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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-16 20:13:53 (85 ヒット)
週報巻頭言

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1:14)

本日は「待降節第3主日」です。教会では第3アドベントとも呼ばれますが、この意味は「神様が天から降りて来られるのを、心を躍らせながら待つとき」ということです。教会では、12月2日からクリスマスが始まりました。毎週、1本ずつのローソクを灯して主のご降誕の記念日を大切に待ちます。
 誰でも赤ちゃんの誕生は大変嬉しい出来事で、心からお祝いするに違いありません。特に当時のユダヤ地方の民は、ローマ帝国の圧政に苦しみ、新しい王様すなわち神様の誕生を待望していたのです。必ずや私たちの苦しみから解放してくれる、最高権力を持つ“正しく・逞(たくま)しい”王様の出現を待っていました。イエス様の誕生によって、民衆は“King of Kings ! Lord of Lords ! ”(王のなかの「王」、主のなかの「主」)と歓喜の叫び声をあげました。しかし、その同じ民衆がイエス様を十字架につけ殺してしまったのです。
 さて、本当のクリスマスの意味とは、一体何なのでしょうか。何のためにイエス様はお生まれになられたのでしょうか。イエス様は殺されるために誕生なさったのでしょうか?
本日のみ言から、「クリスマスとは?」について共に神様の真意を尋ねたいと願っています。わたしたちの「クリスマス」だけではなく、隣人との関わりにおいて、多くの方々と共に、喜びと感謝を持ちつつ、「神様の愛」を分かち合えたら幸いです。
アドベントの意味は、「キリスト待降節」のみならず「キリストの再臨待望」をも示す言葉です。私たち一人ひとりのために「救い主」としてお生まれになられ、永く「神様の愛」に基づく忍耐の末に、神様の“そのとき”に「再臨の主」として再びこの世に来て下さるのです。主イエス様の再臨をも待望しつつ、日々の教会生活を過ごしてまいりましょう。  (鳥飼 好男)                                                                                                                                      


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-02 20:10:35 (76 ヒット)
週報巻頭言

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
(ルカ1:45)

アドベント(待降節)を迎えました。まさしく「主の御降誕を待つ」ように過ごす季節です。この「待つ」という態度・姿勢は、人間にとって極めて重要な姿ではないかと思います。聖書に記されている人間(登場人物)たちが、どの時代においてもどの場面においても必要とされ、神から期待されてきた力が「待つ力」ではなかったか、とさえ思ってしまうことがあります。出エジプトを経験していくイスラエルがそうです。預言者たちの闘いがそうです。
そしてまた、聖書が描写する人間の罪性には「待てない姿」が多分に含まれています。(シナイ山麓での金の牛祭りしかり、バビロン捕囚の際のニセ預言しかり、12弟子たちの失敗談しかり、十字架につけよと叫ぶ群衆しかり、です)。
 いま、チキンラーメンがブームですが、カップ麺の3分が待てないことがよくあります。なにしろ熱いのが好きなので、ぬるくなるのががまんできない。もうえぇやろ!と、ふたをひっぺがしてたぐりこむと「もうちょっとやったなぁ」ということが。そんなことぐらいならまあ良いですが、「待てない」ことで交通事故が起こり、「待てない」ことで人間関係がぎくしゃくし、「待てない」ことでパニック騒ぎや暴動が起こり、「待てない」ことによって民族紛争が引き起こされていくことさえあることを考えると、「待つ」という態度は人間にとって大切であり、かつ困難なものであるように思えます。
待つ・・・。それには、忍耐力が必要です。その忍耐を支えるものとして、信頼や信仰が必要です。待つ相手や事柄への優しさが必要です。待つ必要の無いものと待つべきものとを峻別する洞察力も必要です。求める力、しかも表面的な欠乏感ではなく、求め自体を問う「問い」が必要です。待降節・・・。それは、神さまへの信頼を豊かに高めていく時です。「救い主」を迎えるのですから、救いって何だろう、人間の幸福って何だろう、といつもより丁寧に見つめていきたいと思うのです。今の時代が、どのような叫び声に満ちているのだろう、どこで、誰が、どんな救いを求めているのだろう、と、新聞を読みながら、ニュースを見ながら、聖書の御言葉と重ね合わせて見つめてみること。そうした自分なりの「思い巡らし」をもって過ごすのが「待降節」なのかな、と考えたりしています。
 (吉癲ヽ陝法                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-29 20:06:49 (69 ヒット)
週報巻頭言

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に・・・。
(エフェソ 3:20)

 今日から1週間、「世界バプテスト祈祷週間」として祈りを合わせ過ごします。
「日本バプテスト女性連合」の使命は、次の通りです。
「イエス・キリストが世界の救い主であることを告白し、日本を含めて全世界の人々にキリストの福音を伝えます。また世界のさまざまな痛みの中で苦しみ悲しむ人びとに寄り添い、共に福音にあずかります。これが、神より私たちに与えられた使命であると信じ、この使命を果たすために、互いに助け合い、励まし合います。」
「世界バプテスト祈祷週間」は、女性連合が推進している大切な活動です。世界宣教の働きのため、また同時に日本バプテスト連盟の国内外の伝道活動を覚えその働きの一端を担わせていただいています。
現在、日本バプテスト連盟からインドネシアに野口日宇満、佳奈両宣教師、カンボジアに嶋田和幸、薫両宣教師、シンガポールに伊藤世里江アジア・ミッション・コーディネーター、ルワンダに佐々木和之国際ミッション・ボランティアが遣わされ、その働きを祈り支えています。また、女性連合を通して福島、ネパール、インド、カンボジア、そして世界バプテスト連盟救援委員会を通じて支援の必要な場所へと、祈りとささげものを届けたいと願っています。
「変化著しいこの地で、主イエスが今どこにおられ、その眼差しが今どの方に向かっているのか、追っていきたいです。そして私たちは、主イエスと同じ眼差しをもって、そのお一人ひとりに寄り添っていきたいと願っています。」カンボジアに遣わされている嶋田和幸宣教師が国外伝道ニュースに寄せてくださった言葉です。
私たちもその祈りに繋がり、派遣されている方がたの働きを覚え、足元から広がる世界宣教の働きを担っていきたいと思います。
                              (吉癲])                                                                                                                                      


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-22 09:30:13 (133 ヒット)
週報巻頭言

この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。(マルコ 14:8)

 タイトルの「すべてを主にささげる〜主の豊かさに期待して〜」は、女性連合の2018年度の年間主題です。主題聖句は「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙一4:10)」です。このように、女性連合では、特にこの一年、「スチュワードシップ」を念頭において、歩みを進めてきています。
 「スチュワードシップ」を調べると、《スチュワードは執事・財産管理人の意》とあります。教会では、「神の恵みに対する応答」であり、神から受けた恵みである賜物を管理し、必要なときにそれを差し出す姿勢のようです。シップからは、スキンシップ、フレンドシップのように、関係性や交わりをイメージできます。神の恵みを管理し応えていくことは、一人ではできない。祈り合い、意見交換し、調整しながら、ともに神に応えていく歩みが「スチュワードシップ」の恵みなのでしょう。
 この「スチュワードシップ」を念頭に置きながら、本日は、「イエスに香油を注ぐ女(ひと)」の話を考えてみたいと思います。この話は、4つの福音書すべてに記されていますから、かなり信ぴょう性のある口頭伝承から生まれたと言われています。(しかし、マルコ・マタイと、ルカ・ヨハネでは女性のイメージがかなり異なっています。)いったいこの女性は、どんな女性だったのか。どうしてイエスに香油を注いだのでしょうか。周囲の反応から何が見えてくるのでしょう。そして、イエスは、なぜ女性を擁護したのでしょうか。ご一緒に想像し、思い巡らしたいと思います。そしてイエスさまの励ましを私たちも受け取っていきたいと願います。
(米本 裕見子) 
                                                                                                                                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-11 22:02:49 (156 ヒット)
週報巻頭言

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
(使徒言行録 10:15)

出会い。それは私たちにとって、とてもワクワクする、そして嬉しい出来事です。今日、市川八幡教会の皆さまとご一緒に礼拝が出来ることを楽しみにしてきました。初めて出会う方、久しぶりにお会いする方、はたまた日常的にいつもお会いしている方(!)まで、今日、いろいろな出会いが与えられることを期待しています。
 しかし出会いは、必ずしも嬉しくて楽しいことばかりではありません。時に、出会う者に驚きを与えたり、また拒絶したくなるような出会いを経験することもあります。その人との間にある違いによって、相手をまったく理解できず、その人を受け入れることが出来ないようなことさえあります。違いというものが、出会いという喜ばしい出来事を、そうではないもののように、私たちに感じさせてしまうのかもしれません。
 イエスさまの生きた時代もそうでした。ユダヤ人と異邦人、男と女、障がい者とそうでない人。こうした様々な“違い”が明確に打ち出され、分断されていました。時には、相手を自分たちと同一化させるような暴力的なことさえ起こっていたようです。そして残念ながら、イエスさまの弟子たちを中心としていたはずの初代教会にも、こうした“違い”を受け入れようとしない空気が漂っていたのかもしれません。
 エルサレム教会での迫害を受けて、一部の人たちはユダヤとは“違う”場所へと逃れ、そこで福音を宣べ伝えました。このようにして、福音はエルサレムから各地に広がりをみせていきます。しかし、自分たちこそが「本家本元」だと自負していたエルサレムの教会は、自分たちとは“違う”者たちが福音を信じることを歓迎していなかったようです。そこで遣わされたのがペトロです。ペトロは、エルサレム教会の伝統を守るようにと、ユダヤとは“違った”地域の人々に教えて回っていました。
そんなときに、彼は激しい空腹を憶え、幻を見ます。それは、これまで食べてきたものとは“違った”食べ物の幻でした。のちにペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(使徒10:34)と告白しています。いったい、ペトロに何が起こったのでしょう? ご一緒に考えてみたいと思います。   (松藤 一作)
                                                                                                                                              


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