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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-12-06 15:17:51 (106 ヒット)
週報巻頭言

 アドベントを過ごしています。救い主誕生の知らせは、少なからず受けとめる私たちを揺さぶってくる出来事です。知らせを受ける者に異変が起こります。驚きと恐れを伴うことがあります。その知らせは、あとで述べますが、私たちを新しい三つの道へと招こうとし、チャレンジしてきます。揺さぶってきます。クリスマスの揺さぶり、それを世界で最初に身に受けてしまった女性、それがマリアです。
 マリアは文字通り、救い主イエス・キリストを「身に受け」てしまいました。つまり身ごもりました。それはあり得ないことでした。あってはならないようなことでした。あったら大変なことになる、そんな厳しい事実でした。

 他に術がなかったのでしょうか? 救い主が生まれる別の方法が。たとえば、畑のキャベツの中から生まれるとか、コウノトリとかペリカンとかが運んでくるとか、竹を切ったら出てきたとか、川の上流から流れてきた大きな桃とかかぼちゃの中から出てくるとか、空から落ちてきたカプセルの中に入っていたとか・・・。
 いいえ、身に受けることが必要でした。それまで誰も注目することの無かった一人の女性が、救い主の命を身に受け、身に宿したというその事実こそが、実に大切なことです。救い主を迎えるということは、そのことによって恐れや場合によっては危機感が伴うことなのですが、そしてそれはまさに人が自分の身に受けてしまうからであり、その揺さぶりこそが私にとって大切な事柄なのです。もし私たちが救い主の訪れをこの身に受けるのでなければ、それは多くのニュースの一つとして私たちの人生を通り過ぎていくことになるでしょう。あるいは敬虔な感情の一つとして済まされてしまうことでしょう。
 実に神さまの業は、一般的かつ抽象的な出来事ではなく、一人の人間の具体性的な現実に具体的な衝撃をもたらしながら宿るのです。「神の具体化」です。「有限なものに対する無限者の自己表出」と言いましょうか。そして、そのマリアの具体性と、この「わたし」の具体性がつながっているのです。重なってくるのです。救い主がマリアの「身に宿る」、しかも神の業、聖霊の力でその「身に興る」。必然性のない人物に、「身に覚え」のない出来事が向こうから飛び込んできて「身に受け」てしまう。それはまさに、クリスマスという出来事が、マリアにだけ起こった出来事、マリアにだけしか起こらない出来事なのではなく、私たち一人ひとりにもまた引き起こされる出来事でもあることを示しています。「救い主を身に受ける。」私たちはみなこの出来事をそれぞれが「身をもって」体験させられていくのでもあります。

 突然、大きな病気や思わぬ痛み、辛い事実を背負わされてしまうことがあります。背負わされしまった方々が具体的におられます。そうした方々はすぐにおわかりになることでしょう。聞いて知っていたことと身に受けることは全然違うのだということを。
 その痛みが神さまがお与えになったものと直列で申し上げるつもりはありません。しかしどうにも理解できないことに悶絶するときに私たちはどうしても「神さまなぜですか」と叫びますから、その叫びの先に神さまはいらっしゃるのですから。やはり神さまの出来事として私たちは苦しんでいるわけです。そして、自分の理解を超えた事実を身に受けてしまうこと、それは簡単なことではありません。「身をさらされ」、「身が震え」、「身につまされ」ながらそれに向き合わねばなりません。しかしだからこそ、そこで思いめぐらせた何か、そこで感じ取った何かがその人の「身につく」のですし、神さまの御心が「身に染み」、「身に余る」喜びとして受けとめられていきます。そして、ひるがえって神の救いの御業に向けて「身を起こし」、「身を開いて」その業に従う人生へと向けられていくことが起こると思います。身に受けることで身が開かれるのです。
 マリアはいま救い主を身に受ける出来事に、私たちの内のひとりとして遭遇しているのです。ですから、受胎告知の物語を、「マリアの物語」としてでなく、わたしの「身の上」として受けとめようとすること、つまり「こんなものいらないです」と叫びたくなるものをいま背負っていること、それを通して、それをひきづりながら、何だろう、なぜだろうと苦悩し、思い巡らせる、それがその人のアドベントでありクリスマスなのでもあります。なぜならクリスマスは人間の具体的な痛みと関係があるからです。なぜならクリスマスは苦悩の中に優しさが宿り、暗闇の中に光と勇気が宿った物語なのですから。
 そういう意味では「新コロナなのにクリスマス? 」ではなく、「新コロナだからこそクリスマス」なのです。いま私たちが身をもって感じている不安や恐怖、今回の事でこの社会が身をさらけ出してしまった暗闇、それらが照らされているのです。それらの中にイエスと名づけられるべき命が新たに生まれているのです。

 さてマリアがこの日、御使いガブリエルから聞かされた言葉の中には、三つの道に向けてあなたの身を開くようにとの招きが響いているように思います。
 それは、第一に「神さまに向けてあなたを開きなさい」ということであり、第二に「世界や隣人に向けてあなたを開きなさい」ということであり、第三に「未来(約束)に向けてあなたを開きなさい」ということだと思います。
「神があなたを恵み、あなたを用いる。あなたは身籠もって男の子を産む。彼はこの世の人々を救い、永遠にこの世界を治めるのだ」と言うのです(これがガブリエルの御告げの内容です)。神と世と永遠へのまなざしです。神と隣人と未来に置き換えても良いでしょう。マリアがもし神の御心を身に受けたならば、それは同時に、救い主の生命がもたらすこの三つの道に身を開かせられていくことを意味しています。そしてこの三つの道に自らの身を委ね、身を開くとき、私たちの人生には、大切な賜物が授けられてくるのです。
 すなわち、
1.人は、自らを神さまに開くときに「信仰」が生まれます。
2.人は、自らをこの世界や隣人に開くときに「愛」が生まれるのです。痛みを理解する優しさとしての愛が生まれます。
3.人は、自らを未来に向けて開くときに「希望」が生まれるのです。暗闇の中を顔をあげて生きていく勇気という希望が授けられるのです。

 聖書が、生命と人生にとって最も大切だと語る「信仰・希望・愛」は、自分を開いて行く中で授けられ備えられるものです。自分の力で身につけよう、と、自分にこだわり自分を閉ざしているときには信仰と愛と希望がいっこうに生まれてこない。優しくなれないし勇気も湧いてこない。そうしたものです。そうではなく、身を開くことです。神に向かって、隣人に向かって、未来の約束に向かって、身を開くことです。どうやって身を開くのか。身を開くとは、救い主イエス・キリストを身に受けることと同時的に、この身に引き起こされることなのです。救い主イエスさまの命を身に受けようとしないと、私たちは、どんなに自分を開こうとしても、開かれた生き方をしようとしても、どこかで「自分が」「自分に」「自分を」ということが抜けないです。
「神さまが、名もない私を捉えてくださった。ふさわしくない私を用いてくださろうとしている。家畜小屋に生まれたもうキリストは、この私の身に生まれてくださるのだ。私が受けとめよう。感謝して、私がこの救い主の飼い葉桶にさせていただこう。」
 そのように、キリストを身に受けるとき、そして身を差し出すときに、私たちは信仰と愛と希望とに開かれ始めているのです。身に受けるとき身は開かれるのです。身に受けようとしなければ、身は開かないのです。

 自らを神に開いて信仰が生まれ
 自らを隣人に開いて愛が生まれ
 自らを未来に開いて希望が生まれる
 優しくあれ、そして勇気をもて
 このような私こそが
 このような時だからこそ

 今朝はマリアの最後のことばを私たちの言葉として心に刻みたいと思います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
    


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-29 20:18:39 (143 ヒット)
週報巻頭言

キリスト教会の特有な言葉に、「用いてください」という言葉があります。自分は何をしたいのだろうか。自分には何ができるのだろうか。自分から線を伸ばしていくのではなくて、「神さまの必要」の線の中で自分がとらえられてたり、自分が用いられていく。
 この視点・視線は、人間の自己理解を常に新しくしてくれ、また自分自身を柔らかくもしてくれると思います。自分の為すべき事が自分から出てくるのではなくて、あちらから来る。神さまの方から来る。隣人の方から来る。用いられようとする、必要とされている自分をそこで発見させられていくのです。
 この視点、あるいは姿勢を知っていくゆえに、人間は決して自分に絶望する必要がないのです。しかも、神さまは、神さまの豊かな御心と御業を示されるために、知恵のあるもの、才能のあるものではなく、貧しい人や人々から普段顧みられない人を用いられますから、「自分にできそうな何か」が見つからなくても、私たちは不思議に用いられていくのです。
 クリスマス。神の御子の御降誕。「救いの御業」の最大のクライマックスは、徹底的に人間の知恵や才能や輝きの裏面にあって実行されていきました。救い主の登場を指し示すヨハネ、そして救い主なるイエスは、その誕生のところから人間の力の届かないところで生命となっています。ヨハネの母はエリサベト。子どもを産むことの「できない」ままに老齢を迎えた女性でした。それが当時の女性にとってどんなに肩身が狭く、寂しいことであったことでしょう。他方、イエスの母はマリア。結婚前の女性で、当時の常識からすれば子を産んでは「ならない」立場の女性でした。そのまま妊娠・出産にいたることが、人々からどれほど白い目で見られ、また危険なことであったことでしょう。けれども、神は用いるのです。「できない」器を用い、「ならない」状態を用いて救いの御業を成し遂げられているのです。
 アドベントとはまず、「神さまが為される。貧しい私にも神さまは目をかけ、用いてくださる。」この事実の前に撃たれ、「用いられるかも知れない私」を差しだそうとしていくことに招かれているのではないでしょうか。老女エリサベトは、あり得ないはずの妊娠を自分の身にはっきりと自覚し、25節で「今こそ」と語っています。この「今こそ」は、「やっと願いが叶った」という「やっと」ではなく、辱めを受けながら、長い人生、祈りながら待ち続けた人生に「今こそ」神の御心が迫り、自分が用いられる時が来たという感激を表しているのです。ですから、私たち人間にとって、もっとも華やいだ時を「今こそ」と呼ぶのでは無いのです。もっとも輝いていた時代のことを「今こそ」と言うのではないのです。私たちは、老いて尚、病んで尚、躓いて尚、倒れそうになって尚、「今こそ」という時へと招かれ得る、そういう存在なのです。ですから、私たちはいくつになっても未来を生きるのです。どのようであっても用いられる未来を与えられて生きることができるのです。
 バプテスト世界祈祷週間がアドベントと共に心に刻まれていくことに、私は豊かな意味を感じています。アドベントとは、「救い主を待望する心になる。救いを熱望する人になる。」そういう招きをいただく季節です。そのことは、単に自分がそのような人になる、自分の心に救いの光を求めるということだけではなく、この世界の暗闇、暗闇の世界に生きる隣人たる人々と「共に待つ」ということなのだと思います。「共に待つ隣人を知る。救い主を共に迎えたがっている人々を憶える」ということです。それは、普段関わりのある人々という意味での「隣人」以上に、海を隔てて生きる、そして救い主を求めている多くの隣人たちと共に「待望する人間の帯をつくる」ということではないでしょうか。国外伝道、あるいは国際宣教協力という業を通して知らされている世界の兄弟姉妹たち、さらにその世界の仲間たちが心にかけて祈っている課題の広がりが繋がって救い主を待つ。そのような「待望の帯」の中に自分も入れられていることを喜ぶ。そうした世界性や隣人性へと招かれていることは、とても豊かなことだと思うのです。
「私が待つ」から「私たちが待つ」へと変えられていく。そこにアドベントの「待つ」という焦点と、国外伝道の「私たち」という焦点が融合していくのです。
 ザカリヤとエリサベトに与えられようとしている赤ちゃん、後にバプテスマのヨハネとなる人物ですが、この男の子には、生まれる前から明確な使命が用意されていました。その使命が、今日のテキストの前の16-17節に記されています。
「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼は(預言者)エリヤの霊と力で主に先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
 すなわち、ヨハネという新しい命の使命とは「人々を主のもとに立ち帰らせる」ことであり、「準備のできた民を救い主の前に用意する」ことだ、と言えます。これが、ヨハネを通して神さまが人間に求めていたことです。ですから、アドベントを迎える私たちもまた、ヨハネから呼びかけられているのです。つまりは「主のもとに立ち帰る人々の一員となること」と「主の前に準備を整えた民となること」をです。
 「伝道」という言葉は私たちにとって大切な言葉です。この言葉に、私たちは具体的なイメージを持たせていかなければなりません。そして、アドベントと世界祈祷週間というタイミングを与えられたこの時、「伝道とはどのような業か」と具体的に定義するならば、それは「多くの人々と共に準備をすること。」「救い主を待つ『民』となって繋がり合うこと。」「共に準備し、共に待つ、そのような民の一員となろうとすること。(もちろん国籍を超えてです。)」そこにアドベント的な伝道の意味づけがあります。
 コロナ感染危機は世界に繋がっています。温暖化も世界に繋がっています。金融危機も繋がっています。食料危機も繋がっています。戦争も繋がっています。女性や子ども達に痛みのしわ寄せが顕著であることも世界に繋がっています。暗闇や苦しみは広がり、繋がっています。こうした危機的状況において「繋がり」を如実に感じさせられてしまうというのは、皮肉なことですが、だからこそ、人間の「待望」も本当は繋がっているのです。「今こそ」なのです。救いの待望、癒しの待望、慰めの待望、希望への待望は繋がっているのです。「優しくありたい。勇気を与えられたい。」一人の人の求めは繋がって民とならなければならないのです。「準備をする」とは、共に人間を生かし、共に被造物世界を感謝し、共に神さまの祝福をわかちあい、共に命の光を求め神さまの業に向けて顔を向けていく、そのような民になろう、結びついて民になろうとすることです。祈ることです。「民」になるために、隣人を見つめることです。「帯」になるために結びつきの線を見いだすことです。そして繰り返しますが、祈ることです。祈りにおいて、私たちは民となることへと導かれます。
 たとえ同じ地域に生きていたとしても「一つの民」であるとは言えません。国籍の違い、世代の違い、性の違いがいつも人間を引き裂いてしまいます。同じ国、同じ社会に生きているからといって必ずしも「一つの民」ではないのです。民とは、共に救いに与るために、共に生命を育て合うために、わかちあい、準備する間柄のことです。その民を創りあげていくための力こそが祈りです。祈りにおいて、私たちは兄弟姉妹を憶えることができるのです。祈りにおいて、私たちはまだ見ぬ未来を信じるということです。祈りにおいて、神さまが必ずもたらしてくださる「今こそ」という時を、確信し待ち続けることができるのではないでしょうか。
 暗闇が、生命の危機が、恐怖がねたやすく国境を越える現実に、全ての国民が直面しています。そのような時代にあって、この世界は、ほんとうにアドベントを迎えなければならないのです。救い主の前に準備し、準備のできた民となって、共に御前に立つことができるようになりたいのです。エリサベトもマリアも小さな名もない女性でしたが、神さまのビジョンを知りました。そして、その神さまのビジョンのために「私を用いてください」とそこに座りました。彼女たちの小さなたましいこそが、神の救いが広がる世界を捕らえていたのです。
 小さな私たちも、顔を上げることができます。座り込んだ小さな自分の膝の上から、目を神さまと世界に向けて、「今こそ、私たちを用いてください」と祈ることができるのです。
  了


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-22 15:28:36 (141 ヒット)
週報巻頭言

コヘレトの言葉は、あまりにも衝撃的な書き出しで始まります。
「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ。すべては空しい。」
 口語訳聖書では「空の空、空の空、いっさいは空である。」と記されています。
「聖書がこんなこと言っていいのですか」と放り出したくなる人もいるかもしれません。
 そのトーンは、信仰とは人生をポジティブに理解する手助けをするもの、あるいは信仰とは人に希望を与える、信じたならばきっといいことがあるし祝福される、という方程式を求めたがる私たち人間の信仰理解にとって、水を差すような書物であると言えるかもしれません。
 先日の夜何気なく観ていたテレビ番組で、この水を差す機能という概念を改めて知らされました。作家の又吉直樹さんと人気の女性三人組の芸人「ぼる塾」のメンバーたちとが、このコロナの中での同調圧力や右へならえに心が連れて行かれる心情などについて緩やかに語り合っている番組でした。
 その番組の中で紹介されたのがカトリック教会の伝統の「悪魔の代弁者」というシステムについてでした。カトリックでは、ある故人を聖人という聖列に加える話し合いの時に、必ず誰かが「悪魔の代弁者」に指名され、その人は大主教達がどんなに故人を賞賛したり偉業をたたえても、その人だけはその故人の悪いところや問題のあるところを捕まえて、可能な限り非難するのだそうです。それが同調を強いる力を常に相対化する機能を果たしているのだそうです。そして山本七平さんは、「日本には『水を差す』という考え方があって、ちょうどこの『悪魔の代弁者』の機能をはたしている」と語っていることが紹介されました。
 私たちは、「水を差す」というと何か、その場の雰囲気をだいなしにする行為、素直じゃない「あまのじゃく」な行為のように受けとめている節があると思うのですが、むしろ、強い声や大きい声にその場が支配されてしまわないように、また集団心理が人々を呑み込んでしまわないために、とても大切な作用なのだということを感じました。
 そういう意味で、コヘレトの言葉は、聖書全体の中でもしかすると大切な「水を差す」役割を担っているのかもしれないと思います。単純な理解、たとえば信じたら天国、信じなかったら地獄、信じる者には祝福、不信仰者には裁き、といった二元論的な構図は、単純思考な分だけ分かりやすく、その分熱狂しやすいと思うのですが、分断や差別の原因にもなります。このような熱狂的な聖書理解をするものにとって、コヘレトはかなりやっかいです。その熱い信仰心に水が差されてしまいます。大いに水を差されてしまいます。けれども、とても大切な役割です。そして、コヘレトは、確かに人間の現実、人生の中で見聞きする現実を的確に捉えていますし、2000年以上の時間を越えて、思い当たる事柄に満ちています。しかも「それをいっちゃあ元も子もないと思えるのだけれども、でも実際そうだよな」と感じることだらけです。宗教的な熱心が生み出す思考停止や信仰的な妄想が冷まされてしまうのです。それが大事。
 私たちは、聖書を読むことで熱を帯びていきたいと思うことがありますが、時には聖書を読むことで、熱を冷まさなければならないこともあるのではないでしょうか。
 また、人間としての成熟は、水を差されることを受容し、水を差された時点でしっかりと冷静に考えてみる力を身につけることではないでしょうか。教会もまた、「水を差される」ことを大切にできる交わりであれば、と願います。
 柳美里さんの『JR上野駅公園口』が全米図書大賞を受賞しました。彼女はこう言います。コロナの中で、「ステイホーム」と合唱されていく中で、居場所のないホームレスの人々のことを考えることができた人はどれくらいいたのだろうか、と。こういう言葉が「水を差す」言葉なのです。そして私たちは、論調や論調がとかく一色に染め上げられていくコロナ化の中で、大切な論理と、切り分けられて考えられなければならないものの境目を、きちんと見極めていくためにこそ、誰かが「ちがうんじゃないだろうか」と語っている声に「水を差され」ていきたいと思うのです。

 ところで「むなしい」という漢字には「虚しい」と「空しい」とがあり、前者が虚無的であるのに対して、後者は不条理性を表しています。あるいはつかみ取ることのできない「届かなさ」やいつまでも続くわけではない「移ろい」や「はかなさ」をニュアンスとしていると言えます。
 人間は、どんなに知識を誇っても、天体望遠鏡をもってしても、また顕微鏡をのぞいてみても「万象のなりたち」を決して見極めきれない小さな存在にすぎません。これが「空・空しさ」です。どんなに学問を修めても、どんなに経験を踏んでも、真理をつかめきれない乏しい存在にすぎません。これが「空・空しさ」です。そして、人間は生きる上で、説明しようのない「不条理」にさいなまれる弱い存在なのです。これが「空・空しさ」です。たしかに人間の考える辻褄に合わないことが起こりますし、わたしたちの遭遇する出来事のすべてを説明することはできないのです。
 今朝の聖書箇所にありますように、国にどのような災いが起こるかわからないし、雲に水分がいっぱいになれば、たとえ今日が遠足の日でも花火大会でも(昨日からてるてる坊主をつるしていても)雨は降るのです。木がどちらに倒れるか、それは風の方向によるのであって人間の都合とは関係ありません。その総てを心配しつくし、把握しつくしてから作業をしようとするならば、いつになっても作業に取りかかることはできないのです。
 「想定内、想定内」。これはかつて一世を風靡したライブドアのホリエモンさんが連発した言葉であり、経済力による対処力の自負を示した言葉でした。しかし、その後、東日本大震災直後には「想定外」という言葉が国家レベルで弁明されましたね。「想定内」、これはたいへん傲慢な言葉です。説明できない。想定できない。それが被造物の証明です。それがコヘレトの言う「人間らしさ」としての「空・空しさ」です。空しさは、被造物であること、造られた存在であり、かつ全能などではない「弱さ」と直結するのです。
 それゆえに、被造物は創り主と結ばれていくしかないのです。被造物は被造物でしかない。その生において空しさを抱えているからこそ、創り主をおぼえて生きるしかないのです。空しさを知るということは、神を知るということに深く関係があります。
 コヘレトが言う「空しい。とにかく空しい。」それは結論ではないのです。むしろ人生の前提、出発点なのです。生きる上で、わからないことだらけだ。説明できることばかりではない。想定しても想定しても、それは撃ちのめされることがある。それが出発点なのです。そうだからこそ、人間はどこに根を張って生きるべきか。自分の経験か、自分の積み上げた宝か、自分の想定か。そうではない。あなたの創り主を心に留めよ。できれば、あなたの若い日に創り主を憶えよ。そして、神を畏れ、神のいましめ、人生を導くことばに聞き従いなさい。それが「結論」12:13なのであり、明日へ向かって根を張るべきところはそこだ、と「たましいの立ちどころ」を教えています。

 人生の実際は、コヘレトが言うように「空しい」として、さて、われわれはいかに生きていくべきでしょうか。「どうせ空しいなら、どうなるかわからないのなら、自己中心、利己目的、刹那の快楽で生きるしかない!」のでしょうか。いいえ、それこそ、虚しい(「虚無」の虚)姿になってしまいます。それは、創り主から離れてしまう姿となり、私たちには直ちには隠されていて不条理としか思えない出来事をさらに包んでいる永遠なる真理と永遠なる慰めから離れてしまうことなのです。若さを喜び、今を楽しむ生き方。思うがままに生きる生き方。それも有りです。けれども、被造物である私たちは、創り主から離れたら、一切の楽しみは虚無となることを憶えておかねばならないのです。
 コヘレトは、わかりきれない人生、つかみきれない人生を生きているからこそ、二つの生きる態度を私たちに届け、励ましてくれています。
 その一つが「にぎりしめない生き方」を選びなさいということです。
「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」。わたしのパンとは、わたしに与えられている賜物です。恵みです。生きる糧です。そのパンを水に浮かべて流す(船を送り出すようなニュアンスのことば)、つまり自分のためににぎりしめないで、だれかのために、何かのために、手放して送り出しなさいというのです。7人と8人とすら、そんな身近な人々とさえでよいから、にぎりしめないでわかちあいなさい、というのです。
 市川八幡教会の恒例のバザーを今年は取りやめました。この収益は全て、震災支援や福祉施設に捧げて参りました。今年は、その分を「バザーをやったつもり、バザーで買ったつもり」で献金をしよう、ということで11月いっぱい指定献金を募っています。どうか、ご協力ください。
 人間は、自分のパンを水に浮かべて流すときにほんとうに人間らしい喜びが与えられるし、おたがいの人生と人間性を育むのです。それは月日が経ってから、大きな祝福となって帰ってくるのです。いま、私たち人間は、まさにコヘレトの語る、人間の大切なたたずまい、つまり自分の恵みを水の上に浮かべて流す姿を、(そんなに難しいこととしてでなく)シンプルに呼びかけられているのだと思います。
 今回のコロナのはじまりのころにも見られた光景でしたが、一瞬にしてマスクが消えた、トイレットペーパーがない。今日はカップラーメンが棚にない。今日はパンがとにかく無い。いろいろ心配もあるのでしょうが、必要以上にためこんでいるならば、ためこんで埋めてしまった隙間の分だけ、恵みと祝福はまわってきません。自分がにぎりしめてしまった分だけがその人の分です。レプトン銅貨二枚を、もし彼女が握りしめたなら、手に残っているのはレプトン銅貨二枚だけ。手放したなら、キリストのまなざしが注がれ、想定を超えた恵みが彼女を包むのです。
 もう一つのことは、「今日も種を蒔く」ということです。明日がどうなるかわからないから、種を蒔かないのではなく、明日どうなるかは知らないけれども、明日をあきらめないで、明日を祈って、今日種を蒔くような生き方をするということです。
 先日、夕食前にテレビをつけましたら、今年の熊本での水害の、被害当時の映像が流れていました。出荷できなくなった作物と荒れ果てた畑に呆然と立ち尽くす農家の方のインタビューが流れていました。二人の別々の農家の人でした。一人はこう言いました。「もう、働く気力もなくなりました。やる気にもなりません。補償していただけるものならして欲しいです。」すぐに場面が変わって別の農家に切り替わりました。「せっかく育てたけれどこれ全部、廃棄処分です。でも、種を蒔くのをやめるわけにはいきません。明日から、どうなるかわからないけれど、種を蒔くしかないんです。」やる気が失せてしまう気持ちもほんとうに理解できます。しかし、種を蒔かねば芽はでない。種を蒔かねば、明日の何かは起こりえないのです。明日どうなるかがわからないことと、今日だけで生きることとは違うのです。明日どうなるかわからないけれども、今日、明日のためにつながる種を蒔くのです。明日のためにつながろうとする生き方が、明日とつながっていく。
 私たちも、朝、種を蒔く。夕べにも手当をする。明日を思い煩って、今日をだいなしにするならば明日は実らない。明日を祈りつつ、創り主に委ねつつ、今日を精一杯生きるならば、明日は今日につながった明日として備えられるでしょう。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-15 18:50:15 (134 ヒット)
週報巻頭言

人びとは王を求め続けました。王さえいれば、多く、大きく、強くなれると考えたのです。

この時代を生きているわたしたちも王を求めます。予期せぬ病、災害被害、裏切りに遭い苦しみます。心身はわななき、この痛みから逃れたいと思います。もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあるほどです。しかし、同時に「なぜわたしが死なねばならないのか」という悔しさがこみあげます。
「王の思うがまま」にできる社会についてサムエルは預言していました。「息子は兵士に、娘はパン焼き女にされる」と。ジェンダーは強化され、未来が「王の御心」に奪われてしまうと預言していたのです。誰が生き残り、誰が殺されるのかを、王が決めます。
王という言葉を神という言葉に差し替えるとどうでしょうか。誰が生き残り、誰が殺されるのかを、神の御心と言ってしまっていいのでしょうか。わたしは、「ほんとうにそれが神の御心?」と疑問を持ちながら、わからないこと、理不尽なことに対して、肩と肩をよせ合い、ぬくもりを感じる距離で話し合える場所をつくりたいなあという気持ちで、教会の中で聖書を読む係を担わせていただく歩みをさせていただいてきました。しかし、わたしはあまり上手にできなかったと、今、感じています。それでも、やさしさを約束してくれるはずの教会というスペースで「どれが御心なんだろう」と問うていけたらいいなとわたしは願っています。みなさんにとって、教会はどのようなところでしょうか。

ダビデは、サウル王の寵愛を受け、王の娘ミカルと結婚し、王の息子の一人になりました。ダビデはサウルに仕えました。サウルは、深く悩むといつでもダビデを呼びました。ダビデに琴を奏でさせ、慰めを受けたのです。ダビデは従順な僕、そして、息子として服従しました。サウルのために戦い、勝利し、王のために、父のために尽くしてきたのです。
当時の美徳とされる父子関係でした。息子は絶対的権力者のいいなりを喜んで引き受けていました。ところが、サウルの方がこの関係に恐れを感じたのです。王の地位を脅かすものと、ダビデは敵視されてゆきました。サウルはダビデを恐れるあまりに、その権力をふるって憎悪しました。サウルはダビデに槍を投げつけ殺そうとすらしました。
これは現代社会の中で私たちの間で起こっていることでもあるのです。恐れが憎悪となり噴出し、暴力、威嚇、けん制がつねにやりとりされます。
物語に、もうひとりの息子が登場します。ヨナタンはサウルと妻アヒノアムの長男ですから、ダビデの義兄です。彼は、ダビデとは正反対に父に服従をしません。ヨナタンは敵地の蜜を食べました。戦闘中の飲食が禁じられていたのにもかかわらず、蜜に手を伸ばし、精力を回復しました。食べてはならないと言われていたものに手を伸ばしたのです。この件でヨナタンは父から死刑を命じられました。しかし、ヨナタンを慕う人びとは王に恩赦を懇願しヨナタンは生き残ったのです。

「ヨナタンの魂はダビデの魂にむすびつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。ダビデと契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。」(18章2−3節)

キリスト教会の伝統は、ダビデとヨナタンの物語を、どう読んできたでしょうか。両者が息子で、男性であることから、彼らの愛を「友情」と表現してきました。親友、友愛、と。ところが、どう読んでも、ヨナタンのダビデへの熱愛は性愛を表しています。自分の着衣を相手に渡し、剣、弓、帯を与えるのは性愛的な表現です。仲が良かった、意気投合した、という仲間を表す言葉ではありません。
ヨナタンの自由さは、王国にとって危険でした。蜜を食べ、義弟であるダビデを愛すヨナタンのありのままさは、王国の秩序を乱す逸脱です。義兄弟は、王位継承をめぐり、敵同士として競い合い、蹴落とし合い、一人だけが生き残ればいいのです。愛し合い、ふれあい、ぬくもりとやさしさで、両者が抱き合い生き残ってはならないのです。現代のわたしたちの規範的で監視的な社会でも、この触れ合いと抱擁こそが、最も恐れられていることではないかと思います。人と人とが自由に愛すること、性愛を男女間にとどめないこと、性愛を絶対視しないありのままの私たちの在り方こそが、統制する力を崩します。
国家、機構の利益以外のために、人がいのちを助け合うことは邪魔なこととされます。家族規範的慣習を打ち破り、「あなたと私」という関係が築かれることは、混乱と呼ばれます。男と女という二分法でなく、わたしであること、生殖目的以外の性愛が取り交わされたり、されなかったりと、わたしたちが性を私たちに与えられたものとして取り戻すこと、あなたが生きていてよかったと言い合うこと、これらが、王国システムが最も恐れていることです。だから抑圧者に対して、わたしたちは自由に愛し合い続け、ふれあい続け、抱擁を続けることがもっとも効果的な抵抗なのです。

今朝読んでいる箇所では、二人の男たちが、女たちのように振舞っているとわたしは読んでいます。もう少しだけ、二人の話をさせていただきます。
20章1節に、ラマのナヨトからダビデは逃げ帰ってきたとあります。ナヨトの地は、命をねらわれたダビデが避難した場所です。ダビデがその避難所からも逃げた理由は避難所も危険な場となったからです。
教会へ行ったら助かると思ったが、もっと危険だった、わたしはそのような声をたくさん聴いてきました。キリスト教会で、生きづらさが増していくと感じるのは、ほんの一部のマイノリティの特殊な問題ではすまされないと思います。けれども、わたしはこの物語を読んで思うのです。危険を感じたら、また次の場所がある、必ず自分に触れてくれる人がいる、そのことがここに書かれているのではないでしょうか。ダビデにとっては、それは、王国の秩序を逸脱して、上着を脱いだヨナタンのところだったのです。誰かが、わたしのために、あなたのために上着を脱いでくれていたことを思い出したい、そんな気持ちでこの箇所を読みたいと思います。20章で初めてダビデがヨナタンに言葉を発します。
「お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、私の命を狙われるのでしょうか」。
罪と訳されている語の原意は「反抗する」「抵抗する」です。「わたしが父に反抗しましたか?」と、ダビデは問いました。忠実すぎるほどに仕えてきたはずのわたしが、なぜ、殺されるのか?と。ここまでで、父に対して具体的に反抗したのはヨナタンの方です「父に対して反抗しているのはあなたなのに、殺されるのは、わたしなの?」とダビデは言ったのではないでしょうか。わたしは、このダビデの言葉から、聖書の文字と文字、行と行との間に挟まれ、消されてきた女たちの「声なき声」を聴き出さずにはおれません。
創世記には、実に触れ食べたエバ、エジプト人女性だということで追い出されたハガル、子どもが与えられなかった挙句に最後は出産で死ぬラケル、民数記には裁かれ自分だけが皮膚病を受けるミリアム、士師記には夫から突き出されレイプされた女奴隷、サムエル記には泣いたハンナ‥‥聖書には「なぜわたしが?このしんどさをうけるのは、ほんとうはあなただったのではないの?」という呻きであふれています。わたしたちにも、「御心だから」では割り切れない、「なぜこのような目に遭わされるのか」というもだえ苦しみがあるのではないでしょうか。ダビデも、そういったのです。なんでなの?と。
ヨナタンの心臓に、ダビデのもだえは、どう響いたでしょうか。わたしたちが、町で、職場で、家で、路上で、病院で聞く「なぜ」という言葉は、私たちの心臓にどう響いてきたでしょうか。
ダビデはこう続けました(3節)「死と私との間はただの一歩です」。直訳は、「私と死の間は境界線上です」とするのがよいと思います。一歩と訳されたペシャッハという語は逸脱という語です。この意味にもっと近づいて考えなければなりません。殺されてはならない人が、殺されてしまうなんて、これは、もう超えてしまうことになります!いいの?という意味です。この語は過ぎ越しの祭り、ペサハと同語です。エジプトからの解放の日、死は通り過ぎました。王国の長子のみが死にました。その記憶を持つ人びとにとって、この語は特別でした。王国の長子は、ヨナタンで、あなたが王に背いてきたのに、私がどうして殺されなければならないのですか?と。過ぎ越されるはずのわたしが、死の方へ追いやられ、あなたは生き残るのですか?と。これが、あなたが私にくれた槍、弓、帯なのか?あなたの愛は、王国の制度の中の愛で、いのちといのちの重なり合いなどではないではないか、ダビデは悲嘆、憂いをもってヨナタンに初めて自分から語りかけます。

ダビデが語った「いのちの神は生きている、だからわたしも生きている」ということばは、伝統的な神告白の言葉です。神が生きていて、あなたが生きている、だけどわたしは死んでいくのですか?なぜあなただけが生き残るのですか?なんと鋭く、そしてわたしたちの実存に語り掛けることばでしょうか。あなたが生きて、私が生きている世界はないのですか?あなたが生きて、私が生きていることはどうしてできないのか―この問いを抱いてきた多くの女たち、子どもたち、外国人たち、そして私のすぐ隣にいる人びとの声を、わたしはこのセリフの中に読みたいなあと思って神学研究に従事させていただきました。
どちらかが死ぬ世界では、死の側にならないために服従します。こびへつらい、規定通りのことをこなさねばなりません。大きな身体の一部、パーツになれば生き残ることができます。ヨナタンもまた、いつでもダビデの立場に置かれる境遇です。父に気に入られなければ殺されるのですから。こんな恐怖で明日がない世界での唯一の抵抗は、弱さと弱さの結びつきです。これ以外、これ以上のものはないというのが、キリスト教会が背負ってきた福音のはずです。一番の抵抗は、ふれあい続け抱擁した腕を離さないことです。
ヨナタンは、父への背信を続けました。ヨナタンだけが生き残るのではない、あなたが生きて私が生きる働きを始めます。父に統治される世界から外へ出ていきました。「野に出よう」とダビデを外へと連れ出しました。二人は境界線を越えて目には見えない一線をまたいで外へ出ました。こどもたちは、二人ともが生き残ること、いのちを選択しました。
イエスもそうだったのではありませんか?イエスにはローマ帝国やヘロデを凌駕する力はありませんでした。ただ、彼にできたのは、民衆とつながり続けること、民衆に触れ、抱擁し愛することでした。民衆が殺され続けてゆく中で、イエスも殺されました。あなたが殺され、彼も殺されたのです。これが、打ちひしがれた民とのただひとつ残された連帯の方法だったとしたらなんと悲しいことでしょうか。イエスに語り掛けた女たちは、「なぜあなただけが生きるのか」と問いました。イエスは民衆から「神だけが、王だけが生きるのか?それでいいのか」と問われ続け、その声に結びついていったのです。イエスはこの訴えを引き受け、十字架死させられるまでに、父への、王への抵抗を続けました。連帯の方法が、一緒に死ぬことだなんて本当に悲哀に満ちています。
この悲しみに対して神は立ち上がります。神はもう我慢できないのです。神はいのちへ、いのちへと逸脱の道へとわたしたちを押し出します。「主は生きておられ、あなたも生きる」。あなただけが死ぬなんておかしい、という神の応答が復活です。復活は、もっとも弱くされたものを決して殺さないという神の強い意志、抵抗です。人間がしがみついているシステムに対する逸脱行為を神が、実践したのです。神は、上着をわたしたちに渡し、あなたを愛している、私が生きているとき、あなたも生きてほしい、誰かを殺す世界をわたしはゆるしはしない、さあ、野に出よう、あなたを誰も殺すことはできない、逃げよ、もっと遠くへ、こんなシステムにしがみつくな、とわたしたちをいのちのありかへ、光へ、促しているのです。わたしはこれが、聖書から教えられた福音であると思います。もう、だれも殺されてはならないのです。
あなたがいるからわたしもいきられる、わたしがいるからあなたもいられる、 そんな世界創造のわざに、わたしたちも加わっていこうではありませんか。難しいことではないのです、ただ隣にいる人に「あなたがいてよかった」というだけで、わたしたちは両方ともが生きられるようになるのです。   渡邊さゆり


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-08 13:40:20 (139 ヒット)
週報巻頭言

 わたしが牧師として歩み始めた最初の赴任地、兵庫県の伊丹教会には小さな幼稚園がありました。こひつじ園といいます。そこで22歳のわたしは、なんと園長先生をつとめることになりました。とはいえ、園長としてなすべきことなどほとんどわからず、まずは毎朝、こどもたちを門に立って迎えることと、登園してしばらくの自由遊びの時間を、とにかくたっぷりと一緒に遊ぶことが日課でした。
 こひつじ園の年長さんに、筋ジストロフィーの詫間直樹くんがいました。腰のあたりから婉曲した足でようやく立ち上がり、数歩自分で歩いてはぺたんとしゃがみこんでしまう子どもでした。好きな絵本を自分でとっては、ホールの隅にしゃがみこんで床に絵本を開いてじっと見ている。時々、みんながホールで遊んでいる姿を、自分もニコニコしながら見ている、そんな風景でした。他の子どもたちも、直樹くんが座り込んでいるところをじょうずによけながら遊ぶのです。
 丁度そのころ、大縄がブームになっていました。「郵便屋さん、おはいんなさい。ひろってあげましょ、一枚、二枚・・・」長い縄跳びを回しながらくぐるんですね。子どもたちが、きゃーきゃー言いながら飛んだりひっかかったりして遊んでいる。その片一方の縄を回している先生の足下に座って、直樹くんは首をくるくる回しながらみんなを見て、にこにこしているんです。
 自由遊びの時間が終わりますと礼拝の時間があります。小さなイスに子どもたちが輪になって座っている前で、園長先生がお話をするのです。

 その日、わたしは天国の話を子どもたちにしたいと思いました。そして子どもたちに、「なあみんな天国ってどんなとこやと思いますか?」って聞きました。
「いーっぱいお花があるところ。」「お花畑みたいなとこ。」
「うん、そうかもしれんなあ」「ほかには?」
 かっちゃんという男の子が言いました。
「あんな、イエスさまがおんねん。」
「おおかっちゃん、そやな、イエス様がいるなあ」
「ほんでな、ぼくらみーんなで大縄しとんねんけどな、直ちゃんもな、いっしょに大縄し てんねん。」
 かっちゃんはそう言いました。子どもたちの前に立っていたぼくでしたけど、頭をハンマーでガーンとなぐられたような衝撃を受けました。そしてもうお話ができなくなりました。そのあとのお話はしどろもどろになってしまいました。何もしゃべらないほうが良かったのに。
 天国ってどんなところ。「直ちゃんもいっしょに大縄してるようなところ」。子どものかっちゃんがとっさに心に描いた、この天国のイメージの前に、わたしは打ち砕かれてしまいました。イエスさまの招き、すべてを包む招き、そして苦しみや障害からの解き放ち、共に平和にすごす場、そのすべてが内包されたイメージでした。何という子どもの感性、感受性。子どもってすごいなぁ、と思いました。そして「子どものように神の国を受け入れる」ということがどういうことかを学んだように思います。
 かっちゃんはそのように天国を受け入れ、かっちゃんも直ちゃんもそのようにして天国に受け入れられているのです。目の前にいるのは、天のこどもたちでした。

 かっちゃも直樹くんも卒園してからも教会学校に通うようになりました。
 かっちゃんは教会学校が大好きでした。日曜日だけではありません。かっちゃんは教会が幼稚園が大好きでした。学校から帰ってくると、しょっちゅう教会の玄関にやってきました。「園長先生、遊べる〜。」「ごめん、今から家庭集会やねん。」「ほんだら奥やんいる〜。」妻と結婚する前でして、東八幡教会の奥田牧師が当時神学生で牧師館に居候していっしょに暮らしてたんです。かっちゃんは「奥やん、奥やん」って、後ろをついて回っていたんです。奥やんも、ほんとうにまめにかっちゃんたちと遊んでくれていました。かっちゃんは奥やんが大好きで、夏休みには奥田神学生の滋賀県の実家に夏休みに泊まりにいったこともあるくらいでした。伊丹教会・こひつじ園の敷地に、かっちゃんの声の聞こえない日はなかったくらいです。
 かっちゃんが3年生になるとき、かっちゃんのお父さんとお母さんがそろって教会にやってきました。「園長先生、これまで勝彦がおせわになりました。でも教会学校もこれでやめさせてもらいます。先生に習っていたピアノもやめさせてください。うちの子には「灘中(灘中学)」に行ってもらいたいんです。それで浜学園に通わそうと思います。もう、今から気ぃ入れて勉強していかんと「灘中」無理なんです。ぜったいに「灘中・灘高」でいかせたいんです。」
 かっちゃんの顔が街の公園から消えました。ちょっと甲高い張りのある声で、「園長せんせ〜、奥や〜ん」と呼んでくれたかっちゃんの声は、それから聞けなくなりました。
 いちど、夕方に浜学園に通うところのかっちゃんと阪急電車の改札ですれちがいそうになったので、「かっちゃん、いまから浜学園?がんばってるみたいやな」と声をかけましたが、無言でうなずいて改札の中に入っていきました。わたしは、心の中で、「あのかっちゃんがなあ、さびしいなぁ」「ああ、かっちゃんをかえせ〜」と心の中で叫んでしまいました。そんなこと思ってはいけないのかもしれません。でも大事なものを失った淋しさを感じてしまったのでした。

 筋ジストロフィーの詫間直樹くんはお母さんに抱っこされて教会に通いました。直樹くんの筋ジスは年をおって悪くなりましたが、お母さんは下の子を背中に背負って、直樹くんを車から降ろしては抱きかかえて教会に通いました。今思えば、当時バリアフリーではなかった二階の礼拝堂に、直ちゃんを抱いてあがるのは大変だったことでしょう。お母さんは、直樹くん(直ちゃん)が2年生になった年のクリスマスにバプテスマを受けられました。直樹くんもお母さんといっしょに教会にずっと連れられてきました。直樹くんは養護学校の中学生になったとき、もう全身が動かなくなっていましたが、その春のイースターにバプテスマを受けました。そして、まもなくして教会員たちと養護の仲間たち、障害を持った子どもたちのサークルの仲間たちに祈られ見守られながら天に召されました。『花、夢、ぼく。みんな大好き』という詩集を遺して、神さまのところに行きました。

「なあみんな。天国とはどんなところ?。」
 わたしは今でも、「直ちゃんがいるところ」というフレーズが心をよぎります。

 たとえば、赤ちゃんが生まれますともう大騒ぎになります。「じぃじ・ばぁば」がやってきます。親戚もやってきます。友だちがやってきます。その度に、赤ちゃんは、かわるがわるに抱っこされ、揺りあやされ、「いないなばぁ」を見せられ、「ほーら高い高い」をさせられ、しまいにはほっぺにチューまでされてしまいます。赤ちゃんは、なされるままです。可愛がられるままに可愛がられている。まるで、愛されること、祝福されることの受け皿のようです。
 大人になると、なかなかそうはできません。祝福される場所に招かれていても、「わたしなんぞは、そんなもんじゃありません」と言って遠慮したり辞退したりします。心の中では「祝福して欲しいことはこっちで決める!から」とか、「これしきのことで祝福せんでくれ!」なんて思ってたりします。
 けれども、神の国の祝福とは、実におさなごが一方的に抱かれ、包まれ、愛されてしまうほどに神の御手の中で起こることです。それを受け入れることです。受け入れるということは、まるまる神さまに受け入れられることです。私たち人間が考えている「祝福に値する状態」とか「祝福されようのない人間だ」なんて、ほんとうに神さまは考えておられるのでしょうか?
 私たちは、神さまに祝福されてしまうのです。このままのわたしを喜び、祝福してくださろうとしている神さまの御手から逃げようとせず、身をまかせてはいかがでしょう。
神さまを受け入れようとしない、神さまに受け入れられようとしない、そんな頑なな私たちを神の子にするために、神さまはイエス様をくださいました。それほどまでに、神さまの恵みと慈しみによって私たちは愛されています。だから、私たちは、こんな私たちが、やがて神の国で、神の国にふさわしい姿とされて、豊かな交わりをいただいて生きるようになるのだと信じ、神さまの愛を受け入れてしまってはいかがでしょうか。
 そうです。すっかり、神さまに愛されてしまってはいかがでしょう。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
 今日は、子どもたちを祝福する礼拝。ごいっしょに幼子たちを受け入れましょう。幼子たちと一緒に神さまの祝福を受け入れましょう。そして私たちこそ幼子たちと一緒に、神さまに受け入れられましょう。


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