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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-25 18:00:00 (123 ヒット)
週報巻頭言

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)

イエスが活動を始められる前、ヨルダン対岸のベタニアで人々にバプテスマを授けていたヨハネのところにユダヤ人たち(の指導層)が祭司やレビ人たちを遣わして「あなたはだれか」と尋ねさせると、彼は告白して否定しませんでした。すなわちこう告白したのです、「わたしはメシアではない」と。世の終わりに神に先立って来ると信じられていたエリヤでもなければ、モーセの代わりに来るとされたあの預言者でもありません。否、否、否を繰り返すばかりなのです(「荒野で叫ぶ声」という答えは福音書の内容を教会の正統的な教えに近づけようとした編集者の加筆と見られます)。要領を得ないまま、使節団はバプテスマを授ける理由を尋ねますが、彼は「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中にはあなたがたが知らない方がおられる」とまたまたなぞめいたことを言います。メシアを名乗るのはもちろん、メシアがほかにおられると告白するのも命がけではありますが。
 なぞが解かれるのは翌日になってからです。ヨハネはイエスが自分のところに来るのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。イスラエルの罪を背負うやぎ(レビ16:21)のように民の罪を取り除く方であり、過越の小羊(出エジプト12:6–7、第一コリント5:7–8)のように罪の支配から解放してくださる方です。わたしより先に、世の初めからおられた方です。ヨハネはイエスを知りませんでしたが、ヨルダン川で人々にバプテスマを授けていたのはこの方に出会うためでした。霊が下ってその上にとどまるのを見て、自分が待ち続けていたのはこの方だと知り、この方こそ神の子であるとあかしするようになったのです。
 ヨハネが何者であるかは結局はっきりしません。はっきりするのはむしろイエスの本性です。神の小羊、初めからおられた方、聖霊によってバプテスマを授ける神の子であることが明らかにされていきます。ヨハネにはこの方を指し示す以外に独自の役目はありません。しかし、指し示す働きに徹する人生のなんと尊く意義深いことでしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-18 18:00:00 (143 ヒット)
週報巻頭言

ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。(マルコ10:47)

盲人のバルティマイは、目が見えないことでたくさんの辛い目に遭い、たくさんのものを失ってきたと思います。それゆえに、彼には欲しいもの、して欲しいことが、いくらでもあったに違いありません。
 「何をしてほしいのか」。このことばを語り掛けてきたのが母親だったなら、彼は「母さん、疲れました。あたたかいスープをつくってください」と答えたかもしれません。父親だったなら「父さん、お願いです。息子の僕を嫌わないでください」と答えたかもしれません。問いかけたのが物乞い仲間だったなら「座る場所を、たまには人通りが多いところと替わってくれないか」と答えたかもしれません。尋ねたのがその街の名士なら「だんな、もう少し、はずんでくれませんか」と答えたのではないでしょうか。
 でも、彼がずっとずっと自分の生命の真ん中のところに抱え持ってきたもの、ほんとうに叫びたかったのは、「見えるようになりたい!」という叫びでした。でも、もうそれは無理だと折り合いを付け、ぐっと封印してきたのだと思います。求めに、望みに、鍵をかけた。それで生きてきたのだと思います。
 でも彼は、この永年封印してきた叫びをいま解き放つのです。なぜならイエス様が接近したことを彼は聞いたからです。バルティマイの心に何が響いたのかわかりません。なぜイエス様に対してそこまでの気持ちになったのかわかりません。ただ彼は、イエス様に対しては「ダビデの子」(メシアと同意味で使われていた言葉)と繰り返しています。このイエスこそが救い主であるとの確信と信頼が彼を動かしています。自分の求めの中心を初めて解き放ちぶつけることのできる方を見つけた。求めなければならない。わたしの求め、わたしの望み、わたしの救いを、いま、ここで、求めなければならない。バルティマイは今その確信にすべての体重をかけていきます。(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-11 18:00:00 (119 ヒット)
週報巻頭言

神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使徒4:19)

イエスの十字架と復活から間もないエルサレムでは、宣教は危険を伴いました。神のみに従いたい、見たことや聞いたことを話さないではいられないという当然の思いが通用しない時代だったのです。ペトロはただ、足の不自由な人をイエスのみ名によって立ち上がらせ、不思議がる人々にイエスのみ名の力を語っただけでした。しかし、祭司たち、神殿守衛長をはじめとするサドカイ派の人々はイエスをピラトに引き渡した張本人です。そのイエスを神がよみがえらせたということになれば、彼らの権威は地に落ち、神殿から得てきた利益も危うくなるのですから、ペトロとヨハネの宣教は不愉快だったでしょう。そのうえ信者は増えていきます。もはや一日も放置できません。彼らは民衆の目の前でふたりを逮捕します。
 一夜明けて最高法院の裁判が始まります。大祭司らはイエスの復活という本題を避けて使徒たちのよって立つ権威というからめ手から攻めようとします。ペトロはイエスのみ名の力をあかしする機会を捕らえ、大祭司らの「ああいうこと」というぼかした言いかたを「病人に対するよい行い」と言い直し、その奇跡がイエス・キリストのみ名によるものであることを明らかにし、そのイエスを十字架につけて殺したのはほかならぬあなたがた(大祭司たち)であると指摘し、詩編118:22の、家を建てる者が捨てた石が不思議にも家の土台の中でも特に大事な隅の石になったということばを引いて、大祭司が捨てたイエスを神が拾い上げて救いの礎とし、全世界の救い主となさったのだと主張します。「あの名によって話すな」と命じられても「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか、考えてください」と言ってこれを拒み、民衆の支持もあって釈放されました。自分が信じる神のみに従いたい、救いのでき事を人々に語りたい、その信仰を貫いたのです。
 日本でも、国家が神道を護持して国民を従わせ、イエス・キリストが王の王、主の主となられることが語れなくなった時代がありました。その再来をもくろむ動きには警戒が必要です。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-04 18:00:00 (110 ヒット)
週報巻頭言

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。(詩編62:2)

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と作者は歌います。今はただ神のことばを待つしかありません。神はわたしの岩、わたしの救い、とりでの塔として語ってくださるはずです。動揺する理由はありません。どういう状況の中で作者は歌っているのでしょうか。敵対する者たちが一団となって襲いかかり、壁のように倒され、石垣のように崩されそうになっているのです。欺きを計らい、口先で祝福し、腹の底でのろっているのです。無実の人を神殿に訴えて命を奪おうとしているのでしょう。11節から見ると彼らはかなりの有力者だったようです。この状況の中でできるのは沈黙して神のことばを待つことだけだ、と作者は自分に言い聞かせます。神以外に希望はないからです。さらに「神はわたしの岩、わたしの救い、とりでの塔。わたしは動揺しない」との信仰告白を繰り返し、自分の救いと栄えは神にかかっていると訴えながら神の判決を待ちます。
 9節から明るい調子に転ずるのは、無罪の判決を得たからでしょう。そのときちょうど民が祭りに集まっていたのか、後日のことなのかはわかりませんが、作者は人々に神の恵みをあかしし、どのような時にも神に信頼するように勧めます。心を注ぎだすとは、思いを余すところなく語ることです(サム上1:15など)。神に語るのであって、人の子らに語るのではありません。彼らは頼りにならず、暴力や搾取や力も生きる支えにはなりません。神に語ることにだけ実りがあります。ただ、語りつくしたとき、人は聞かねばなりません。神が語り、作者は聞いたのです――力は神のものであり、慈しみもまた神にあることを。暴力をほしいままにする者たちにも、沈黙してただ神に向かう作者にも、神は正しく報われることを。
 信仰とは、単に神の存在を信じることではありません。むしろ祈ることです。祈りを通して人は神との交わりに置かれ、隣人との関係を正されます――心を注ぎだすことを通して、しかし同時にみことばを聞くことを通して。そのためには沈黙がなければなりません。心を静めて聞くことに努めたいと思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-28 18:00:00 (121 ヒット)
週報巻頭言

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている……それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ29:11)

紀元前597年、バビロニア軍はユダ王国を打ち負かし、主立った人々をバビロンに連れ去る一方、エルサレムの王としてバビロニアに従順なゼデキヤを立てました。ユダの人々にとって、それは豊作の神を拝み、弱者を虐げてきた自分たちの罪を悔い改める機会となるはずでした。ところが、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの使者たちがエルサレムに来て、同盟してバビロニアを追い払おうと持ち掛け、預言者ハナンヤも敗戦で絶望している人々を戦争に駆り立てます。無謀な上にバビロンにいる同胞を見殺しにする計画にエレミヤは反対の声を挙げ、やっとやめさせることができました。しかしバビロンにも不穏な動きがあります。そこでエレミヤはバビロンの同胞に手紙で自制を求めるのです。
 「建てよ、植えよ」ということばは、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」(1:10)時が過ぎたことを示しています。今や人口を増やすべき時です。そのためにはバビロンの町が平和でなければなりません。だからユダの人々を捕らえているバビロンが平和で満ち足りているようにと祈るのです。戦争をあおる預言者や占い師たち(21節参照)について行ってはなりません。彼らは主に遣わされてはいないからです。でもいつまでも屈従しているのではありません。70年たったら帰れるのです。70年! 確かに先の長い話です。手紙を読んでいる人たちは「生きては帰れない」と宣告されたようなものです。しかしそこに平和があり、確かな将来があります。つまり希望があるのです――人々が主に祈り求め、主が聞いてくださる関係を神が回復させてくださるという希望が。
 昨年の日本バプテスト連盟の定期総会は、主題聖句に11節を掲げました。どこの教会も苦闘しており、連盟もまた同様です。社会を見てもひとりひとりが孤立し、好戦的な言論の中で危機が深まっています。しかし神は平和の計画を持っておられ、将来と希望を与えてくださっているとわたしたちは信じます。捕囚という暗い時代にエレミヤが信じたように、神のよい意図を信じるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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