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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2016-11-13 18:00:00 (177 ヒット)
週報巻頭言

また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。(出12:26–27)

アブラハムの子孫はエジプトに移住しましたが、後にファラオの奴隷として酷使されるようになりました。神は人々の叫びを聞き、モーセを召してイスラエルをエジプトから導き出すように命じられました。神はさまざまなしるしでファラオに奴隷解放を迫りますが、ファラオはかたくなになるばかりです。ある春の満月の夜、神はついにエジプトのすべての家の初子を撃ってファラオを降参させられたので、イスラエルは自由を得て荒野に導き出され、その後カナンの地に定住しました。
 きょうの聖書は、神がこの恐るべきしるしをイスラエルに予告し、わざわいを避けるすべを授けるところです。羊をほふってその血をかもいと入り口の二本の柱に塗っておくと、そのしるしを見たみ使いがイスラエルの家を過ぎ越すというのです。この日神が救い出してくださったことを永遠に記憶するため、イスラエルは春分後の満月の日に羊をほふって祝わなければなりません。そして子どもたちに神の救いのみ業を語るのです。
 ユダヤ人は今でもこの日を特別な食事で祝います。そのとき、一家でいちばん年下の子が歌(”The Four Questions” でインターネット上の動画が検索できます)で四つの質問をし、家長がこれに答えることになっています。どうして今夜はいつもの夜と違うの? 種なしパンを食べるのはなぜ?――わたしたちは奴隷だった。わたしたちの先祖は奴隷の家から逃げ出すときパン生地を膨らませる時間がなかったのだ。苦菜を食べるのは、エジプト人が先祖の暮らしを苦いものにしたからだ。苦菜を浸す塩水は奴隷の涙の味、果物のペーストは先祖がこねたしっくいだが、しかし苦しみの中での解放の喜びを覚えるためでもある。寝そべって食べるのは先祖たちのようにわたしたちも自由になれることを覚えるためだ……。厳粛な祭りには子どもは神妙にさせられそうに思えますが、逆に口を挟むことが不可欠とされているとは興味深いことです。何を子どもたちに伝えるかということと並んで、どういう方法で伝えるかもあらためて考えてみたいものです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2016-11-06 18:00:00 (185 ヒット)
週報巻頭言

罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられると。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ24:47–48)

よみがえられたイエスは弟子たちに最後のことばを残されます。まず、イエスの業の総まとめがあります。イエスが生前に教えておられたように、イエスのことはモーセの律法と預言者の書と詩編(旧約聖書全体)に書いてあります。そのことならイエスが何度も予告しておられたのに(9:22, 44, 18:31–33)、弟子たちには理解できませんでした。メシアの苦しみと復活の意味は、思いが開かれることによって初めてわかるのです。
 思いを開かれた弟子たちは、これまで予告されたことを超えて、福音がのべ伝えられること、それをあかしする務めがきょうまさに彼らに与えられることをも理解することができます。のべ伝えるべき事がらには、苦しみを受けたメシアが復活されてわたしたちの希望となられたこと、またそれまでイエスが語られた愛のことばももちろん含まれますが、ルカは悔い改めと罪のゆるしを中心に置いています。エルサレムから始めてあらゆる国の人々へ――遠大な道のりです。「父が約束されたもの」、「高い所からの力」すなわち聖霊の助けが欠かせません。ここには聖霊を何よりも世界宣教を導かれる神ととらえるルカの聖霊理解がよく表れています。一方、ガリラヤについてはもはや語られません。
 その後、イエスは弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福してから天に上げられます。それはまだ復活の日曜日だったのでしょうか。使徒1章でもルカはイエスの昇天を語っていますが、そこでは復活から40日目になっています。ルカにとっては、イエスが彼らを祝福されたことのほうが正確な日付よりも大事なのでしょう。思いを開かれることによって、イエスの祝福の力によって、聖霊の導きによって、弟子たちの旅はさらに続いていきます。弟子たちは大喜びです。使徒1:10に感じられるような寂しさはここにはありません。ベタニアの背後のオリーブ山に再び主が立たれる(ゼカリヤ14:4)ことが彼らの希望になっているからでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2016-10-30 18:00:00 (181 ヒット)
週報巻頭言

焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカ24:42–43)

もう日曜日も暮れていたでしょう。十一人をはじめとする弟子たちは、エマオから帰ってきたふたりから、またシモン・ペトロからも、イエスが現れたことを聞いていました。するとイエスご自身が彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われます。弟子たちは平和どころか、亡霊だと思って恐れおののいているので、イエスは彼らをしかって、ご自分の手と足をお見せになります。そこにはまさしくくぎの跡があります。確かに十字架につけられたイエス、死んで葬られ、しかも生きておられるイエスご自身です。死が終わりではなかったのです。
 イエスは「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」と言って彼らに納得させようとしますが、彼らは喜びのあまり驚くばかりでまだ信じることができません。それは日本一になった監督が「シンジラレナーイ」と叫ぶようなものでしょうか。イエスはだめ押しのように「何か食べ物があるか」と尋ね、弟子たちが差し出した焼いた魚一切れを食べて見せます。そこまでしなければ、弟子たちにはほんとうによみがえられたことが信じられなかったのでした。
 よみがえられた方が「彼らの真ん中に立つ」のは唐突なことだったに違いありません。ヨハネ20:19が言うように家にかぎがかかっていたとすればなおさらです。その点、いかにも亡霊のようですが、ちゃんと肉も骨もあり、食事までするのは紛れもなく人間です。死者は復活するとき体を与えられるのか、むしろそんなめんどうなものは抜きにして霊だけで漂っていたほうがいいのかということが、1世紀のキリスト教会では大きな論争になっていました。パウロは「自然の命の体があるのだから霊の体もある、ただその体は自然の命の体とは違って、朽ちることのない、輝かしい、力強い体だ」と言い切っています(第一コリント15:42–44)。体のない人間というものは考えることもできません。それは神にかたどって造られたものであり、隣人とかかわるためにも欠かせないものです。今は人の体は朽ちるもの、弱いものですが、それでも大切なものなのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2016-10-23 18:00:00 (181 ヒット)
週報巻頭言

わたしはある。わたしはあるという者だ。(出3:14)

日本国憲法が改悪される危機の時代にあって、聖書から自分たちの立ち居振る舞いについて学びましょう。その鍵となるのは、「わたしはある」という一見奇妙な神の名前です。ヘブライ語にするとわずか一単語「エフエ」という動詞です。
 「わたしはある」という神名は、旧約聖書に数箇所しか用いられませんが(「主」という名前は6400回も用いられています)、新約聖書のヨハネ福音書に何回も用いられていることが新共同訳聖書を読むと分かります(招詞参照)。モーセを召した「エフエ」という神は、イエス・キリストという神の子と本質的に同じ方です。
 出3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」の翻訳は、古来議論が分かれるところです。I will become who I will becomeをお勧めします。「わたしは、成ろうとする者に成る」という翻訳です。ヘブライ語には欧米諸語のようなbe動詞や現在形はありません。「有る」というよりは「成る」という意味合いであり、未来まで含む未完了な動作です。神の名は「神の自由」を十分に言い表しています。名は体を表すのです。神は霊であり、その意思のおもむくままに吹く風です。実に敵国まで用いて、ご自分の民を滅ぼすことさえできる方です。信者に侮られ操られるような神は神の名にふさわしくありません。神こそ主権者です。
 だから自由な神はご自分の定めた時期と方法で、モーセに出会う方です。モーセは、ヘブライ人であるのか、エジプト人であるのか、ミディアン人であるのか、自分が何者であるのか深刻に悩んでいました。神はモーセと対面し、神の名と本質を教え、同じようになるようにと呼びかけます。「あなたも成りたい者に成りなさい」と招きます。神の似姿としてわたしたちも主権者です。
 自由となったモーセは、ヘブライ人仲間を自由に解き放つために神によって用いられます。国家権力との厳しいロビイング交渉が始まります。自覚的主権者には、この新しい使命を伸び伸びとまた堂々と穏やかに担うことができます。
 憲法制定権者である主権者としての自覚がバプテストの教会で養い育てられることを共に喜びたいと思います。(城倉啓)


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