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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-31 18:00:00 (179 ヒット)
週報巻頭言

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(第一コリント15:44)

コリント教会に「死者の復活などない」と主張する一派が現れました(12節)。その真意は、おそらく死んでも霊魂は生き続けるので、体が再生する必要はないということでしょう。ギリシャの多くの哲学者はそう考えました。しかし、ユダヤ人であるパウロには体のない人間というものが考えられません。人は神が土をこねて形造ったものなのですから。何よりもキリストが復活の体を受けたのですから。では死者はどんなふうに復活するのでしょうか。どんな体で来るのでしょうか。体である限り苦痛を免れないのではないでしょうか(35節)。
 まかれた種が芽を出し、根を張り、枝葉を伸ばして形を変えていくとき、種は死んでいきます。死ぬことによって命を得るのです。同じように、死者の体も朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものとして起こされます。卑しさと弱さのうちに自然の命の体がまかれ、栄光と力のうちに霊の体が起こされます。体が肉にほかならないとすれば、霊の体などというものがどうしてありうるでしょうか。それは、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が命を与えられるからです(22節)。キリストは命を与える霊であり、わたしたちの体を地に属するものから天に属するものに変えてくださいます。わたしたちの中に眠りにつく(死ぬ)者もそうでない者もいますが、神の力で朽ちないものに変えられるという点は皆同じです。そのとき、死はもはや力を持ちません。死のとげである罪とその力である律法がキリストによって乗り越えられてしまったからです。
 だから、わたしたちは動揺する必要がありません。ただ主の業に常に励めばよいのです。主の業とは、神を愛し隣人を愛すること以外にはありません。キリストの体の一部とされていること(12:27)を自覚して生きること以外にはありません。わたしたちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせあすは死ぬ身ではないか」(32節)とは言いません。主にあって自分たちの苦労がむだにならず、朽ちないものに実ることを知っているからです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-24 18:00:00 (174 ヒット)
週報巻頭言

あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:30–31)

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、天地創造(はじめ)以来の神さまの言(愛と祝福の想い)が肉体(歴史の中で具体的な人)となった出来事です。神さまの愛が私に宿ったことを祝う祭りです。
 1971年に『二十歳の原点』という本がベストセラーになり、2006年に新装版が発行されました。学園紛争のさなかに理想を砕かれ恋に破れ、大学のキャンパス(人生)の孤独者になっていった高野悦子さん。当時二十歳の痛烈な魂の叫び、「孤りであること・未熟であること・それが私の原点である」という有名なことばを彼女は遺し、逝きました。この『二十歳の原点』は父親が彼女の死を悼んで彼女の日記を出版したものです。その日記の5月7日にはこのように書かれています。
 「どうしたって他者が気になる。『他者を通じてのみ自己を知る』か。どこかに、この広い宇宙のどこかに、私を見つめているsomeoneがいるに違いない。会って話がしてみたいものだ。」
自分を見つめるsomeone「誰か」。それは誰だろうか。人間は見つめられて生きている。自分のことを本当に見つめてくれるsomeoneとは誰なのか。これが感性豊かな高野悦子さんの問いであり、彼女が自己の原点と定義した「孤独であること」から放たれた魂の叫びでした。さて、みなさん。あなたを見つめる誰かとは誰ですか。
 あなたを見つめる目があります。あなたを見つめ、あなたを探すsomeoneがいてくださいます。それが神さまです。あなたへの神さまの愛のまなざしです。この神さまの限りない愛があなたに(人類に、ではなく)宿っているのです。生まれたのです。そのしるしがイエス・キリストです!これを「福音」と言います。クリスマスはこの福音(良き知らせ)を自分の中に聴き取り、喜び祝う祭りなのです。
“おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。”ルカ1:28(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-17 18:00:00 (239 ヒット)
週報巻頭言

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。(マタイ4:4)

イエスは荒野に行かれました。悪魔の試みを受けるという積極的な目的があってのことです。40日40夜の断食の末に飢えられたイエスは、試みる者(悪魔)の「神の子なら、石がパンになるように命じてみよ」とのことばに申命記8:3をもって答えます。そこでモーセが指し示すのは、エジプトを出たイスラエルの民がパンに飢えたとき、神がみことばをもってマナという食物を与えられた、あのでき事です。わたしたちは自分で自分の飢えを満たすべきでしょうか。いいえ。人となられたイエスは自分で自分を救おうとはなさいませんでした。次に悪魔はイエスを神殿の境内の端に立たせ、眼下の谷に飛び降りさせようとします。神は天使たちに命じてあなたを支えさせると歌う詩編91:11–12を根拠にしてしかしイエスは申命記6:16を引いて退けます。わたしたちは神を立ち上がらせるために危険を冒すべきでしょうか。いいえ。イエスは神を操ろうとなさいませんでした。「神の子なら」ということばは十字架につけられたイエスへのあざけり(27:40)と響き合っています。
 第3の試みに至って、全体を通して何が問われているかが明らかになります。人はだれをみずからの主とするのでしょうか。神のみことばに期待しないで自分で飢えを満たそうとするのは、みずからを神とすることです。神に奇跡を起こすように強いるのは、神をみずからの下僕とするとことです。いずれにしても人と神との関係の破壊であり、「主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13)という戒めとは正反対の姿勢なのです。
 人として生まれたイエスは、ここでどこまでも人として神への従順を貫かれました。十字架につけられてむざむざと死ぬような神があるだろうか、飢えに苦しむような神があるだろうか、と言う人もいるでしょう。しかし十字架の死に至るまで従順であられたからこそ神の子なのです。みずから飢えを味わわれたからこそ多くの人を豊かに養われるのです。日本でも他の国々でも多くの人が飢える中、世は飢えた人をよいもので満たされる方を必要としています。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-10 18:00:00 (181 ヒット)
週報巻頭言

わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。 (詩編22:12)

人間であるということは、体を養われて生きるということであり、神との交わりと隣人とのつながりの中で生きるということです。しかし時には病を抱え、交わりが損なわれる中で生きるということでもあります。ある人がそういう立場に陥りました。先祖たちが受けた恵みの歴史を思い、母の胎にあるときから神に信頼してきた人です。15–16節から、ひどい熱病が始まりだったと推測されます。それがきっかけで周囲の人々が敵意をあらわにします。病気を罪に対する神罰とみなす考えかたは古代人の間に広がっていました。イスラエルでは、病む人を神殿に引っ張って行って裁判にかけることも行われました。ふだんからその人にねたみや憎しみを持つ人にとっては絶好のチャンスです。
 雄牛、猛牛、獅子、犬などの動物は、病人の悪夢に現れた病魔でしょうか、作者を陥れようとする悪人たちでしょうか。苦難が迫ってきたとき、作者の願いはただ一つ、「わたしを遠く離れないでください」(12, 20節)ということだけです。そしてその願いは聞き入れられました。23節から(あるいは22節後半「あなたはわたしに答えてくださった」から)突然調子が明るくなります。神殿での裁判では、祭司が夜明けに神の託宣を受けて判決を下すことになっていましたから、ここからは無罪の判決を得た感謝の歌と見るべきでしょう。その感謝は祭りに集まった人々の前で歌われ、ささげ物は人々と分かち合われるのです(23, 26, 27節)。
 この詩は、キリスト者にとって特別な詩です。イエス・キリストが十字架の上で2節前半を叫んだとされているからです(マルコ15:34、マタイ27:46)。「頭を振る」、「渇く」、「衣を取ろうとしてくじを引く」などの語句も同じ場面に現れます。わたしたちが読んでいる受難の場面は、詩編22編に基づいて形造られているのです。キリストのご受難はこの詩の作者の苦しみをも包み込むものでした。むしろ古今東西のあらゆる苦しみを包み込むものでした。生身の体で世に来られたからこそ、人間の苦しみを引き受けることができたのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-03 18:00:00 (149 ヒット)
週報巻頭言

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (創世記2:7)

イエス・キリストがわたしたち人間の救いのために世に来られたクリスマスが近づいてきました。主が救おうとされた人間とは、そもそも何でしょうか。聖書の創造物語はその問いに意味深い答えを与えてくれます。第1に、人間は金銀宝石ではなく土からできています。昔の人は、愛する者を葬るとまもなく土に帰ってしまうという痛切な経験を通してそのことを学んだのでしょう。この物語が書かれたのはソロモン王の時代と言われます。貿易による空前絶後の繁栄に酔いしれる人々に、どんなに身を飾ろうとも人は土にすぎないという事実を突きつけたのです。
 第2に、しかし神は土である人間をいとわれません。命の息を「吹き入れる」と言うからには、神にも人と同じように鼻や口があると考えざるをえません。そして人は神に口づけされて生まれてきたのだとも。このひと言に、神の深い愛がみごとに表現されています。これがわたしたち皆の祖先です。体を重荷とのみ考え、霊魂の解放を望んだ人たちもいましたが、聖書は人間の体につきまとう病や死という現実を見つめながらも神の愛に慰めを見いだすように招き、弱さの中に現れる神の力をあかししています。
 第3に、人間はひとりで人間になることはできません。助け合い、共に生きる相手がいて初めて人間と呼べるものになるのです。この物語はなぜ男と女がいるのかという問いにも答えようとしていますが、夫婦の関係に限らない、人間のより深い本質を語っています。人間という字も、人と人との関係の中に人間性があることを示しているでしょう。そうした関係もまた、体を通して経験されるものです。もしかすると現代人は理性に価値を置きすぎて人間が体であることの意味を見失っているかもしれません。そのゆがみは人間を能力で測るばかりで存在そのものの価値を知らないという形で、津久井やまゆり園の事件のような形で、表れてきます。イエス・キリストはそのような世界に来てくださいます。神の形でありながら、自分を無にして人間の姿で現れられたのです(フィリピ2:6–7)。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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