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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-07-09 18:00:00 (23 ヒット)
週報巻頭言

イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出した。(マルコ7:36)

ガリラヤの海辺での出来事。イエスの評判ももうずいぶんと行きわたっていたようです。そこで主イエスは1人の口がきけず耳が聞こえない男と出会います。人々がこの男をイエスの所に連れてきたからでした。人々とは家族でしょうか。友人たちでしょうか。もしかすると、近頃評判のイエスという人物の癒やしの奇跡を自分の目で見たくてこの聾唖者を連れて来た人々でしょうか。どちらも否定はできません。気持ちの点では、慮(おもんばか)りと興味、そのどちらも混じっていたに違いありません。
 主イエスが最初になさったことは、彼とふたりきりになることでした。群衆の中から連れ出して向かい合うことでした。主イエスが本当にあらわしたかったのは奇跡的な力ではなかったのです。萎えた手が動く、見えない目が開くといった身体的なことはもちろん大切ですが、主イエスは、神とその人の人格的交わり、神に対する信仰がその人の中に立ち起こることでした。主は常に、「私の力があなたを救った」とおっしゃらないで、「あなたの信仰があなたを救った」と仰います。その人の生きる喜びの回復、神を讃美して生きる人生を起こしておられるのです。だから、主イエスは、「病気や病人」を見ようとしたのではないのです。主イエスは、「苦しむ人間」を見ようとしたのでもないのです。主は、「あなた(つまり、わたし)」を見ようとしたのです。あなた(わたし)を問題にしてくださっているのです。
 私という自分にとって本当に問題なのは、首相官邸の住人が変わることでも、永田町が変わることでもありません。私にとって本当に大切なのは、私の心が日々新しくなることです。私の心に喜びが起こり、私の心に信仰が産まれ、私の心に感謝が宿ることです。主に関わっていただきたいのは、あそこではなく、ここなのです。
 主イエスは、私と一対一になられようとしてくださいます。まず、そこから始めてくださいます。その主イエスの私を見る目を通して、私も私自身をまっすぐ見ていくことに気づかされていくのです。主イエスに出会うということは、実は、自分と向き合う力を与えられていくということです。そして、そこから、私たちは、他者と向き合うときの大切なまなざしを学びはじめるのです。(吉高叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-07-02 18:00:00 (29 ヒット)
週報巻頭言

エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。(出エジプト1:11)

ヨセフはヤコブの11番目の息子で、エジプトに奴隷として売られながら宰相にまで登り詰め、父と兄たちを飢えから救った話が創世記37章以下に記されています。その世代が死に絶え、ヨセフを知らない新しい王が出ると、イスラエルはエジプトの奴隷とされてしまいます。始まりは異民族に対するエジプト人の恐怖でした。イスラエルが戦争に乗じて敵側につき、国を乗っ取るかもしれないというのです。そもそも搾取や虐待をしなければしかえしを恐れる必要はなかったのですが、王はイスラエルに対する差別的な扱いを反省するどころか、いっそう虐げることで民の力をそごうとしました。ラメセスの町がラメセス2世にちなんで名づけられたとすれば紀元前13世紀になりますが、王の名は直接出ません。ファラオのもくろみにもかかわらずイスラエルの民はますます増え広がり、エジプト人はますますイスラエルの民を疎んじ、粘土こね、れんが作り、あらゆる農作業などの重労働を課します。
 王が次に考えたのは、助産師に命じてヘブライ人の男の子を殺させることでした。男がいなければ敵と内通して国を乗っ取られる心配はないと考えたのでしょう。しかしシフラ(美)とプア(少女)という名を持つ助産師たちは神への恐れから子どもたちを生かし、追及するファラオに賢く答えます。ファラオの怒りはさらに燃え上がり、生まれた男の子をすべてナイル川にほうり込むように命じます。古代訳の中には「ヘブライ人に」と限定を加えたものがあり、口語訳はこれを採っていますが、ヘブライ語の原典にはありません。エジプト人も含めすべての男の子を殺させたとすれば乱心の極みです。
 れんがは町を囲む城壁や人家に使われ、希少な石を補う役を果たしました。エジプトのような大帝国はこうした町を拠点とする武装集団のおかげで成り立ったのであり、町々の建設や食糧の確保は奴隷たちを酷使することで初めて可能になったのです。しかし、神はシフラとプアを用いて、またモーセの姉やファラオの王女と侍女たちを用いて、このしくみに風穴を開けていきます。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-06-25 18:00:00 (36 ヒット)
週報巻頭言

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6:14)

ここまでは口述筆記をさせてきましたが、最後の段落になってパウロみずからペンを執ってあいさつを記します。「こんなに大きな字で」と言っているのは、4:15と照らし合わせると、目の病気のためと思われます。これに加えて「イエスの焼き印」、すなわち迫害の傷も痛みます。それでも言わなければならないことがあるから、病を押して書いてきたのです。
 12–15節は、この手紙で訴えてきたことをもう一度要約しています。「肉において」は人からよく思われたがる人間の罪深さ(5:16–21)と同時に、割礼が肉体につけられる傷にすぎない(3:3)ことをも指しています。しかも割礼を受けている者たちには律法全体を行う意志はありません(5:3)。ただ他人に対して誇りたいだけです(6:4)。それに対してパウロはイエス・キリストの十字架だけを誇ります(2:20)。キリストを選ぶということは、世のさまざまな価値を捨て去り(4:8)、律法を捨て去る(5:18)ことです。世もまたわたしたちを捨て去り、迫害するでしょう(5:11)。問題は割礼の有無ではなく、信仰が愛となって作用するように新しく創造されることです(5:6)。16–18節は祈りです。多少そっけなく聞こえますが、「このような原理に従って生きていく人」に限定して平和、あわれみ、恵みを祈っているわけではないでしょう。すべての「兄弟たち」が恵みを受けるように、そのために福音の原理に堅くとどまるようにというのがパウロの願いなのです。
 「西南よ、キリストに忠実なれ」とはC・K・ドージャーの遺言です。日曜日の野球試合を禁じた彼の判断に賛成するかどうかは別として、何でもないことにこだわったり、固着すべき原理をあいまいにしたりしていないか、みことばに導かれて常に検証することを忘れてはならないでしょう。「教会のいのちは、ただ主なる神の内にある。その現実の前に、私の教会像はひざをかがめ、服さなければならない」とある神学生が書いています。伝道に備えての省察の深まりをうれしく思いました。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-06-18 18:00:00 (38 ヒット)
週報巻頭言

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:21)

紀元49年ごろ、ローマにいたユダヤ人キリスト者はこれに反対するユダヤ人との衝突をきっかけに皇帝の命により追放され、教会に異邦人の信者だけを残してローマを去りました。5年後、ネロの即位と共に追放令が解除されると帰って来て再び伝道に取り組みますが、生活の再建も困難なら、すっかり異邦人化した教会に再び溶け込むのも容易ではありません。異邦人の側も、帰って来たユダヤ人たちがまた問題を起こすことを恐れています。教会の一致を回復させる薬は、偽りのない愛しかありません。10節をはじめ多くの勧めはユダヤ人と異邦人の双方に向けられていますが、13節と15–16節は異邦人への呼びかけ、14節と17–21節は迫害を経験したユダヤ人への呼びかけです。「燃える炭火を彼の頭に積む」(箴言25:22)は公に悔い改めるエジプトの習慣に由来し、敵対する者に好意を示すことで相手を悔い改めさせよという意味でしょう。悪にうち勝つには善による以外にないのです。
 何かと物議をかもす13章1–7節もこの文脈と背景のもとで理解する必要があります。パウロに「今ある権威はすべて神によって立てられたものだ」とまで言わせるのは、セネカのような賢臣に助けられたネロ帝初期の善政です。ユダヤ人キリスト者が再びローマで伝道できるようになったのもネロのおかげでした。他方、権威に従うことは支配者も愛すべき隣人のひとりであることに根拠を持っています。
 しかし、支配者が善を行う者にとっても恐ろしい存在になることがあります。パウロが予想もしなかったことに、数年後にネロは暴君に早変わりし、パウロ自身は処刑され、ローマのキリスト者も再び苦難に遭うことになりました。パウロはあまりにお人よしであったと見るべきでしょうか。むしろ徹底的に愛に生きようとしたのだと言うべきではないでしょうか。「あなたの権威は神に由来するのでしょう? あなたは神に仕える者として務めに励んでいるのでしょう? それならば神に仕える者らしくしましょうよ」と説得するきっかけさえここには含まれていないでしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-06-11 18:00:00 (30 ヒット)
週報巻頭言

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテヤ6:8)

自分たちが霊的な者だと言うなら、人が何かの罪に陥ったとしても、柔和さの霊(5:23参照)をもって正すことができるはずだ、とパウロは言います。霊的だと自認する指導者たちが過ちを犯した者をしかりつけることが多かったのでしょう。実際には、そういう人ほど誘惑に弱かったりします。だから互いに重荷を担うこと、つまりお互いに欠けのある罪人どうしとして相手の悩みを共有することが大切なのです。それは他者の過ちを正すという場面に限りません。そのようにすることでキリストの律法が全うされる(5:14参照)と言うのですから、互いに重荷を担うことは隣人愛そのものなのです。わたしたちに問われているのは、過ちを犯した人をどう正すかという以上に、むしろ自分をどう正し、どう高慢を克服するかです。人はだれしも実際には何者でもありません。「自分に対してだけは誇れる」とは、そういう自分をそれでも肯定し、同時に他者に対しては謙虚を保つことを言うのでしょう。5節は2節と矛盾するようですが、未来形で終わりの日にたったひとりで神の前に立つことを指しています。
 霊の実は、みことばを教える人の生活を支えるという形でも現れてきます。しかしここでも問題は終わりの日と永遠の命を展望する生きかたへと直ちに一般化されます。まいたものは刈り取らねばなりません。人間が抱える弱さや罪深さを肥え太らせていくのか、霊を生き生きと健やかにしていくのか。この二つに中間はありません。8節で「肉」だけが「自分の」で限定されているのは、霊に生きる者は利己心(5:20)から解放されているからでしょう。世の終わりに手にする実りを楽しみに、今はたゆまず善を行い、飽きずに励もうではありませんか。
 その善は、すべての人に対して行うべきものですが、特に信仰上の家族=キリスト者に対する善が最後に強調されています。パウロは俗世間を離れて聖なる世界に生きたがっているのではありません。異邦人キリスト者の信仰を否定し、割礼を押しつけるのは愛ではないから、長々と書きつづってきたのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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