はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-16 21:14:27 (107 ヒット)
週報巻頭言

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは 40 日間そこ にとどまり、サタンから誘惑を受けられた。 (マルコ 1:12-13a)
祝祷で終わる礼拝。そこから、礼拝の会衆たちの一週間が始まる。生活の場、働き の場に送り出されていくわけである。私は祝祷をする。一瞬だが、派遣する側に立つ かたちになる(本当はいっしょに派遣されているのだが)。でも、それはよく考える と実に重たい事だと知らされる。なぜか。それは、会衆たちが「ここ」から出かけて いく場所が、エデン(楽園)ではなく「荒れ野」だからだ。 以前、まだ宣教師が教会で働きをしていた頃のこと。いっしょに働いていたアメリ カ人宣教師が伝えてくれた率直な言葉はこうだった。「日本のクリスチャンたちを、 私は心から尊敬します。日曜日の礼拝から帰ってくると、そこは右も左も家庭も会社 も、社会全体が、キリストの思いから考えようとはせず、聖書の価値に基づいて語ろ うとはせず、神の前でへりくだって生きることが、なんの説得力も持たない世界なの ですから。欧米の、キリスト教を土壌とする私たちには、少なくともそのプレッシャ ーはクリアされているのです。そう考えるとき、日本のクリスチャンたちの姿はほん とうに尊敬に値するのです。」そんな言葉だった。何言ってんの、欧米だってたいへ んだろうに。でも、 「日本のクリスチャンのジレンマをわかってくれてアリガトね〜」 って、ちょっぴりほっとしながら「この人、いい人!」と感じたのを思い出す。 先週の週報には“イエス・キリストの生き方は、単独者としての生き方ではなかっ た”と書いたが、今日はこう書こう。“イエス・キリストは、痛みを知らず苦しみを 遠ざけて生きたのではなかった”と。主イエスは、ヨルダン川(バプテスマ)からエ デンに導かれたのではない。都エルサレムに直進したのでもなかった。彼はバプテス マの後、荒れ野に踏み込んでいく。しかも「神の霊」に送り出されて・・・。「人はパン のみにて生きるにあらず。神の言葉によって生きるのだ」との鮮烈な宣言は、荒れ野 の空腹と誘惑を身にまといながら絞り出した言葉。そして彼は、荒れ野を通り「誹(そ し)られの地ガリラヤ」に向かい、「まなざしを据え直して生きよう。神の国があな たに接近しているから」と語り始められたのだ。だから、自分が生きる場を「荒れ野」 と例えたくなった時に忘れないでいたい。主がそこにおられることを。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-09 20:16:50 (165 ヒット)
週報巻頭言

あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰の ために共に戦っている(フィリピ 1:27 より)
イエス・キリストの生き方は、単独者としての生き方ではない。単独者として真 理を悟り、単独者としてそれを説き、単独者として(彼だけは)完全に生きた、とい うのではない。主イエスは、いつも誰かを見つめ、誰かを受け入れ、誰かを担い、誰 かと痛み、誰かと歩いた人である。主の死に場所は十字架。そこは、確かに徹底的に 孤独な場所であり、事実、すべての人々から捨てられた「単独」の状態だったのだが、 しかしあの場所でさえも、否、あの場所でこそ、主イエスはすべての人々と共にいた のだった。それが、主イエスの人生の姿、主イエスの死の姿。そして主イエスは、人 を永遠の単独、永遠の過去に閉じ込める墓の中から、人々とのいのちの交わりの中へ とよみがえった。聖霊は、この主イエスのいのちを吹きかけ、聖霊は、この交わりへ と私たちを押し出し給う力である。それが、使徒たちを、弟子たちを、動かしていっ た。そして、パウロも、その力に生きた。 パウロがフィリピの人々に手紙を書いたとき、獄中にあって孤立しており、また、 いつ死の宣告をくだされてもおかしくはない孤独な(生と死の)境目に挟まれていた。 しかし、彼は単独者ではなかった。主イエスの霊が彼を離れることはなかったし、彼 の心は、フィリピの人々のために燃えていた。私たちにとって「福音」とは、単独に してしまう諸力から人間を解放する出来事であり、また、人間を交わり、しかも神と 人々との交わりの中に保ち続ける力が私を包んでいるということだ。 もちろん、私たちは、自分を、自分で生きるしか無い。生きることに自分としての 責任を引き受けるしかない。だから、それぞれがそれなりに闘いながら生きている。 しかも、人を分断したり、孤立させたりする世の力の中で戦っている。その闘い(戦 い)の中で浴びる苦しみを、平気な顔で「恵み」だと語れはしない。ただし、私たち は単独者ではない。私と共に生き、私を共に生きる交わりへと招く聖霊によって、私 たちは結ばれている。そして、「恵み」はその交わりの中から染み出てくるかもしれ ない。 (牧師 吉 叶)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-02 16:51:01 (161 ヒット)
週報巻頭言

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。(ガラテヤ 6:14a)
                     
【就任の辞】
主の御名を賛美いたします。
私・吉盂陲蓮∋埓酥幡キリスト教会よりいただきました牧師への招聘に、感謝と新たな決意をもってお応えし、これを受諾申し上げます。これより、私は、市川八幡キリスト教会の牧師として聖書を読み、祈り、考え、語り、交わることを「自分の務め」として受け取ります。
市川八幡教会にとって、必ずしも、私が最適な者であるとは思いません。しかし、この杯、この使命を受け取る決心をした以上、私が市川八幡教会の牧師であり、それゆえ、果たすべき責務があることを忘れず、その立場から逃げず、努力していく所存です。とりわけ、「隔ての壁を取り除きたい」と掲げる市川八幡教会の牧師として、まずは自らの中にある「壁」を見つめ、それが砕かれることに自らを開きたいと思います。自分を自分自身で守ろうとする「力み」から解き放たれ、何事も「決まっていること」として語らず、また自分が知っている者として傲らず、私の外から届く声に耳を傾けることに努めたいと願います。
ただ、こうした思いを抱いていながら、なお、自分に固執するあさましい人間でしかない私です。どうぞ、皆さまから、時に厳しい諌めを、できれば優しいご助言を賜りますよう、謹んでお願い申し上げます。
何より、牧師としての務めは、私に固有・特有の職務ではなく、教会に連なる皆さまとの関係の中で立てられていく「関係の職務」だと思います。ですから、私は、皆さまとの協力・協働を心から求めます。「主イエス・キリストの十字架と復活が、なぜ、人間にとって解放の出来事であるのか。」「福音とは、こんにち、私たちにとって、私たちが出会う『この人』にとって、何なのか。」このことを、ぜひご一緒に求め、ご一緒に味わい、ご一緒に経験し、さらに多くの方々とわかちあっていく「求道」と「伝道」の歩みに励んで参りましょう。
主イエス・キリストのみが、まことの主、教会の主であります。
主に栄光が、世に平和がありますように。 アーメン
これをもって、「就任の辞」といたします。               主にありて
  2019年6月2日
            市川八幡キリスト教会 牧師 吉癲ヽ
                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-05-26 16:39:14 (120 ヒット)
週報巻頭言

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイ 5:9) 「ぼくには一つ夢がある。みんなで助け合って、今よりも平和な日本を築き上げるこ とだ。肺炎や風邪など今は治すことができる病気で、昔は1年間で12万人が亡くなった ことがあるとネットで調べて知った。今でも病気で苦しんでいる人たちはまだたくさ んいる。ぼくだけが周りの人を助けたところで、平和につながるとは言えないかもしれ ない。でも、みんなで助け合えば、それは未来へとつながると思う。助け合い、平和を 築き上げることは、みんなの願いであるとぼくは思う。だからこそ、みんなで身近な人 を助けて、日本を平和な国にしていきたいと思う。」(東京新聞2018年12月27日) これは、11歳の小学生の投稿です。隣人の痛み、苦しみに心を寄せ、自分ひとりの力 には限界があるが、みんなで助け合えば、それが平和につながり、未来へとつながるの だと彼は言います。私たちは、ともすれば自分の幸せだけを追い求め、隣人の痛みや苦 しみに鈍感になってしまうことがあります。鈍感というよりは、むしろ現実を見ないよ うに、苦しむ人の叫びを聞かないようにしているだけなのかもしれません。出会ってし まったら、自分の限界をつきつけられる恐れがあるからです。そのような私たちに、こ の小学生の声が、「それでいいのですか」と問いかけているように思えるのです。 平和とは、単に戦争を回避するということだけでなく、その人がその人として自由に 安心して生きることができる状態も意味します。そこには、より積極的に他者との間で お互いを尊重し、助け合い、支え合って良く生きることを目指すという意味が含まれて います。そして平和は、心情ではなく、実現する(つくりだす)ものであるとイエスは 言われるのです。私たちは、平和をつくりだす者の幸いと祝福を宣言してくださるイエ スの招きに応答する者でありたいと願います。自らの限界に絶望してしまうような私 たちに、十字架のイエスが共にいてくださり、復活の力によって再出発できる恵みが備 えられていることに望みをかけて。 (栗ヶ沢教会牧師 村上 千代)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-05-19 09:42:49 (163 ヒット)
週報巻頭言

しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている。
(ガラテヤ 4:9a)
                            
 <私の信仰告白> 私は神学生の父と、幼稚園教師の母との間に生まれ、教会で育てられました。小学校5年生のときに「ひとりぼっちになったらどうしよう」という怖れと不安、自分の中にある「罪」の気づきがありました。教会学校でイエスさまが私の罪のために十字架にかかり、復活して共にいてくださることを学び、「イエスさまを私の救い主と信じます」と信仰告白してバプテスマを受けました。
 大人になっていく過程で、何度も形を変えて問いが生まれました。「私は、他の宗教がどんなものかを知らない。キリスト教しか知らないではないか」というものです。親が信じているものを、疑いなく信じてきた私が、「自分の信仰」だと自覚的に受け取り直すために、通るべき道だったと思います。揺れ動いた心が定まったきっかけは、ある小説の一節「人生はひとつの窓からみたほうがよく見えるものだ」というものでした。このとき私は、他の宗教との比較を通してではなく、自分が信じてきた「キリスト教」という窓から人生を見ていく、と心が定まりました。
 昨年度浦和教会では、教会の信仰告白(2002年)を教会学校で半年かけて学びなおしました。その学びの中で、「自分で決心した」と思ってきた信仰は、実は神さまからいただいた一方的な恵みだったということに気がつきました。ヨハネによる福音書にこうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(15章16〜17節)。
 互いに愛し合いなさいと命じられる方は、どんな生き方を私に望んでおられるのでしょうか。私の母は2年前に召されました。前の晩、母の体をさすっていた私は、眠気に耐えきれず、うたたねをしてしまいました。母は「眠いとやね。かあさんも眠い。でも、きつくて寝られん」と体のきつさを訴えました。母の肉体の苦しみ、目を覚ましていてほしいという叫びを前に、私のからだと精神は眠ろうとしている。自分のふがいなさに絶望した夜でした。翌日、母の代理で教会員Yさんの葬儀の奏楽をするために出かけました。「Yさんご家族のこと、よろしくね」が母の最後の言葉です。
 私の弱さ、十字架の前でたじろぐしかできない私を、イエスさまは百も承知。でも「あなたにできることがあるよ」「よろしくね」と送り出してくださるのだと、そのような信仰をいただいて日々を歩んでいることを告白いたします。
(浦和教会・中嶋名津子)                                                                                                                  


« 1 ... 5 6 7 (8) 9 10 11 ... 16 »
市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム