
When you're weary
Feeling small
When tears are in your eyes
I'll dry them all
I'm on your side
Oh,When times get rough
And friend just can't be found
Like a Bridge Over Troubled Water
I will lay me dawn
生きることに疲れ果て
みじめな気持ちになって
涙を流してしまうとき
その涙をが乾かしてあげよう
いつもあなたの側にいる
どんなに辛いときでも
友だちが見つからないときでも
荒れた海に架けられた橋のように
この身を横たえよう
ご存知の方も多いでしょう。サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」です。この曲の原曲の題名は、歌詞の中にもあるように「Bridge Over Troubled Water」ですから「荒れた海に架かかる橋」です。これを日本では「明日に架ける橋」として広めたものです。しかし、この日本語の題名も実に味わい深いものであると思えるのです。
私たちは、今、コロナパンデミックという深い闇に包まれて歩んでいます。ある人々にとっては「まるで嵐の海を漕いでいるようだ」と感じられている方もおられることでしょう。
感染の不安、閉じこもらねばならない不自由、出たくないのに出なければならないジレンマ、どうしても自分の中に芽生えてしまう猜疑心の悲しさ、同調圧力の息苦しさ。もう自由でなくていいから強い力に守られたいという誘惑。触れあうことの喜びから遠ざけられ、交わり合うことを遮られ、私たちは「人間らしい姿」の何かを衰弱させられているのは事実です。私たちが船出した2020年という海はほんとうに荒れており、人間もまた疲れが溜まり荒れているのかもしれません。
それ故に、私たちはいつもの年よりも一層強い思いで、「明日」ということを思いめぐらし、この闇が、この霧が晴れること、嵐が静まることを念じているのではないでしょうか。穏やかな明日の訪れを求めているのではないでしょうか。自分たちの人生の明日、愛する子どもたちの明日、この社会の明日、人類の歴史の明日、こうした「明日」が良きものであって欲しいと誰しもが望んでいるのです。まさしく、明日に架ける橋を見たいのです。
ところで、明日は、明後日からくるのではなく、今日と繋がっていきます。こんなにしんどい今日と繋がっています。明日を迎えていくために、私たち人間は、歯を噛み締めながら今日の労苦を背負い、今日を生き抜いていきます。明日目を覚ましたら何もかもが激変し、すっかりバラ色に変わっているということはないのです。また、あと8日寝ると正月ですが、年が明ければ、コロナウィルスの去った穏やかで美しい明日が約束されているわけではないのです。
みなさん、「明日に架ける橋」それは確かに「荒れた海に架ける橋」なのです。荒れた海、それは、私たちが生きるということの現実であり、沈んでしまいそうなほど危なかしい実相だと思います。そこを踏みしめていく橋が欲しいのです。飛び越えていくわけにはいきませんが、明日に向けて、今日をしっかりと踏みしめていく道が欲しい。その橋はどこにあるのでしょうか。その道はどこにあるのでしょうか。それは補償金や給付金のことでしょうか。それはワクチンの事でしょうか。
クリスマスは、神が私たちにこうささやきかけてくださっている出来事です。
「荒れた海に架かる橋のように、私はあなたの前にこの身を横たえよう。私があなたの荒れた海、生きるという困難さの中にあって、この身を横たえ橋になる、道になる。」と。
クリスマスの舞台となった場所は家畜小屋として使われていた洞窟あり、救い主が寝かされたのは飼い葉桶でした。それは、誰にも顧みられないで、はじき出され、押し込まれてしまった暗闇の穴、あまりにもみじめでお粗末な場所を、神さまは見つめてくださったのだ、ということを意味しています。それはこの時代、この社会の中で、顧みられず痛手を受けた人々を照らしていますし、同時に私のの弱さや私の中の醜い何かをも照らしています。でも、そこを受け入れ、それを癒やし、それを支えるような仕方で、あなたを支えたい、あなたを生かしたい。神の御心は家畜小屋に救い主を宿らせたのです。
この救い主のお名前はイエス。そして別名「インマヌエル」といいます。「神が共におられる」という意味です。どんなに苦しいときにも、どんなに荒れ果てている時にも、私はあなたと共にいる。荒れた海に架ける橋のように、私はあなたの前にこの身を横たえよう。投げ出され溺れてしまいそうな嵐の海をあなたが行くのなら、私は共にいて、あなたの明日への橋になろう。救い主が飼い葉桶に寝かされた意味は、それを意味しているのだと思います。
荒れた海、嵐の海といえば、13歳のアンネ・フランクが遭遇した時代は、ナチズムによるユダヤ人虐殺の嵐が吹き荒れた暗黒の時代でした。アムステルダムの隠れ家で2年以上も身を隠しながら綴られた『アンネの日記』に記されていた言葉、「Soi gentil et tines corage 優しくあれ、そして勇気をもて」この言葉を今年のクリスマスのテーマといたしました。
ラジオを通して隠れ部屋にも届くユダヤ人狩りの情報、自分のすぐそばまで迫り寄っている恐ろしい暗闇の感覚、どんどん痩せ細っていく命の灯火、霞んでいく明日への希望、閉じ込められた閉塞感、思考停止しを起こしそうな、気がおかしくなってしまいそうな極限状況の中で、アンネ・フランクが彼女自身に向かって刻んだ言葉「優しくあれ、そして勇気をもて」。「勇気を出せ」ではなく「勇気をもて」。命令形で書かれてはいますが、この言葉は、アンネの「願い」であり、アンネの「決心」であり、生きることに「誠実」であろうとするアンネの努力でありました。この苦しみの中で何を選び取るかのという態度が、アンネという人間の人間性を守ったのです。その言葉、その思いが彼女を守ったのです。そして、彼女の言葉が、その後70年以上にも亘って、世界中の若者たちに、理想を抱くことを諦めない人間の生き方を伝えたのです。
明日にかける橋、それは言葉のことです。言葉とは思いのことです。神が私たちを愛している。神はそれゆえ私たちと共にいる。この神の思い、神の願い、神の言葉が肉体となった。この神の想いがイエス・キリストとなった。それがクリスマスという出来事です。
明日にかける橋。神は、生きにくさを抱えて今日を生きている私に、今日、共にいてくださるのです。ですから明日も生きたいと思います。
◦ みなさんの明日、みなさんの新年が、キリストの愛に支えられ、晴れない霧の中にあっても誠実な道となられますようにお祈り申し上げます。

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
布にくるんで、飼い葉桶の中に・・・。聖書は、救い主のこの世での居場所のことについて、言い換えるならば、この世が救い主のために用意することができた場所のことについて、こんなに短く、こんなに簡単に報告しています。一枚の布と、家畜の餌箱だった、と。
赤ん坊は小さいです。ですから布は何枚もいりません。小さな寝床があれば十分です。しかし、ここに記されている「布にくるんで飼い葉桶に」この報告の意味していることは、まさしく、あわててその場にあったもので、代用して間に合わせたのです。この仕打ち、この風景が示す端的なメッセージは「この世に余地がない。救い主のために場所はない」ということです。
コロナ禍にあって、老いも若きも、性別にかかわらず、こんなに暗闇を共有したことがない経験をしています。毎日、朝から晩まで、感染者数、死者数のカウント、飛沫はどう飛ぶか、Go toの是非、停止する、しない、早い、遅い。休業補償はあるかないか。正月はどうするか。ワクチンはいつできるか。たいへん賑やかで騒々しいのですが、救い主の居場所は無いのです。身体の安全は気にしていますが、人間の生き方、命の意味を一緒に問おうとしないのです。教会も、ともすれば、礼拝をするかしないか、するならディスタンスはどれくらいか。大切には違いないのですがそうした配慮に心を一杯にしてしまいがちですが、救い主そのものをどう礼拝するか、人間にとって救いとは何なのか、をほんとうに問うて来られたでしょうか。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
「布にくるんで飼い葉桶に寝かされた。」
それはキリストの人生、キリストの死、十字架の死と直結しています。
飼い葉桶とは、キリストが釘づけられた「十字架」と結ばれています。
くるまれた一枚の布、それはキリストの額にめりこんだ「荊の冠」と繋がっています。 飼い葉桶こそが十字架、十字架こそが飼い葉桶なのです。私たちを背負うようにして十字架を担ぎ、担いできた十字架に釘打たれ、そこから逃げ出すことをなさらないで、極限の苦しみの中で私たちの赦しのために祈り、神さまと結びつけてくださったイエス・キリストは、そのお誕生の姿においては、飼い葉桶の中に追いやられ、荒布一枚にくるまれて生まれた救い主でありました。私たちの救い主は、居場所の無い方であった。拒否された方であった。無視された方であった。私たちの救い主は、臭く、汚く、みっともなく、痛く、苦しく、あわれな場をご自身の居場所とされ、その業の場として貫かれたのです。
しかし、もし十字架が私たちの社会の最も暗いなにかを示している場所であるなら、もし飼い葉桶が私の中にあるもっともみすぼらしい部分を現しているのだとしたら、救い主は実は、ご自分の居場所としてそこに生まれ、そこで命を燃やしてくださっているのでもあります。
そうです。「人間が救い主のために居場所を用意できないでいる」ということと「救い主がお生まれにならない」ということを混同してはなりません。救い主は、自ら、居場所を選び、いいえおおよそ居場所の無いところに居場所を設けるのです。そして命となられる。それは、愛がともらないようなところに愛を芽生えさせるということであり、平和がとても起こらないようなところに平和が芽ばえ始めることを意味しています。希望などまるで見えないような中にこそ、希望は、自ら居場所をつくり、その光を放ち始めるということです。
「救い主をお迎えしなさい」というのが、私たちがクリスマスシーズンに口にするフレーズです。それは、決して間違ってはいないのですが、間違うとしたら、私が救い主の場を容易できると勘違いしてしまうことです。この世が救い主のステージを準備できると勘違いしてしまうことです。今年も、イエス・キリストがお生まれになるのは家畜小屋です。今年もキリストのために私たちが容易できるのは荒布一枚と飼い葉桶なのです。いいえ、それすらも、キリストご自身が見いだしてくださるものに過ぎないのです。
クリスマスの出来事の主語は、決して私たちがではなく、人間がでもない。神が、私たちを、赦しと癒しと救いの場所に迎えてくださるために、場所を用意してくださったのだということ、これがクリスマスの真意なのではないでしょうか。クリスマスは、私たちが彼を迎えるテーマではなく、神が私たちを迎えにきてくださったというテーマなのだと思います。救い主は生まれてくださるのです。愛と信仰と希望の居場所をきりひらいて下さるのです。
礼拝の冒頭で、イエスさまの弟子達への別れのメッセージの箇所を読みました。「わたしのいるところにあなたがたをおらせるためである」、イエスさまが弟子と別れる際に語り聞かせられた言葉です。そう、イエスさまの命は、ご自身がおられる場所を弟子達の、私たちの場所にしてくださることのためでした。イエスさまは、わたしたちの居場所のために生きてくださったのです。
家畜小屋も十字架も、そして墓が空っぽだったという証も、そのすべてが、人間の中に救いのための場所はなく、人間の業の中から救いの出来事はおこらず、それはいつも、人間の外から人間を打ち、人間の隙間に場を創造し、人間のいのちを新しい場所に招きながら、人間を救うという事実を指し示しているのです。
救い主のために場所はない。しかし、救い主が命の場となり、私たちはみなそこに招かれているのです。家畜小屋から私たちを招いてくださっています。
2020年のクリスマスのテーマを決めるミーティングで「優しくあれ そして勇気をもて」を提案させていただきました。これはかつてヨーロッパを席巻したユダヤ人排斥・殲滅の嵐の中、オランダ・アムステルダムの隠し部屋に2年もの間身を鎮めながら日記を綴ったアンネ・フランクの『アンネの日記』の裏表紙に書かれていた言葉です。
ナチズムの嵐に対比するわけにはいきませんし、次元の違うことだとは思いますが、新コロナの深い霧の中に閉塞状態にある私たちの気持ちと「閉ざされたアンネ」の状況が重なりました。
ダビデの町で拒絶され閉め出されて「泊まる場所が無かったマリア」「人間の場に居場所を与えられなかったイエス」の消されそうな命の姿とアンネたちユダヤ人の命の姿が重なりました。
そして、イエスを身籠もった時のマリアの年齢(推定14歳)が、日記を綴ったアンネ・フランク(13歳から15歳)とほぼ重なったこと。そんな重なりを連想したからでした。
アンネを含むフランク一家8人は、1944年8月4日にドイツ秘密警察に拘束されます。その数週間前に記された文章を、心に留めたいと思います。
「親愛なるキティーへ
私たちの中に芽生えた理想も、夢も、大事に育んできた希望も、恐るべき現実に直面すると、あえなく打ち砕かれてしまうのです。実際自分でも不思議なのは、私がいまだに理想の全てを捨て去ってはいないという事実です。だってどれもあまりに現実離れしていて、到底実現しそうもないと思われるからです。にもかかわらず、わたしはそれを捨てきれずにいます。なぜなら、いまでも信じているからです。たとい嫌なことばかりでも、人間の本性は、やっぱり善なのだということを。
わたしには、混乱と、惨禍と、死という土台の上に、将来の展望を築くことなどできません。この世界が徐々に荒廃した原野と化してゆくのを、わたしはまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、いつの日かわたしたちをも滅ぼし去るだろういかずちの接近を、いつも耳にしています。幾百万の人々の苦しみをも感じることができます。でも、それでいてなお、顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです。いつかはすべてが正常に復し、いまのこういう惨害にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界がもどってくるだろう、と。それまでは、なんとか理想を保ちつづけなくてはなりません。だってひょっとすると、ほんとにそれらを実現できる日がやってくるかもしれないんですから。じゃあまた、アンネ・M・フランクより」
優しさ、それはアンネの場合、苦しんでいる人間そのものであり、同時に人間に苦しめられながら、人間の中に善いものを期待し信じていこうとすることでした。優しいとは、にんべんに憂い、憂えている人のことでもあり、憂いの傍らに立つ人を意味しています。
勇気、それはアンネの場合、理想を捨てない、理想を諦めないということでした。自分の理想と夢とが、風前の灯火のような事態の中で、それでも実現する日を待っていこうとしたということです。
みなさんはネガティブ・ケーパビィリティーという言葉をご存じですか。イギリスの詩人ジョン・キーツが唱えた人間にとって大切な態度のことです。
「答えが簡単には見いだせないような状態の中にあって、忍耐強く落ち着いて生きる姿」のことです。アンネの姿に通じ、そしてコロナに翻弄されそうな今日の私たちが聞くべき人生の態度だと感じます。
1944年8月4日。アンネは拘束されます。アウシュビッツを経て、ベルゲン・ベルゼン収容所に送られ、他の150万人の子どもたちと共にこの世界から消えてしまいました。しかし、彼女の理想は生き続けています。70年以上に亘り、アンネの言葉は多くの若者を成長させてきました。諦めないことの大切を伝えたのです。アンネの日記の裏表紙には次のように記されていました。
Soi gentil et tiens courage 優しくあれ そして勇気をもて

アドベント第三主日を迎えました。このアドベントは、ラテン語のアドベントゥス・「到来」「到着」とかを意味する言葉からきています。また、アドベントールというと「訪問者」「客人」を意味します。来訪者を迎える。客を迎える。その準備、その喜びの時というニュアンスになりますね。
客というキーワードでピンとくるのが、イエスさまがエリコの町に暮らす徴税人の頭のザアカイに、木の下で出会い、「ザアカイ、今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と語りかけるところです(ルカ19:1-1-0)。徴税人の頭の家に泊まるということを聴いた町の人々は、口々に「こいつはダメだ。罪深い男の家に入って客になった。」とつぶやいてイエスを蔑み、みんな離れていきました。あの出来事などは、イエス・キリストのアドベントゥス、アドベントールの性質をよく現しています。まさに、クリスマスは、「罪深い人間」と呼ばれるような人の客人として、つまり、その時代に排除されている人々のところを救い主は訪ねておられる出来事なのだということです。
ヨハネ黙示録3章20節には次のように書かれています。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。」
わたし達が、救い主を迎えにいく、探しに行くというのではなく、救い主が到来するのです。到着し、戸口をたたいてくるのです。資格のない者であるにもかかわらず選んでくださり、探し出し、名を呼びながら戸口をたたいてくださる。私が悩み多き者であり、罪深い人間であれば尚のこと、この私のところに救い主は到着され、わたしの客となってくださるのです。心の扉を開いてこの客人を迎える、それがクリスマスです。
アドベントというと、もう一つの大事な意味合いをも思い浮かべます。英語のアドベンチャー、そう冒険と訳されている意味合いです。危険を冒して驚くばかりの場所・場面に出向くような行為ですが、もともとは異質なものと出会う意味合いを持っている言葉です。
それと知られた人を通してではなく、誰もがなるほどとうなずけるシチュエーションでもない。救い主の誕生の場所として家畜小屋を定め、救い主の活動の場所を旅空に導き、救い主の命の極みを十字架に据えられる、その神さまの御心は冒険に満ちています。かなりの人間が見落とし、かなりの場面が見過ごされる冒険に満ちています。しかし、家畜小屋のような場所にうずくまり、難民のような暮らしを強いられ、不条理な死の場面に直面する人々が出会うことのできる神の業となって、今も神の業は動いています。
そうした神の業の胎動の証でもあるクリスマスを祝うということは、私たちのまなざしをどこに向けるようにと招いているのでしょうか。
また私という人間がクリスマスを迎えることはどういうことなのでしょうか。神は私の優れたところを求めているのではなく、私の美しい部分を求めているのでもないのです。いま抱えている苦悩、もがいたりあがいたりしている事実、不安に包まれている状態、それに触れ、そこに光を灯すために、この私の客人となってくださっています。冒険のような神の関わりが今年もあなたの痛みに迫っています。
本日はマタイ福音書を読みました。マリアのいいなずけヨセフへの知らせです。救い主の到来にとって、ヨセフの正しさや優しさはあまり役にたちませんでした。彼の正しさと優しさは、決定的な役を果たせなかったということです。ヨセフは正しい人でした。ですから、律法の戒めにしたがって結婚前に懐妊したいいなずけマリヤとは別れなければならないと考えたのです。彼は、妊娠の事実を聞かされたとき苦しんだはずです。何日も眠れず考え続けていたんだろう。「恐れるな」といわれているように、ほんとうに恐れおののき怯えもしたことでしょう。そして彼は、正しい人だから、戒めを守ろうとした。マリアへの愛情より戒めを選ぶことにした。愛情を制御する義をもっていたというか、それで「縁を切ること」を決心しました。
けれども、同時にやさしい人でした。だから、彼女が辱めを受けないように秘かに縁を切ることを決心し、その方法を考えていた。彼の正しさと優しさは精一杯融合して、秘かな縁切り・・・という、悲しいけれども、それ以上はどうしようもない結論を彼は得ていました。正しく、かつ優しい人間としては、それが精一杯だったのです。でも考えれば、この世におこなわれているさまざまな「縁切り話」「関係を断つ」話は、多くの場合、それらしい正しさやよかれと思ってやったのだというそれなりの理屈を装っています。しかし、縁を切るな、関わりを断つなとやはり神は私たちに信じてかかわり、信じて繋がる道を示しているのかもしれません。
救い主を迎えるという出来事は、そのような正しさと優しさを突き抜けて、恐れないで相手を伴侶として迎え、生まれる命、生まれる出来事の父となり母となり、その名付け親となりなさいと命じているのかもしれません。
その生まれ出る命は「インマヌエル」と呼ばれます。神はわれらと共にいる。神の救いの意味、神の救いの仕方は、インマヌエル、わたし達と共にいてくださる方となったということです。
恋人たちがいっしょにいることをアベックとかペアーとかツーショットといいますが、このインマヌエルというのは、仲の良いふたりが並んでいる様子、そんなイメージで共にいるのではなくて、もともと別のもの、一体にはならないものが全く一つに重なっているイメージです。
天の神が助けの手を伸ばされたとか、同情をもってみつめてくださったとかとは違います。ヨハネ福音書では「言葉は肉体となり、わたし達のうちに宿った。」「宿る」とは中に入り込むということです。人間の中に入って、人間のすべてを味わい尽くされるのです。横を歩いてくれるというイメージでなくて、私の持ついっさいの労苦、悲しみ、痛み、悔しさ、恐れをそのままわたしと一緒に経験し、味わい、背負ってくださり、その労苦と悲しみと痛みと恐れの中に愛をもたらし、信仰をもたらし、希望を生み出してくださる、そんな中から命を生み出す方となってくださる。それがインマヌエルという姿です。
そしてその神さまの思いとして世に現れたイエスさまの地上の御生涯は、わたし達と共にいる神さまのインマヌエルの想いの印です。神はどこまでも共にいるのです。
わが子を亡くし、半狂乱で泣き続ける母親の悲しみを味わい、共にいて・インマヌエルされました。
治らない病に財産を使い果たして絶望しかかっている女性の切なさを味わい、共にいて・インマヌエルされました。
心病んでしまって、狂人と呼ばれ、村はずれに鎖で繋がれていた男の、その苦しみを味わい、共にいて・インマヌエルされました。
38年も寝たきりで、生きる目当てを失い無気力になっている人の、その渇きを味わい共にいて・インマヌエルなさいました。
姦淫の罪だと糾弾され、取り押さえられ、見せしめのために石打の刑にされてしまいそうな女性の、その哀れと、悲しみを味わい、共にひざまずいて・インマヌエルされました。
犯罪を犯し、裁かれ、死刑という死を受けながら人生を悔やんでいる犯罪人のその悔恨を知り、悲しみを味わい、彼は共にいて・インマヌエルされました。
イエス・キリストの御生涯は、どのような人のどのような場面にも共にいてくださった御生涯でした。彼は何よりも、「共にいる」ということから始められた方です。「共にいる」。共にその苦しみを味わい、あなたを知る。そのことから新しい何かを生み出された救い主でした。「共にいないでいいから、何かをくれ」という人たちには、最後まで彼の力が見えなかったでしょう。でも「共にいる誰か」を求めている人々にとっては彼ははっきりと見えたのです。
北村薫さんの小節『ひとがた流し』の中に素敵な言葉があります。
乳ガンになって闘病する過酷な試練に見舞われている主人公の千波が、親友美々(ミミ)の娘に語るセリフです。
「人が生きていくとき、力になるのは、“自分が生きていることを切実に願う誰かが、いるかどうかなのよ」という言葉です。
「わたしが生きる、ということを、切実に願ってくれる誰かが、わたしの人生にはいるのだろうか」。先ほどたどった福音書の登場人物たちの求めはそこにあったと思います。そんな人々が出会ったのがイエスでした。そして、イエスさまは、そのような出会いをなさいました。そして、イエスさまはこの私の悲しみや痛みの事実にインマヌエルしながら、切実にわたしの生命を求めてくださっているのです。わたしの中に、彼の愛と信仰と希望とを注ぎ込んでくださろうとしているのです。
イエスさまのインマヌエルの歩みはとどまることがありませんでした。理解されない苦しみ。あざけられる辛さ。裏切られる悔しさ。鞭打たれる痛み。大衆の中を犯罪人として引き回される恥ずかしさ。肉体の渇き。木に釘で打ち付けられる激痛。死がだんだんと肉体を包んでいく恐怖。
わたし達がおおよそ味わうことがないでありましょうそのようなみすぼらしさ、そのような悲惨まで、この救い主は味わいインマヌエルしておられのです。
イエスさまこそ、インマヌエルと呼ばれる方。インマヌエルの印。神が一緒にいてくだされないところはどこにもないという神の伴いの印なのです。
この「神共にいます」という神の愛の証・イエスをあなたへの救いの徴、救い主として迎えなさいと呼びかけています。
神さまがアドベントゥス、客となって、あなたの家を訪れ、あなたの心の扉を叩いています。神さまは、あなたが生きることを切実に願っておられます。あなたにインマヌエル、あなたのどこまでも神は共にいてくださいます。私に、私たちにインマヌエル。神は私たちとインマヌエルしてくださいます。どこまでも。

アドベントを過ごしています。救い主誕生の知らせは、少なからず受けとめる私たちを揺さぶってくる出来事です。知らせを受ける者に異変が起こります。驚きと恐れを伴うことがあります。その知らせは、あとで述べますが、私たちを新しい三つの道へと招こうとし、チャレンジしてきます。揺さぶってきます。クリスマスの揺さぶり、それを世界で最初に身に受けてしまった女性、それがマリアです。
マリアは文字通り、救い主イエス・キリストを「身に受け」てしまいました。つまり身ごもりました。それはあり得ないことでした。あってはならないようなことでした。あったら大変なことになる、そんな厳しい事実でした。
他に術がなかったのでしょうか? 救い主が生まれる別の方法が。たとえば、畑のキャベツの中から生まれるとか、コウノトリとかペリカンとかが運んでくるとか、竹を切ったら出てきたとか、川の上流から流れてきた大きな桃とかかぼちゃの中から出てくるとか、空から落ちてきたカプセルの中に入っていたとか・・・。
いいえ、身に受けることが必要でした。それまで誰も注目することの無かった一人の女性が、救い主の命を身に受け、身に宿したというその事実こそが、実に大切なことです。救い主を迎えるということは、そのことによって恐れや場合によっては危機感が伴うことなのですが、そしてそれはまさに人が自分の身に受けてしまうからであり、その揺さぶりこそが私にとって大切な事柄なのです。もし私たちが救い主の訪れをこの身に受けるのでなければ、それは多くのニュースの一つとして私たちの人生を通り過ぎていくことになるでしょう。あるいは敬虔な感情の一つとして済まされてしまうことでしょう。
実に神さまの業は、一般的かつ抽象的な出来事ではなく、一人の人間の具体性的な現実に具体的な衝撃をもたらしながら宿るのです。「神の具体化」です。「有限なものに対する無限者の自己表出」と言いましょうか。そして、そのマリアの具体性と、この「わたし」の具体性がつながっているのです。重なってくるのです。救い主がマリアの「身に宿る」、しかも神の業、聖霊の力でその「身に興る」。必然性のない人物に、「身に覚え」のない出来事が向こうから飛び込んできて「身に受け」てしまう。それはまさに、クリスマスという出来事が、マリアにだけ起こった出来事、マリアにだけしか起こらない出来事なのではなく、私たち一人ひとりにもまた引き起こされる出来事でもあることを示しています。「救い主を身に受ける。」私たちはみなこの出来事をそれぞれが「身をもって」体験させられていくのでもあります。
突然、大きな病気や思わぬ痛み、辛い事実を背負わされてしまうことがあります。背負わされしまった方々が具体的におられます。そうした方々はすぐにおわかりになることでしょう。聞いて知っていたことと身に受けることは全然違うのだということを。
その痛みが神さまがお与えになったものと直列で申し上げるつもりはありません。しかしどうにも理解できないことに悶絶するときに私たちはどうしても「神さまなぜですか」と叫びますから、その叫びの先に神さまはいらっしゃるのですから。やはり神さまの出来事として私たちは苦しんでいるわけです。そして、自分の理解を超えた事実を身に受けてしまうこと、それは簡単なことではありません。「身をさらされ」、「身が震え」、「身につまされ」ながらそれに向き合わねばなりません。しかしだからこそ、そこで思いめぐらせた何か、そこで感じ取った何かがその人の「身につく」のですし、神さまの御心が「身に染み」、「身に余る」喜びとして受けとめられていきます。そして、ひるがえって神の救いの御業に向けて「身を起こし」、「身を開いて」その業に従う人生へと向けられていくことが起こると思います。身に受けることで身が開かれるのです。
マリアはいま救い主を身に受ける出来事に、私たちの内のひとりとして遭遇しているのです。ですから、受胎告知の物語を、「マリアの物語」としてでなく、わたしの「身の上」として受けとめようとすること、つまり「こんなものいらないです」と叫びたくなるものをいま背負っていること、それを通して、それをひきづりながら、何だろう、なぜだろうと苦悩し、思い巡らせる、それがその人のアドベントでありクリスマスなのでもあります。なぜならクリスマスは人間の具体的な痛みと関係があるからです。なぜならクリスマスは苦悩の中に優しさが宿り、暗闇の中に光と勇気が宿った物語なのですから。
そういう意味では「新コロナなのにクリスマス? 」ではなく、「新コロナだからこそクリスマス」なのです。いま私たちが身をもって感じている不安や恐怖、今回の事でこの社会が身をさらけ出してしまった暗闇、それらが照らされているのです。それらの中にイエスと名づけられるべき命が新たに生まれているのです。
さてマリアがこの日、御使いガブリエルから聞かされた言葉の中には、三つの道に向けてあなたの身を開くようにとの招きが響いているように思います。
それは、第一に「神さまに向けてあなたを開きなさい」ということであり、第二に「世界や隣人に向けてあなたを開きなさい」ということであり、第三に「未来(約束)に向けてあなたを開きなさい」ということだと思います。
「神があなたを恵み、あなたを用いる。あなたは身籠もって男の子を産む。彼はこの世の人々を救い、永遠にこの世界を治めるのだ」と言うのです(これがガブリエルの御告げの内容です)。神と世と永遠へのまなざしです。神と隣人と未来に置き換えても良いでしょう。マリアがもし神の御心を身に受けたならば、それは同時に、救い主の生命がもたらすこの三つの道に身を開かせられていくことを意味しています。そしてこの三つの道に自らの身を委ね、身を開くとき、私たちの人生には、大切な賜物が授けられてくるのです。
すなわち、
1.人は、自らを神さまに開くときに「信仰」が生まれます。
2.人は、自らをこの世界や隣人に開くときに「愛」が生まれるのです。痛みを理解する優しさとしての愛が生まれます。
3.人は、自らを未来に向けて開くときに「希望」が生まれるのです。暗闇の中を顔をあげて生きていく勇気という希望が授けられるのです。
聖書が、生命と人生にとって最も大切だと語る「信仰・希望・愛」は、自分を開いて行く中で授けられ備えられるものです。自分の力で身につけよう、と、自分にこだわり自分を閉ざしているときには信仰と愛と希望がいっこうに生まれてこない。優しくなれないし勇気も湧いてこない。そうしたものです。そうではなく、身を開くことです。神に向かって、隣人に向かって、未来の約束に向かって、身を開くことです。どうやって身を開くのか。身を開くとは、救い主イエス・キリストを身に受けることと同時的に、この身に引き起こされることなのです。救い主イエスさまの命を身に受けようとしないと、私たちは、どんなに自分を開こうとしても、開かれた生き方をしようとしても、どこかで「自分が」「自分に」「自分を」ということが抜けないです。
「神さまが、名もない私を捉えてくださった。ふさわしくない私を用いてくださろうとしている。家畜小屋に生まれたもうキリストは、この私の身に生まれてくださるのだ。私が受けとめよう。感謝して、私がこの救い主の飼い葉桶にさせていただこう。」
そのように、キリストを身に受けるとき、そして身を差し出すときに、私たちは信仰と愛と希望とに開かれ始めているのです。身に受けるとき身は開かれるのです。身に受けようとしなければ、身は開かないのです。
自らを神に開いて信仰が生まれ
自らを隣人に開いて愛が生まれ
自らを未来に開いて希望が生まれる
優しくあれ、そして勇気をもて
このような私こそが
このような時だからこそ
今朝はマリアの最後のことばを私たちの言葉として心に刻みたいと思います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

キリスト教会の特有な言葉に、「用いてください」という言葉があります。自分は何をしたいのだろうか。自分には何ができるのだろうか。自分から線を伸ばしていくのではなくて、「神さまの必要」の線の中で自分がとらえられてたり、自分が用いられていく。
この視点・視線は、人間の自己理解を常に新しくしてくれ、また自分自身を柔らかくもしてくれると思います。自分の為すべき事が自分から出てくるのではなくて、あちらから来る。神さまの方から来る。隣人の方から来る。用いられようとする、必要とされている自分をそこで発見させられていくのです。
この視点、あるいは姿勢を知っていくゆえに、人間は決して自分に絶望する必要がないのです。しかも、神さまは、神さまの豊かな御心と御業を示されるために、知恵のあるもの、才能のあるものではなく、貧しい人や人々から普段顧みられない人を用いられますから、「自分にできそうな何か」が見つからなくても、私たちは不思議に用いられていくのです。
クリスマス。神の御子の御降誕。「救いの御業」の最大のクライマックスは、徹底的に人間の知恵や才能や輝きの裏面にあって実行されていきました。救い主の登場を指し示すヨハネ、そして救い主なるイエスは、その誕生のところから人間の力の届かないところで生命となっています。ヨハネの母はエリサベト。子どもを産むことの「できない」ままに老齢を迎えた女性でした。それが当時の女性にとってどんなに肩身が狭く、寂しいことであったことでしょう。他方、イエスの母はマリア。結婚前の女性で、当時の常識からすれば子を産んでは「ならない」立場の女性でした。そのまま妊娠・出産にいたることが、人々からどれほど白い目で見られ、また危険なことであったことでしょう。けれども、神は用いるのです。「できない」器を用い、「ならない」状態を用いて救いの御業を成し遂げられているのです。
アドベントとはまず、「神さまが為される。貧しい私にも神さまは目をかけ、用いてくださる。」この事実の前に撃たれ、「用いられるかも知れない私」を差しだそうとしていくことに招かれているのではないでしょうか。老女エリサベトは、あり得ないはずの妊娠を自分の身にはっきりと自覚し、25節で「今こそ」と語っています。この「今こそ」は、「やっと願いが叶った」という「やっと」ではなく、辱めを受けながら、長い人生、祈りながら待ち続けた人生に「今こそ」神の御心が迫り、自分が用いられる時が来たという感激を表しているのです。ですから、私たち人間にとって、もっとも華やいだ時を「今こそ」と呼ぶのでは無いのです。もっとも輝いていた時代のことを「今こそ」と言うのではないのです。私たちは、老いて尚、病んで尚、躓いて尚、倒れそうになって尚、「今こそ」という時へと招かれ得る、そういう存在なのです。ですから、私たちはいくつになっても未来を生きるのです。どのようであっても用いられる未来を与えられて生きることができるのです。
バプテスト世界祈祷週間がアドベントと共に心に刻まれていくことに、私は豊かな意味を感じています。アドベントとは、「救い主を待望する心になる。救いを熱望する人になる。」そういう招きをいただく季節です。そのことは、単に自分がそのような人になる、自分の心に救いの光を求めるということだけではなく、この世界の暗闇、暗闇の世界に生きる隣人たる人々と「共に待つ」ということなのだと思います。「共に待つ隣人を知る。救い主を共に迎えたがっている人々を憶える」ということです。それは、普段関わりのある人々という意味での「隣人」以上に、海を隔てて生きる、そして救い主を求めている多くの隣人たちと共に「待望する人間の帯をつくる」ということではないでしょうか。国外伝道、あるいは国際宣教協力という業を通して知らされている世界の兄弟姉妹たち、さらにその世界の仲間たちが心にかけて祈っている課題の広がりが繋がって救い主を待つ。そのような「待望の帯」の中に自分も入れられていることを喜ぶ。そうした世界性や隣人性へと招かれていることは、とても豊かなことだと思うのです。
「私が待つ」から「私たちが待つ」へと変えられていく。そこにアドベントの「待つ」という焦点と、国外伝道の「私たち」という焦点が融合していくのです。
ザカリヤとエリサベトに与えられようとしている赤ちゃん、後にバプテスマのヨハネとなる人物ですが、この男の子には、生まれる前から明確な使命が用意されていました。その使命が、今日のテキストの前の16-17節に記されています。
「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼は(預言者)エリヤの霊と力で主に先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
すなわち、ヨハネという新しい命の使命とは「人々を主のもとに立ち帰らせる」ことであり、「準備のできた民を救い主の前に用意する」ことだ、と言えます。これが、ヨハネを通して神さまが人間に求めていたことです。ですから、アドベントを迎える私たちもまた、ヨハネから呼びかけられているのです。つまりは「主のもとに立ち帰る人々の一員となること」と「主の前に準備を整えた民となること」をです。
「伝道」という言葉は私たちにとって大切な言葉です。この言葉に、私たちは具体的なイメージを持たせていかなければなりません。そして、アドベントと世界祈祷週間というタイミングを与えられたこの時、「伝道とはどのような業か」と具体的に定義するならば、それは「多くの人々と共に準備をすること。」「救い主を待つ『民』となって繋がり合うこと。」「共に準備し、共に待つ、そのような民の一員となろうとすること。(もちろん国籍を超えてです。)」そこにアドベント的な伝道の意味づけがあります。
コロナ感染危機は世界に繋がっています。温暖化も世界に繋がっています。金融危機も繋がっています。食料危機も繋がっています。戦争も繋がっています。女性や子ども達に痛みのしわ寄せが顕著であることも世界に繋がっています。暗闇や苦しみは広がり、繋がっています。こうした危機的状況において「繋がり」を如実に感じさせられてしまうというのは、皮肉なことですが、だからこそ、人間の「待望」も本当は繋がっているのです。「今こそ」なのです。救いの待望、癒しの待望、慰めの待望、希望への待望は繋がっているのです。「優しくありたい。勇気を与えられたい。」一人の人の求めは繋がって民とならなければならないのです。「準備をする」とは、共に人間を生かし、共に被造物世界を感謝し、共に神さまの祝福をわかちあい、共に命の光を求め神さまの業に向けて顔を向けていく、そのような民になろう、結びついて民になろうとすることです。祈ることです。「民」になるために、隣人を見つめることです。「帯」になるために結びつきの線を見いだすことです。そして繰り返しますが、祈ることです。祈りにおいて、私たちは民となることへと導かれます。
たとえ同じ地域に生きていたとしても「一つの民」であるとは言えません。国籍の違い、世代の違い、性の違いがいつも人間を引き裂いてしまいます。同じ国、同じ社会に生きているからといって必ずしも「一つの民」ではないのです。民とは、共に救いに与るために、共に生命を育て合うために、わかちあい、準備する間柄のことです。その民を創りあげていくための力こそが祈りです。祈りにおいて、私たちは兄弟姉妹を憶えることができるのです。祈りにおいて、私たちはまだ見ぬ未来を信じるということです。祈りにおいて、神さまが必ずもたらしてくださる「今こそ」という時を、確信し待ち続けることができるのではないでしょうか。
暗闇が、生命の危機が、恐怖がねたやすく国境を越える現実に、全ての国民が直面しています。そのような時代にあって、この世界は、ほんとうにアドベントを迎えなければならないのです。救い主の前に準備し、準備のできた民となって、共に御前に立つことができるようになりたいのです。エリサベトもマリアも小さな名もない女性でしたが、神さまのビジョンを知りました。そして、その神さまのビジョンのために「私を用いてください」とそこに座りました。彼女たちの小さなたましいこそが、神の救いが広がる世界を捕らえていたのです。
小さな私たちも、顔を上げることができます。座り込んだ小さな自分の膝の上から、目を神さまと世界に向けて、「今こそ、私たちを用いてください」と祈ることができるのです。
了