はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-02-23 20:59:23 (46 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。」ヨハネ 11:25
ナチスドイツの弾圧と迫害の獄中にあって、キリストへの信従を貫き処刑された神学 者 D.ボンヘッファー。彼はその著書『倫理』の中で次のように書いています。 「人は自分の死というものを知ることができない以上、生命が何であるかについて定 義することはできない。人に与えられているのは、生命を生きることだけである。しか し、イエスは『わたしは生命である』と語られる。生命についてのあらゆる思想をイエ ス自身の人格に結びつけて。したがって、『生命とは何か』という問いから、『生命とは 誰か』という問いが生まれてくるのである。」(吉睛很鵝砲函すなわち、生命は捉える ものではなく、「私が命だ」という方とのつながりなのだということです。 私たちは「幸福な人生を得るためにキリストを信じる」とか「永遠の命をいただくた めにキリストを信じる」という風になりがちです。しかし、イエス・キリストは真理や 命のための「手段」なのではなく、彼が私たちと結びついてくださること、つながって いることが「命」であり「復活」なのだと聖書のイエスは語りかけてきます。そして、 そのイエス・キリストとの結びつきに「限界」や「制限」を定めることは、私たちには できないのです。主イエスがそれを乗り越えて来てくださるからです。 愛する弟ラザロが死に、マルタとマリアは泣いています。そばに居て欲しかったイエ スが到着したのは弟が死んで 4 日目でした。「主よ、もし生きているうちでしたなら。し かし、もはやどうにもなりません。亡骸はすでに臭い始めています。」マルタからもマリ アからも同じため息が漏れます。望みは絶たれたのでした。愛の交わりは洞穴(墓)に 封じられたのでした。死別と墓、それは人間から「望みと交わり」(それは命にまつわる とても大切なこと)を断ってしまうあまりにも大きすぎる力です。 イエスはこの洞穴に立って泣くのです。はらわたがちぎれるような痛みを感じ、人間 を閉じ込め、打ちのめしてきた強い力に憤りをさえ覚えて泣かれるのです。そして、そ の洞穴に踏み入って絶叫するのです、「ラザロ、出てきなさい」。 この主イエスの共苦の涙と繋がりが「命」です。このキリストとの結びつきが「命」 です。主イエスが「洞穴」という私たちの悲しみや痛みに入りこみ、痛みに繋がって泣 いてくださる。この繋がりが「命」そのものであり、「復活」そのものなのです。 ラザロを見てイエスは人々に告げます。「死の布をほどいて行かせよ」と。私たちを包 んでいる断絶の布はイエスとの結びによってほどかれ、命は歩み出したのです。吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-02-16 18:23:43 (43 ヒット)
週報巻頭言

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っている。ヨハネ 10:14
先主日は「信教の自由を守る日」を覚えて礼拝を捧げ、メッセージではその関連とし て「バルメン宣言」を紹介いたしました。そのバルメン宣言の「第1テーゼ」に引用さ れている聖句が、イエスによる「羊の門」の言葉です。「よくよくあなたがたに言ってお く。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ 10:7,9)この聖句に導か れて書かれる命題は「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の言葉のほかに、また それと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、 承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」というものです。 イエスもバルメン宣言も“よく養われ、充分に満たされている羊の群れ”の話をして いるのではありません。また“羊たちを安全に守れている門”の話をしているのではあ りません。イエスの、そしてバルメン宣言者たちの目の前には、常に脅され、侮辱され、 尊厳を否定され、飢え渇き、役に立たなければ捨てられている現実の人々の瀕死の姿が あったのです。イエスの、そしてバルメン宣言者たちの目の前にも、神の権威によって 威張り、他人を支配し、奪い取り、意に沿わない人々を殺す人間たちがいたのです。「羊 の門」や「良い羊飼い」の話は、まずは、腐りきった門、強盗行け行けの門、脅かされ ている命、養われず放置されている人々の嘆きと苦しみの話です。その事実を悲しみ、 怒り、その命たちと結びつき、その共振と共苦の中から、それに立ち向かおうとしてい く決意と信仰こそが、「私は『羊の門』、『良い羊飼い』」という言葉です。 当時、羊飼いたちは蔑まれていました。安息日に会堂に行くこともできないし、細か い生活戒律を履行できないからです。ファリサイ人たちは、そんな「汚れた人々」と接 触機会のある公共の場から帰宅すると念入りに手を洗いました。「汚れを洗い流す」ため にです。一方、主イエスは山の上で、大勢の人々と手から手へとパンをちぎってわかち あいました。「罪人たちの家」に入って、そこに誰がいてもお構いなしにパンを割き食べ ました。「汚す」という動詞はギリシア語で「コイノオー」、形容詞は「コイノス」。です から、キリスト教界でよく「交わり」と訳される「コイノニア」という語は「汚れを共 有する交わり」というニュアンスを含んでいます。まことの羊飼いによる新しい羊の交 わり。それは主にあって、お互いの汚れや痛みをそれとして受け入れながら、共振し共 感し並んで歩き始める、「伴い共なり友となる」交わりのことではないかと思います。叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-02-09 18:09:25 (28 ヒット)
週報巻頭言

まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。 わたしを求めよ、そして生きよ。 (アモス 5:4)
<信教の自由を覚える礼拝>に寄せて 「私は今、どんな理由が言われるにしても、戦争に反対します。まず第一に、イエス様の教え に反するからです。また自分の体験から、戦争が人の命を取り、衣食住を奪い、困窮を来たら せることがわかるからです。そしていま私が一番恐れるのは、『心の自由』が奪われることで す。言論の自由、思想の自由、信仰の自由が潰されることです。戦争を起こそうとするとき、 これらの自由が邪魔になり、弾圧が起こり、密告などによって、隣人、友人、親戚の間ですら 疑心暗鬼が生じるのです。ですから、私は何としても、いま与えられている平和憲法を守り抜 く努力をしたいと思っています。」(吉眸籠「非国民の子」と呼ばれて/いのちのことば 社『戦争を知らないあなたへ』クリスチャン新聞編) 私の母がこう記すのは、幼いころに経験した「固有の戦争体験」が深く関与していま す。母の父親(私の祖父)は、戦時中、尋常小学校の教師をしていました。戦争が激化 する中、祖父が教え子たちの前で口にしたふとした言葉が、祖父一家の運命を変えまし た。「もしも、君たちが戦地に行かねばならなくなったらと思うと、先生は不安で・・・」。 この言葉は、すぐに親たちに伝わり、村人へ、役人へと伝わり大騒ぎになりました。「非 国民」「アカ教師」というレッテルを貼られた祖父は、二度と教壇に立つことができなく なり、村を追われました。失意と無念の中でまもなく祖父母は死に、幼い母とまだ乳飲 み子であった母の弟とは、それぞれ、他人の手から手へと渡されていきました。ようや く親戚に巡り会い、引き取られた場所も、幼い母にとって安住の場所ではありませんで した。そこで待っていたのは、「非国民の子」「アカの子」「バチあたり」という、大人も 子どもも総ぐるみになった村人たちからの罵声と執拗ないじめだったと言います。これ が、母が幼い日に自らの身体と心で味わった「戦争体験」です。 人間の語る言葉、それは信念や信条、また信仰と結びついていると思います。それら は人間の自由にとって最も基本的なものであり、かつその人間のアイデンティティーや 尊厳につながっています。これら内面の言語を「言(ことば)」と呼ぶことができます。 人間は身体だけでなく、この言(ことば)によって生きています。私たちは「信じるも の、信じること」の自由を何よりも、誰に対しても大切にしたいと思います。しかし、 暴力をもって他者の言を封じたり弾圧したりする言(考え方)には反対します。吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-02-02 16:17:21 (42 ヒット)
週報巻頭言

イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、 わたしのところに来て飲みなさい。」 (ヨハネ 7 章 37 節)
ヨハネ福音書 7 章は、ユダヤ上層部の中で、また民衆の中で「イエスという男は、 果たしてメシアなのか、違うのか」という論争が巻き起こっていたことを記していま す。その論争を決まって蹴散らすのは、イエスの出身地や身分の問題を引き合いに出 して断固否定する律法主義者たちのかたくなな態度でした。イエスはこれら「疑いの 論争」「否定の論争」に直面しながら、当時の人々の心の中に広がる「砂漠のような 渇き」を見ていたのではないでしょうか。自分の知識、出自、所属、地位にこだわり、 必死で自分を守ろうとしている。でも裏返せば、それ以外のものに依拠できない身の 不安と怯えがそこにはあり、渇いているのだという自己存在にまつわる枯渇を。 ヨハネ福音書は、イエスが十字架の死の直前に語った「私は渇く」という言を記録 しています。イエスは十字架の上で人間の朽ち果てるしかない肉の姿の限界を、身を もって体現されました。福音書は「人間の虚無」とはいかなるものかを十字架のイエ スの叫びを通して描いています。それは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何を しているのか知らないのです」(ルカ 23:34)と語り、また「わが神、わが神、なぜわ たしをお見捨てになったのですか」(マルコ 15:34)と叫ぶのです。“何をしているのか がわからない存在”としての悲惨さ、“神から見捨てられる”という孤独、そして“ わたしは渇く”という空疎さ。イエスご自身が、これら人間の背負う苦悩をその身に 背負って死に(滅び)、その「滅び」自体を滅ぼすこととして復活させられていった。 これがキリスト教信仰のとても大切な核心です。 主イエスは、人々のかしましく悪意に満ちた「あいつは誰だ」論争の中に、神の祝 福と養いから離れ、人間の秤で自分を救わねばならなくなってしまった人間の渇きを 見つめ、その「砂漠」の真ん中(仮庵の祭りの日)にて叫ばれ(宣言された)ました。 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と。 私たちは、「渇き」をごまかして生きているのかもしれません。実は渇いているの に。渇かされているのに。主イエスは叫んでおられます。「渇くものは来たれ。渇く ものよ来たれ。」と、十字架を背負って叫んでおられます。私たちは主イエスに向か って叫びます。「主よ、渇いています、ここに、います」と。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-01-26 17:43:41 (45 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は 決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 (ヨハネ 6 章 35 節)
◆日本バプテスト連盟「協力伝道」をおぼえて◆ 「日本バプテスト連盟」は、よく言われる「教団」や「教派」ではありません。一つ 一つの教会が主権をもった単独の教会であり、それら各個教会が協力して伝道するため に連盟を結成して協働している「協力運動体」です。つまり私たち市川八幡教会は連盟 に「所属」しているのではなく「加盟」しているのです。「連盟」にどれくらい協力しよ うとするかも、すべて市川八幡教会が決定することができます。それが前提です。 けれども、私たち市川八幡教会の誕生から今日までのあらゆる面を振り返るならば、 連盟諸教会から祈られ、助けられ、また「連盟」の名で推進しているたくさんのリソー スに与ることなしに歩んでくる事はできませんでした。市川での「開拓伝道」も、一時 休会後の「再興」もそうでした。今なお、宗教法人や不動産の管理、教役者の人事や福 利厚生(退職金制度)、そして多様なミニストリーの恵みに与りながら市川八幡教会の独 自の方策を展開しています。もし全てを自分だけでしようとしても、きっと無理です。 「連盟に加盟して何のメリットがあるのか」という声も時に聞かれますが、実に素晴ら しいメリットがあります。一緒にミニストリー(宣教の働き)に参与できるというメリ ットです。一つの教会では立案や持続が困難な働き、たとえば伝道者養成のために神学 校を設立して運営するとか、国外に宣教師を派遣するとか、教会学校の『教案誌』や讃 美歌集を編集出版するとか、全国規模の研修会を実施するとか、社会の中で人権課題や 平和構築運動に取組み主イエスの御心を実現しようとするなど、全国の教会が協力し担 いあっているからこそそれができ、続けることができるのです。ですから、「何のメリッ トが自分にあるか」と利己的な視線で問うので無く、市川に居ながら全国的な、国際的 なミニストリーに参与できるのだと、視線を外に向けて喜ぶことが、協力伝道を見つめ る大切な視点ではないでしょうか。そうです。市川八幡教会が日本バプテスト連盟のミ 、 ニストリーの主体なのだ、このセンスを忘れないでいましょう。 市川八幡教会は、経常献金額の 10%を「連盟協力伝道」のために献げています。です から、「連盟のミニストリー」を私たちの教会のミニストリーとして、もっとここに引き 、、 つけ、もっと知り、もっと楽しみ、もっと祈っていきたいと思います。 吉 叶


« 1 (2) 3 4 5 ... 17 »
市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム