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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-14 06:29:34 (30 ヒット)
週報巻頭言

本当に、この人は神の子だった。(マタイ 27:54)

マタイ受難曲は、バッハ研究の第一人者が「音楽という言葉では表わせない、 自分の指針となる存在」と言い、多くの著名人が「名曲中の名曲であり、人類の 遺産である」と絶賛しています。しかし演奏時間が 3 時間にも及ぶ難曲であった ため、メンデルスゾーンに見出されるまで、100 年もの間、陽の目を見ることは ありませんでした。 それ以来、時代を越え国境を越えてその人気は高まり、人の心を捉え続けてい ます。なぜでしょうか? バッハはルターの影響を受けて育ち、20 分にも及ぶ礼拝の為の音楽を毎週作曲 しました。彼は音楽の使命は何かを問いつつ、自分の音楽は神の栄光を表わすた めにあるのだという明確な認識を持っていました。 この受難曲は「来なさい、ご覧なさい」「誰を?」「十字架に屠られた小羊を」 と歌う合唱で始まり、マタイ福音書 26 章の『最後の晩餐』から 27 章の『墓が封 印される』までを、語り手のレチタチーヴォ(朗唱)、合唱、コラール、アリアで 歌われます。最後は「われら涙してひざまずき、墓の中のあなたに呼びかけます。 安らかにお休み下さい。」との大合唱で終わります。 この曲は私たちがイエスの死に立ち会った感じにさせます。バッハはキリスト の受難を自分の目の前で起こった出来事として深く受け止め、神に語りかけ、祈 りつつ作曲したのです。そして人間の心の奥に在る、こうしようと思っても出来 ない弱さ、哀しさ、もろさ、醜さ、傲慢さ、残酷さを音楽で表現し、聴く私たち の心を神へと向かわせます。そして私たちの中に共通して存在するこれらもろも ろに光が当たり、神に憐れみと慈しみを願い求めるのです。 「わたしの心よ自らを潔めよ。世よ出て行け、イエスに入っていただくのだ」 と歌う最後のバスのアリアは、バッハの信仰告白のようで私たちもアーメンと唱 和するのです。 私たちの心は世の事でぎっしり詰まっていますが、今年の教会課題「静まって 聴く」とは、イエスに心を明け渡すことではないでしょうか? (教会学校・旧Cクラス:眞嶋 広実)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-07 17:57:21 (33 ヒット)
週報巻頭言

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来た のは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 (マルコ 2:17)

福音書は、たくさんのイエスの言葉を伝えています。これらは、イエスご自身が 書き残した言葉ではなく、イエスは、こんな状況の時に、誰々に向かって、このよ うに話された、という形で伝えられています。ですから、イエスの言葉は、言葉の 意味だけではなく、どのような状況で、誰に向かって、どのようなニュアンスで語 られたのかを考え、推し量ることでより深く味わうことができると思います。 わたしたちはイエスの言葉を聞くときには、イエスが語っている現場に立ち会っ て聞かなければなりません。イエスに付き従った群集の一人として、その場にいる 者の一人として聞かなければなりません。イエスの言葉はその言葉が語られた現場 でこそ生きているのです。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりで収税所に座っているレビに声をかけます。「わ たしに従いなさい。」イエスの声に立ち上がったレビの家に行き、一緒に食事の席 につきます。 ファリサイ派の律法学者は黙っていられない。弟子たちに嫌味を込めて言いまし た。「おまえたちが先生と言っているあの男は、どうして徴税人や罪人と一緒に食 事をするのか。」イエスはこれを聞いて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではな く、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くた めである。」さあ大変、イエスは、「わたしは罪人を招くために来た、徴税人を招く ために来た。」と宣言してしまいました。これはファリサイ派に対する痛烈な批判 にほかなりません。一緒に食事をしないことはもちろん、はっきり徴税人を差別し、 排除するファリサイ派の人々に対して挑戦状をたたきつける気配があります。イエ スは正しい人は招かないと言っているのです。これには弟子たちも驚いたかもしれ ません。しかし、この現場で立ち会っていた者であればこそ、イエスがどんな思い でこんなことを言ったのか察したことでしょう。 (関 玖仁男)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-01 06:40:32 (47 ヒット)
週報巻頭言

もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、 『主がお入り用なのです』と言いなさい。 (ルカ19:31)

エルサレム入場、いよいよその時。イエスさまは、弟子たちが借り受けてきた仔ろば にまたがります。鞍も何もありません。弟子たちは思わず自分たちの服を掛けてイエス さまに座ってもらいました。偉いローマ軍人さんたちが入場するときは、いつも行進の 道に赤い絨毯が敷かれます。一緒にエルサレムを目指していた人々は、「せめても」と 自分たちの上着を道に敷いたのです。この部分、人々の、主イエスへの尊敬の行動とし て読むのが普通なのかもしれませんが、弟子たちや、期待してついてきた人々の、「少 しでも威厳を示したい気持ち、飾りたい気持ち」があらわれてしまった部分だとも読め るのではないでしょうか。 オリーブ山の坂を下るとエルサレムの門です。弟子たちは、極度の興奮状態に陥りま す。37節にありますように、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のこと で喜び、声高らかに神を賛美し始めた」のです。イエスさまの人間の力を超えた奇跡の 数々を今思い浮かべています。それを重ね合わせています。そしてエルサレムでどんな 力を発揮されるのかぞくぞくしています。この新しい王イエスと並んで自分たちが都 で栄光を受ける時が間近に迫った・・・弟子たちは興奮の絶頂にあるのです。この興奮 は、相当数の民衆にもすでに伝播していたものでした。ルカによる福音書以上に、マタ イやマルコ福音書の方が、たくさんの民衆が熱狂的にイエスの一団を迎え入れたこと が書かれています(時間が許される方は、その並行記事も読んでおかれると良いでしょ う)。 そうした中、仔ろばを所望し、その背にまたがってエルサレムに入っていったイエス さまの目は何を見つめていたのでしょう。イエスさまはその興奮と熱狂の中で何を想 っておられたのでしょう。 弟子たちのこのときの興奮は、やがて水を浴びせられていきます。群衆の熱狂は、わ ずか数日後には罵声に変わります。誤解に基づいた興奮、薄っぺらい熱狂でした。あっ というまにひっくり返る、軽い、残酷な熱意でした。 (協力牧師 吉 叶)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-24 18:43:08 (51 ヒット)
週報巻頭言

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)

「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人の問いに対してイエスさまは、神の国は見える形で来るのではなく、「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。」と答えられました。この「ある」という言葉は現在形です。つまり、今すでに神の国は「ある」と答えられたのです。
しかし現実社会に目を転じれば、そこは経済力や権力、腕力など力による支配が横行し、多くの争いがあります。不平等、憎しみ、悲しみ、不信感の渦巻く中で多くの人が傷つき苦しんでいます。私たちは「神の国」をどこに見て希望をつないでいったらよいのでしょうか。
第2次世界大戦に従軍したイギリス人の若者が、日本軍の捕虜となりタイ・クワイ河の収容所に送られました。泰緬鉄道建築の過酷な強制労働により病に倒れ、彼はごみを捨てるように「死の家」に送られます。彼を絶望の底に追いつめたのは、手当てもされず悪化をたどる病だけでなく、捕虜同士の盗み合い、憎しみ、欺きでした。彼を今まで支えてきた教育、道徳、善意がことごとく否定されたのでした。醜い人間の本性に絶望した彼は、無気力、無感覚となり死臭の漂うその場でただ死ぬのを待っていました。
そのような中、収容所内の彼の戦友が、彼の虫が這う体をきれいに洗い、清潔な寝床を用意し、強制労働の後の疲れた体で、彼に丁寧なマッサージを施し根気強いリハビリを続けてくれたのです。やがて彼の動かなかった手足に感覚が戻り、徐々に生きる気力を取り戻します。ひとりの老いた女性宣教師によりもたらされた神の光が、憎しみと不信に満ちたこの収容所内を少しずつ変えていきます。神の愛を知った彼は仲間と聖書を読み、自分がしてもらったように傷ついた仲間に仕え、ついにこの収容所の中に教会を立ち上げます。
まさに「神も仏もあるものかという」悲惨な状況下にあっても、「神の国」は人の間にすでにあるのです。「神の国」は目立たないかたちでひっそりと人と人の間に打ち立てられ、人と周りを根底から変えていきます。
このような特殊な状況を持ち出すまでもなく、私たちが、礼拝で、祈祷会で、また日常生活の中で、イエスさまのお名前を通して祈る時、もうすでにそこは「神の国」のご支配の中にあります。イエスさまが来てくださったことにより実現した、「神の国」のご支配があまねくこの世に行き渡るまで、私たちは今ある現実に絶望するのでなく、希望を持ってイエスさまに従うものでありたいと思います。
                        (篠塚 薫)                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-17 18:39:54 (52 ヒット)
週報巻頭言

主は振り向いてペトロを見つめられた。(ルカ 22:61)

ああ主のひとみ まなざしよ みたびわが主を いなみたる よわきペトロを かえりみて ゆるすはたれぞ 主ならずや (新生讃美歌 486番2節)

今から70年前「この日本を甦らせる道はこのキリスト教にしかない ! 」と確信して入信したわ たしは、「あれでもクリスチャンか」と、世間から後ろ指さされないようにと努力して生きまし た。しかしそんなとき、大方の人達が経験するように、努力すればする程実行できない自分、善 いとわかっていても従えない自分。そんな偽善的な自分に目覚めはじめ、あげくの果ては「こん な醜い自分は、もう教会にいく資格はない」などと、自分を責めるようになっていったのです。 中国山脈のふもとにある故郷・西脇は、11月ともなると大急ぎで冬支度を始めます。しかし、 相も変わらず憂欝なわたしでした。ちょうどその日は、祈祷会がある日だったので、定刻までに は少し余裕があったのですが、ガンバリズムの気持ちで家を出たのです。沈みゆくタ日に映えて、 教会の庭にあった柿の実が燃えるように真っ赤に見えました。どこか遠くで鉄を打つ音が聞こえ ていました。 その時でした、まるで不意打ちのように聖書の一節が胸によみがえってきたのです。 「主、振返りてペテロに目をとめ給う」(ルカ傳22章61節・文語訳)という言葉でした。 全く思いがけない経験でした。「わたしはイエスを知らない」と言ってイエスを三度も裏切っ たペトロに対し、愛と赦しのまなざしを向けられた主イエスのおこころを伝えた言葉でした。 ところが、その主イエスのまなざしが、自己嫌悪に陥っていたこの自分にも向けられ、注がれ ている事に気づいたのです。そのときわたしの受けた衝撃は、少なからず大きなものでした。 茫沱(ぼうだ)として流れくる頬の涙を拭いもせず、教会の祈祷室で書き綴ったのが、この冒頭の 歌詞だったのであります。 (井置 利男)


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