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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-01-19 17:47:14 (113 ヒット)
週報巻頭言

神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな 慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ローマ 2:4)
イエスは山上の説教で「義に飢え渇く人々は、幸いである」と語ります。「義に飢え渇 く者」とはどういう人のことでしょうか。一つは、「あちらを見ても不正義、こちらを見 ても不正義。あぁ、この世は不正義だらけだ。なんとかしたいものだ」と義憤に駆られ ている人の事だと考えることができます。あるいは「不正義によって虐げられている人 々を見て、『ゆるせない』と怒っている人」だと捉えることもできます。その解釈もある と思います。けれども、イエスの山上の説教の憐れみのまなざしに則して考えるなら、 「義 に飢え渇く者」とは「自分の中に自分を『立てる』正しさを見いだし得ない者」「正しさ という点では、神の前にただうなだれ悔い改めるしかない自分であることを知っている 者」のことではないでしょうか。あるいは、神が憐れみ深い方であることを知っている ゆえに、自分の義で自分を立てる欲求から解放された人のことだ、と言えるかもしれま せん。イエスは言います。「その人たちは満たされる」と。「もちろん、慰められ、地を 受け継ぎ、憐れみを受けるのだ。天の国は彼ら・彼女らのものなのだ」と。 正しさの主張は往々にして、いえ、必ずと言って良いほど人間を分断します。それに 反して、自分が罪人であることを告白する「悔い改め」は人間を結びつけます。そこに は「ギリシャ人もローマ人もなく、自由人も奴隷もなく」、「ただ罪人でしかない人間」 としての共通点と、 「等しく神の憐れみの中にある人間」としての共通点があるからです。 「悔い改めて生きる」人々こそが、この世界で結びついて生きていく人々なのです。 人間は、ずっと「自己義認」というパラダイム(枠組み)に縛り付けられてきました。 「自分を正しいとしなければ前に進めないのだ」という誤解に捕らわれて歩んできまし た。その結果として、他者への侮辱や差別、憎しみ争いによる禍根が世界と歴史に遺さ れています。イエス・キリストは、その人間の歴史に新しい枠組み、新しい結びつきの 力をくださいました。「悔い改めて神の憐れみを受ける人間」という人間性です。 私たち教会は、正しい人々の群れなのではなく、悔い改める人々の群れであり、神の 憐れみを乞い求める者たちの群れなのです。「自分の正しさ、他人の正しさ、この世の正 しさに疲れている人は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」このイ エスの招きに自らが繰りかえし集められながら、このイエスの招きに疲れている誰かを 招いていきたいと願います。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-01-12 17:58:28 (133 ヒット)
週報巻頭言

イエスはその人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気で あるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。(ヨハネ 5:6)
イエスは言います。「父である神が成し遂げるようにとわたしに委ねた生き方、私が している生き方そのものが、父がわたしをつかわしたことを、証ししている」。 イエスの業、生き方をみてみましょう。 新しい年、あらためてイエスのなさったこと、イエスの言葉を思い起こしたいと思 います。 ヨハネ福音書 5 章のはじめに癒しの奇跡が書かれています。エルサレムにはベトザ タという5つの回廊をもつ池がありました。その池には奇跡にあずかろうと多くの病 気の人が集まっていたのです。38 年も病気で苦しんでいる人に目を留められます。 イエスは誰かに目を留められる時、その人の嘆きやうめき、苦しみを自分の痛みとし て感じられ、声をかけられるのです。 その人に向かってイエスはおかしなことを言います。「よくなりたいか」と。 状況をみたらわかるでしょ、よくなりたいにきまっているじゃないですか。でもイ エスは「よくなりたいか」と聞くのです。本田哲郎訳では「元気になりたいね」と声 をかけたと訳されています。 長い間寝ているだけの男の気持ちになってこの箇所を読んでみたいと思います。 「起 き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」すると男は良くなり、立ち上がることがで きました。 イエスの奇跡は魔法のように身体をいやすだけではありません。「自分は何もでき ない、あの人はいいな」とうらやんでいたその男は、イエスのまなざし、イエスの言 葉を信じ、「これまでの生き方を変えたい」「起き上がってみよう」としたから奇跡が 起こり癒されました。そして「よくなりたいか」のイエスの言葉をその後もずっと考 えながら生きていったのではないでしょうか。 「よくなりたいか」という問いに私たちはどうこたえるでしょうか? 私たちひとりひとりに「元気になるといいね」「よくなりたいか」そして「どう生 きるのか」をイエスは今も問いかけています。 鹿島美紀子


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-01-05 16:15:00 (159 ヒット)
週報巻頭言

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見る ことはできない。」(ヨハネ福音書 3:3)
新年明けましておめでとうございます。皆さまの上に、主の祝福が豊かに注がれます ようお祈りいたします。 本日は、イエスとイスラエルの老教師ニコデモの対話から、人はいくつになっても新 しく生まれ、新しく生き直すことができる、という信仰に導かれたいと思います。 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」とイエスから語りかけ られてもニコデモには理解できません。「年をとったもの者が、どうして生まれることが できましょうか」と反論します。「新しく生まれよ、新しく生きよ」という呼びかけに対 して、実は、人間はいつもそれを拒絶する態度を取るのです。まずは拒否する構えをす るのです。「どうして、そんなことがありえましょうか」と。この「身の構え」はたとえ ば下記のような言葉や思考性に通底しています。 ・社会とはこういうもの。世間を生きるとはこういうこと。自分ひとりでどうすること もできない。郷にいれば郷に従い、長いものには巻かれて生きることが肝要なのだ。 ・人間あきらめが肝心。自分の力はここからここまで。運命には逆らえないのだ。じた ばたするな。なるようにしかならない。 ・理想は理想。思想は思想。しかし現実は違う。経済の力学、数の力学、それがやっぱ りものを言う。 ・「人はパンのみにて生きるにあらず。」たしかに良い言葉だ。でもパンが無くてどうす る。職足りて礼節を知る。貧すれば鈍する。まずはパンを得ること。ちゃんと食えるよ うになり、食わせられるようになってから一人前のこと言え。 ・自分は自分なりに一生懸命生きてきた。誰からも後ろ指さされる覚えはない。他人様、 世間様に迷惑をかけてるわけでもなし、自分の稼いだ金で好きなように生きて何が悪い。 ・今までこうやって生きてきた。もはや変えられぬ。受け継いできた大切なものがある。 それを曲げることはできない。 新しく生まれ、新しく生きることを拒絶するこうした思考や態度は私たちの身の回り にあふれていて、それまでの自分を擁護し、そこに留まる正当性に安住してしまうので す。その生き方を否定しませんが、主イエスは、あくまでも、私たちに「新しく生まれ、 新しく生きることができる」ことを呼びかけてくださいます。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-29 16:45:44 (147 ヒット)
週報巻頭言

「あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではあり ませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行った。 (列下 5:13-14)
2019 年最後の主の日を迎えました。本日は、旧約聖書に記録されているナアマンとい う異国の武将が神ヤーウェと出会う物語を読んで参ります。 この物語が収められている『列王記』は、イスラエルが政争に明け暮れ、偶像崇拝に 傾き、偽預言者が横行し、為政者たちも世俗の論理を優先していくプロセス、つまりは イスラエルの「神の民としての存在意義」が崩落していく過程を克明に記しています。 しかし他方で、他の国の重要な地位にある人物が、「ヤーウェの神こそが生きて働く唯一 の神であること」や「この神はただイスラエルの神なのではなく世界の神であること」 を知り、信じていく覚醒の出来事についても書き留めています。『列王記』が放つ画期的 なメッセージがそこにあります。異国・アラムの将軍ナアマンが、自分の「不治の病」 の癒やしを経験することによって主なる神に出会い、新たな「境地」を得ていくダイナ ミックな物語をいっしょにたどって参りましょう。 ところで、神ヤーウェへの信仰を持ち、癒やされたナアマンが、再び帰路につく際、 ヤーウェの預言者エリシャに願い事をします。身につまされる願いです。ナアマンは、 これからアラムにもどり、益々職務に励まねばならないわけです。そうなると、なかな か厳しい板挟み状態に立たされてしまいます。なぜならアラムはリモンの神を熱心に信 仰する国だからです。アラムの王はリモン神殿の祭司でもあり、側近の自分はその祭儀 の介添えをしなければなりません。そのジレンマを予見したナアマンは「リモン神殿で 自分がひれふすときに、主がそのことについて僕を赦してくださいますように」と、ヤ ーウェの預言者エリシャにとりなしを願うのです。これは、真なる神を知って生きる人 が、そうだとはいえ、世俗の場で板挟みに合ってしまう深刻な苦悩です。しかし、ナア マンは「それはそれ、これはこれ」と開き直ることもできないのです。ですから、ただ ただ、その矛盾を生きていかねばならない自分を主が憐れみ、主が赦してくださるよう に、とひれ伏して願うのです。そのとき、「安心していきなさい」と、エリシャから理解 の言葉、励ましの言葉が語られます。それでようやくナアマンはアラムに帰って行くこ とができたのです。神と共にアラムで生きる一人の異邦人信仰者が、そのようにして誕 生しました。クリスマスにイエスに見えた東邦の博士たちが「別の道を通って帰って行 った」というフレーズが残す響きとどこかで共鳴しているような気がします。 吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-22 21:20:47 (158 ヒット)
週報巻頭言

羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした。 (ルカ 2:8-9) “救い主がお生まれになった”という知らせは荒野に届けられました。人々の暮らしが行 き交う町の外側。壁の外、町の明かりが届かない真っ暗な荒野の空で、天使たちは歌をう たいました。その歌を聞かされたのは、卑しいぞと嫌われ、汚いぞと避けられ、壁の中に は居場所を与えられず、寒さと暗闇に身を横たえ、獣の遠吠えに怯えながら生きるしかな かった羊飼いたち。放ってはおけない羊の群れに、それでも寄り添う人々でした。 荒野の闇と羊飼い。それが象徴している人間の事実が、私たちの人生や自分の身の周り にとても満ちていると思えます。不安、痛み、怒り、疲れ、無理解、理不尽、困惑、孤独、 残酷、攻撃、試練、後悔、絶望・・・。そのいくつかが繋がり、そのいくつかは重なって、私 に、私たちに覆い被さってくる。そんな気持ちになることがあります。私たちは、間違い なく闇に包まれています。でも、生きている以上、暗闇から逃げ切ることができないよう な気がします。生きるってほんとうにしんどい。それ がまぎれもない事実。でも、その闇の中にイエス・キ リストがお生まれになったことも大切な事実。暗闇に 閉ざされていた羊飼いたちが歌を聞いたことも事実。 そして、羊飼いたちが訪ねていける場所があったこと が、クリスマスの大事な事実なのです。だとしたら、 その事実を、私のもう一つの事実にしたいです。 人生の苦悩によって暗くさせられている心のなんと 多いことでしょう。この社会の理不尽や暴力によって 暗くさせられている心のなんと多いことでしょう。 でも、天使たちは、そんな心に向けて光を照らし歌を うたってくれています。暗い心が天を見上げて立ち上 がり、光を信じて歩きだせるようにと。 飼い葉桶に寝かされた赤ん坊を見て、「あぁこれか らも荒野の闇の中で、羊たちを引き寄せ、歌をうたい ながら生きて行こう」と羊飼いたちが歩みだす。私た ちもそのような道を、歌いつつ辿りたいものです。 『


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