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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-22 21:20:47 (43 ヒット)
週報巻頭言

羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした。 (ルカ 2:8-9) “救い主がお生まれになった”という知らせは荒野に届けられました。人々の暮らしが行 き交う町の外側。壁の外、町の明かりが届かない真っ暗な荒野の空で、天使たちは歌をう たいました。その歌を聞かされたのは、卑しいぞと嫌われ、汚いぞと避けられ、壁の中に は居場所を与えられず、寒さと暗闇に身を横たえ、獣の遠吠えに怯えながら生きるしかな かった羊飼いたち。放ってはおけない羊の群れに、それでも寄り添う人々でした。 荒野の闇と羊飼い。それが象徴している人間の事実が、私たちの人生や自分の身の周り にとても満ちていると思えます。不安、痛み、怒り、疲れ、無理解、理不尽、困惑、孤独、 残酷、攻撃、試練、後悔、絶望・・・。そのいくつかが繋がり、そのいくつかは重なって、私 に、私たちに覆い被さってくる。そんな気持ちになることがあります。私たちは、間違い なく闇に包まれています。でも、生きている以上、暗闇から逃げ切ることができないよう な気がします。生きるってほんとうにしんどい。それ がまぎれもない事実。でも、その闇の中にイエス・キ リストがお生まれになったことも大切な事実。暗闇に 閉ざされていた羊飼いたちが歌を聞いたことも事実。 そして、羊飼いたちが訪ねていける場所があったこと が、クリスマスの大事な事実なのです。だとしたら、 その事実を、私のもう一つの事実にしたいです。 人生の苦悩によって暗くさせられている心のなんと 多いことでしょう。この社会の理不尽や暴力によって 暗くさせられている心のなんと多いことでしょう。 でも、天使たちは、そんな心に向けて光を照らし歌を うたってくれています。暗い心が天を見上げて立ち上 がり、光を信じて歩きだせるようにと。 飼い葉桶に寝かされた赤ん坊を見て、「あぁこれか らも荒野の闇の中で、羊たちを引き寄せ、歌をうたい ながら生きて行こう」と羊飼いたちが歩みだす。私た ちもそのような道を、歌いつつ辿りたいものです。 『


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-15 17:17:14 (34 ヒット)
週報巻頭言

み ど り ご ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。 (イザヤ 9:5) イザヤ書 9 章の予言(預言)は、イエス・キリスト御誕生のおよそ 740 年前に発せられ た言葉です。やがて、かならずメシア(救い主)が与えられるという約束の言葉です。与 えられるという「予言」ですが、「生まれた」「与えられた」と完了形で記していくのも聖 書の予言(預言)の特徴です。単なる期待ではなく、聞いた者たちは、その約束を確信(核 心に)して、それに基づいて生きるのです。「信仰による生」にはそのような不思議な特性 があります。そして、事実、その約束は、確かに 700 年以上の時を経て、ダビデの町ベツ レヘムに実を結んだのでした。 その予言は、不条理に満ちた世界、悪の支配する世界、つまり新しい救い主に回復して もらわねばならない世界の現実を明確に指弾しています。ただし奇妙なことに、救い主の 到来については「ひとりのみどりごが生まれた」と言うのみです。悪に満ちた世界から人 々を救済するメシアの到来を予告するのですから、もう少しぐらいは、それ相応の人物像 を伝えておいてくれてもいいのではないでしょうか? たとえば、“ひとりの勇敢な戦士が 現れる”とか“ひとりの卓越した指導者が王に就任する”とか“ひとりの賢者が語り始め る”とかです。しかしこの予言(預言)は「ひとりのみどりごが生まれた」と、つまりは。 「ひとりの赤ちゃんが生まれます」と言っているだけなのです。いつ、どこに、も無しに。 わたしたちの世界でもそうですが、この世で輝き、章をもらい、人々の注目を集めるの は、能力を示した政治指導者であったり、人類の未来に具体的に貢献した発明家であった り、優れた思想家であったり、あるいは斬新な起業家であったりします。そこには「成果」 が付随しています。ですから、そのような「成果」を予見させる人物像がほのめかされて いなければ「期待を喚起する予言」にならないと思います。しかし、聖書の予言(預言) は、ただ「ひとりのみどりご(嬰児)」と記されているに過ぎないのです。これでは予言と 言えるのでしょうか。しかも、 「登場」でも「就任」でも「即位」でも「台頭」でもなく「嬰 児が生まれる」って言われても、どこにでもいる新生児の、どの赤ちゃんか、誰のところ の赤ちゃんか、さえ何も変わらないのですから。 この捉えようの無さの中にこそ神さまの意志があったのです。人間の想定する、人間が 思い図る、人間の納得する、人間が待てる、人間の迎えられる、そんな「メシア像」にお さまらない救い主の出現が、神の御心の中に計画されていたのだと思います。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-08 20:13:03 (34 ヒット)
週報巻頭言

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの 言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 (ルカ 1:28-29) 天使ガブリエルは、バビロニア捕囚時代にダニエルを励まし、その祈りに応えて救いの 約束を届け、また彼に深い思慮と知恵とを授けるために遣わされました。神の使いは「平 和と解放の到来」を待望している人々への「しるし」です。それが天使ガブリエルの象徴 していることであり、旧約聖書の人々の信仰も不信仰も、成功も失敗も、喜びも悲しみも、 もがきも苦しみも、やがて天使ガブリエルが届けに顕れる「救いの約束」に向かって、そ の歴史を刻んでいるのだ、と言うことができると思います。 その天使ガブリエルが、500 年の時を隔てて(けれども、救いを待望する人々の信仰と祈 りをとらえ、結びながら)、突然・ガリラヤのナザレに暮らす少女マリアのところに訪れま す。まさに時が満ちて、神が一点を定めて(時間と場所と人物という一点を定めて)出会 ってきたのです。あたかも「突然ナザレ」、「突然マリア」、「突然ガブリエル」のように思 えます。しかし、このガブリエルとマリアの出会いは、長い歴史を束ね、神に信実を込め て祈り続けた少なからぬ人々を抱きかかえ、天地と生命をお造りになった神ヤハウェの深 いご計画が働いて、ある日、ある時、具体的な時間と場所に生きる実際の人間を直撃した、 そんな出来事でした。ここに、神の御心の実現を待ち望んできた人々の、壮大な歴史の「中 心」がつくられていくのです。つまりは、ガブリエルがもはや再登場する必要のないほど 決定的な出来事、すなわち「救い主の誕生の告知」が、この時なされたのだと言えます。 先主日、 「ガブリエルは、今日、誰のところにくるのだろうか」という問いを立てました。 それは、 「再生と解放を待ち望みながら祈りを捧げる人間が、今この時代にどこにいるのか」 という問題意識にもとづき、そのことを強調するために「ガブリエルは誰のところに」と いう問い立てたのでした。しかし今朝は、マリアと共に救い主の訪れの知らせを聞くこと によって、「ガブリエルはもう誰のところにも来ないのだ」と言い直したいと思います。 キリストが与えられたのですから。救い主が与えられたのですから。中心は据えられた のですから。それ故、私たちは、未だ聞けぬ約束・未だ見ぬ赦しに向かって祈るのではな く、また未だ見ぬ希望に向かって待ち続けるのではなく、赦しと救いを約束してくださり、 人間とその世界に再生と解放の希望を与えてくださるキリストをいただいたのですから。 わたしたちの生き方は、ガブリエルを待つ生き方ではなく、イエス・キリストによって立 ち進む生き方へと変えられていくのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-01 18:31:52 (50 ヒット)
週報巻頭言

こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが 飛んできて近づき、わたしに触れた。 (ダニエル 9 章 21 節)
「神の民」を自認するイスラエルにとって、徹底的な挫折感と、出口の見えない閉塞 感を味わう経験が「バビロニア補囚」です。 「この事態に及んだ原因は果たして何なのか。」 「この経験を通して神はイスラエルに何を問いかけておられるのか。」その後のイスラエ ルの思想は「バビロニア捕囚」の歴史的・信仰的解釈の賜物であると言っても過言では ありません。加えて、イスラエル思想にとって決定的な影響をもたらしたのは、まぎれ もなく「出エジプト」です。歴史的にはずっと遡る「モーセの時代」の経験ですが、そ の後「バビロニア捕囚」という「破局」を味わった人々にとって、「エジプト脱出と荒野 の 40 年」は、歴史や人生を見つめる「ものさし」となりましたし、「出エジプト」経験 と「バビロニア捕囚」経験とは大きな線で繋がり、重要な歴史観となっていきました。 過去(経験)を読み解く作業と、今(現実)を解釈する作業を切り結び、さらには未来 に備える姿勢を整えていく。そのためには、その背後にあって、有史以来、歴史を導い ている神の御心を受け止めていく。そのような信仰と世界観・人生観が「ヘブライニズ ム」を形成していったのでした。 さて、『ダニエル書』は、このバビロニア補囚のただ中を、信仰と祈りをもって生きた ダニエルたちの眼を通して、神の託宣を聞き取り、将来に希望を観ていこうとして編集 された文書です。この『ダニエル書』の舞台は、バビロニア捕囚時代(前 587-538)です が、編集され読まれていったのは、紀元前 2 世紀の中盤(前 150-170 年)だと思われま す。それは、聖書の世界、すなわちメソポタミア流域、中東、エジプト、地中海沿岸と いう広大な世界が「世界地図」を塗り替え続けているような時代でした。北王国イスラ エルを滅ぼしたアッシリアの後はバビロニア帝国の支配。南王国ユダは「バビロニア捕 囚」の憂き目に遭います。しかしこのバビロニアを滅ぼすのがペルシャ帝国。さらにそ のペルシャをアレキサンダー大王のマケドニア帝国が凌駕します。しかしアレキサンダ ーの死後、武将たちの血で血を洗う後継争いによってマケドニアは瓦解、四つの国に分 裂していきます。やがて、その戦国時代の中からローマ帝国が登場してくるという歴史 です。ダニエルが見た幻は、それらの大国の興亡、隆盛と没落の様子の予言でもありま した。その幻に苦悩し、歴史をわが身に引き寄せて悔い改め、ひたすら人間の救いと平 和を待望し祈るダニエルのもとに遣わされるのが「天使ガブリエル」なのです。 吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-11-24 16:24:30 (61 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたし は宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 (マルコ 1 章 38 節)
世界祈祷週間 国外伝道・国際宣教協力をおぼえて “朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈って おられた”(マルコ1:35)このように祈っているイエスのもとに弟子達が駆け寄ってき て言います。「みんなが捜しています」。 主イエスは、この世界のただ中で祈っておられます。時に人々に見いだされない姿で 祈っています。しかし、まさに主イエスはこの声を聴かれるのです。「みんながあなたを 捜しています」。 貧しい人々、苦しんでいる人々、それゆえに憎しみに囚われる人々、自暴自棄になる 人々、戦禍に巻き込まれる人々。逆に、豊かで不自由が無いはずなのに人生に喜びがな い人々。こうしたあらゆる人々が「捜しているのです」「求めているのです」。人間福の 深い本心は、自分も気づかないかたちで、あの方を(救い主を)捜しているのです。「み んながあなたを捜しています」。 この言葉を耳にし、主はまっすぐ立ち上がり、言われます。「近くのほかの町や村へ行 こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである。」 貧しい人々に神の国の約束を、孤独な人に交わりを、苦しんでいる人々に平安を、自 分を見失っている人に愛を、闘っている人に平和を、絶望している人に希望を、そして 罪人に赦しを与えるために、 「そのためにわたしは出てきたのだ」と主はおっしゃいます。 主イエスは、今もそこに行っておられます。そこでしゃがみこんでおられます。そこ で祈っておられます。そしてそこで十字架にかかっておられます。さらに、そこで墓を 破り復活しておられるのです。この世界に、キリストは今も生きておられます。私たち は、そのために出てきてくださったイエス・キリストを迎えるのです。彼を見、彼に聞 き、彼を分かちあい、彼の名を呼び、共に生きものとならせていただくために、わたし たちは宣教師を立て、送り出すのです。それは、宣教師を通して教えるためでなく、宣 教師を通して相手を変えるためでなく、宣教師の遣わされる現場で主を捜すのです。主 がそこで生きて働いている姿に出会うのです。宣教師の派遣を通して学び、宣教師の派 遣を通して、わたしたちが変えられるためなのです。 吉 叶


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