18:17–18)

モーセのしゅうとエトロ(2:18ではレウエル)はモーセを訪ねて共に天幕に入り、神をほめたたえ、焼き尽くすささげ物をささげます。「すべての神々」(11節)の存在を信じ、みずからもその一つを礼拝していたであろうミディアン人の祭司が、主こそもっとも大いなる神であることを認めたのです。異教徒に対するイスラエルの開かれた態度が感じられます。しかし、「天幕」は33:7の臨在の幕屋を、16, 20節の「指示」(別訳: 律法)も19章から民数記10章に至る長大な律法を先取りしているので、イスラエルの伝統を純粋に保とうとする編集者が臨在の幕屋に異教徒が入ることに耐えられず、民数記10:29の前からここに移したと推測されます。同じ聖書の中に厳格派と寛容派の両方の見解が含まれていることを心に留めたいものです。
 モーセはまた異教徒であるしゅうとの知恵をも取り入れます。彼は朝から晩まで民の間のさまざまな争いを裁き、彼自身忙殺されるばかりか民をも疲れさせていました。エトロは「あなたひとりでは負いきれない」と指摘し、千人、百人、五十人、十人の長を立てて小さな事件は彼らに任せるように勧めます。その指針となるおきてと指示は神が与えてくださいます。モーセはその助言に従って、難しい事件だけを裁けばよいことになりました。
 教会の業も、だれもひとりでは負いきれません。それぞれのたまものを出し合い、力を合わせて初めて主から託された務めを進めていくことができます。また与えられたものを出し合って初めて財政が支えられます。教会の目ざす方向を互いに確認し、それぞれの働きを調和させなければなりませんが、働きを委託したら任せることも大切です。教会どうしの間でも同じことが言えます。互いの自立を尊重しながら、励まし合って協力の実を育てていくのです。先週の日本バプテスト連盟の総会では二つの新しい教会を迎えるとともに、痛苦の経験をした教会の再起を助けるため重要な決議がなされました。教会の中でも、諸教会の間でも、協力の実がいよいよ豊かに結ばれますように。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-11-12 18:00:00 (104 ヒット)
週報巻頭言

天に輝くあなたの威光をたたえます、幼子、乳飲み子の口によって。 (詩編8:2–3)

この詩は、力強く全地に満ちる主のみ名への賛美で始まります。この地上にも神の業の跡は残されています。野も山も、静まっているようでいて、力強くみ名を賛美しているのです。この句が最後に繰り返されているところから、4節後半–9節の独唱の前後を合唱が挟む形で神殿で歌われた賛歌と見られます。4節から見て、夜間の礼拝に用いられたのでしょう。月や星、人間、大小の家畜、獣、鳥、魚の創造、特に万物を治めるべき人間の務めは創世記1章の天地創造物語を踏まえているので、捕囚後に再建された神殿で歌われたものと考えると「全地」にはバビロニアやペルシャのような大帝国も含めて、という意味が込められていることになります。
 この詩の中心は5節にあります。天に月や星を配置する大いなる神、地上にも空にも海にも生き物を満たされる力ある神のみ業を仰ぐとき、どうしてこの小さな人間、無力な人の子をみ心に留め、顧みられるのか、と問わずにはいられません。不思議と言うしかない恵みです。わたしたちの生は時に困窮に悩みます。イスラエルの民もわずかの間神に捨てられる経験をしました(イザヤ54:7)。しかし、そのようなわたしたちがみ心に留られています。これこそがもっとも幸いなことであり、究極の慰めなのです。
 神がもっとも喜ばれるのは、幼子、乳飲み子の口から出る賛美です。小さな民の中でももっとも小さい者をもっとも深く愛されるのは、その民を選んで奴隷のくびきから解放し、大帝国に苦しめられている民を顧みて救い出してくださった神にまことにふさわしいことであり、小さな人間に対する神の顧みの最大の表れです。実際、神殿に来られたイエスを迎えて「ダビデの子にホサナ」と叫んだのは子どもたちでした。祭司長たちと律法学者たちは腹を立てましたが、子どもたちは気に留めません。そんな子どもたちを、イエスはこの詩の2–3節を引いて擁護されました(マタイ21:16)。神は、イエスの神殿への到来という大事な場面でもっとも小さい者たちを用いられたのです。幼子の賛美の声は、礼拝に欠かせません。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-11-05 18:00:00 (179 ヒット)
週報巻頭言

なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。 (出エジプト17:3)

奴隷のくびきからは解放されたものの、荒野の旅は困難でした。食べ物の欠乏に続いて、水がなくなります。これもまた重大な問題です。例によって、民はモーセと「争い」、「不平を述べ」てモーセが彼らをエジプトから導き出したことを非難します。モーセが「わたしも子どもたちも、家畜までも渇きで殺す」ことをねらっていたのだと邪推するのもいつものとおりです。しかし、どうしろと言うのでしょうか。エジプトで奴隷として追い使われ、苦しみの叫びを上げたのは彼ら自身だったのですが、エジプトを出てみると苦しいなりに最低限の保障はあったかつての古巣が恋しく思えるようです。
 自由とは冒険、すなわち危険を冒すことにほかなりません。しかし、民にはまだモーセと共に冒険に乗り出す用意がないのです。彼らを自立した信仰者と呼ぶことはまだできません。頼るべき方を知り、その方に叫ぶことを心得ているモーセとは対照的です。ただ、モーセをなじるのがモーセに頼るしかない立場の裏返しだとすれば、真に頼れる方との出会いによってこの民も変わっていく望みがあります。モーセにしても、いろいろと理由を挙げて何とか神の召しを拒もうとしていたのに、今は頼るべき方に叫ぶことができるのです。ひるがえって、わたしたちは何を頼っているでしょうか。頼りのものから切り離されたらどう感じるでしょうか。例えばお金。あるいは会社。あるいは国家。わたしたちはほんとうに自由なのでしょうか。
 メリバの水の話は民数記20章にも伝えられ、そこではモーセとアロンが「この岩からあなたたちのためにわたしたちが水を出さねばならないのか」と栄光を主から横取りする言辞を吐いて岩を2度打ったため、アロンは死に、モーセも約束の地に入れなくなります。しかし、出エジプト記の段階ではまだそのような懲罰はありません。律法が与えられる以前の彼らは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め」(第一ペトロ2:2)る段階にいます。頼るべき方を知って初めて人は自立へと進むのでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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