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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-11-05 18:00:00 (35 ヒット)
週報巻頭言

なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。 (出エジプト17:3)

奴隷のくびきからは解放されたものの、荒野の旅は困難でした。食べ物の欠乏に続いて、水がなくなります。これもまた重大な問題です。例によって、民はモーセと「争い」、「不平を述べ」てモーセが彼らをエジプトから導き出したことを非難します。モーセが「わたしも子どもたちも、家畜までも渇きで殺す」ことをねらっていたのだと邪推するのもいつものとおりです。しかし、どうしろと言うのでしょうか。エジプトで奴隷として追い使われ、苦しみの叫びを上げたのは彼ら自身だったのですが、エジプトを出てみると苦しいなりに最低限の保障はあったかつての古巣が恋しく思えるようです。
 自由とは冒険、すなわち危険を冒すことにほかなりません。しかし、民にはまだモーセと共に冒険に乗り出す用意がないのです。彼らを自立した信仰者と呼ぶことはまだできません。頼るべき方を知り、その方に叫ぶことを心得ているモーセとは対照的です。ただ、モーセをなじるのがモーセに頼るしかない立場の裏返しだとすれば、真に頼れる方との出会いによってこの民も変わっていく望みがあります。モーセにしても、いろいろと理由を挙げて何とか神の召しを拒もうとしていたのに、今は頼るべき方に叫ぶことができるのです。ひるがえって、わたしたちは何を頼っているでしょうか。頼りのものから切り離されたらどう感じるでしょうか。例えばお金。あるいは会社。あるいは国家。わたしたちはほんとうに自由なのでしょうか。
 メリバの水の話は民数記20章にも伝えられ、そこではモーセとアロンが「この岩からあなたたちのためにわたしたちが水を出さねばならないのか」と栄光を主から横取りする言辞を吐いて岩を2度打ったため、アロンは死に、モーセも約束の地に入れなくなります。しかし、出エジプト記の段階ではまだそのような懲罰はありません。律法が与えられる以前の彼らは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め」(第一ペトロ2:2)る段階にいます。頼るべき方を知って初めて人は自立へと進むのでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-10-29 18:00:00 (24 ヒット)
週報巻頭言

しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。 (出エジプト16:18)

イスラエルの民は、神の強い手によって奴隷の生活から導き出され、あしの海で戦車隊から救われました。しかし、自由という神の恵みの贈り物を正しく受け取るのは難しいことです。民は困難にぶつかるたびに奴隷の身分に戻ろうとします。労働に追い使われる苦しみは忘れて、「肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」ことばかり懐かしむのです。奴隷に戻る自由も、自己矛盾ではありますが確かにあります。しかしそれは神のみ心ではないでしょう。自由をどう生きるのか。大きな問いです。神かららしんばんを示していただかなければ、とまどうばかりです。
 モーセは、神が民に答えて夕べには肉、朝にはパンをくださると人々に予告し、予告どおりうずらとマナが与えられます。この言い伝えは古いらしく、民数記11:31以下にも記されますが、そこではうずらを食べた者が疫病に倒れたとあるのに対し、ここでは13節にひと言触れるだけでその結果は記されていません。ひたすら神の恵みを語ろうとしています。露が蒸発したあとに食べ物が現れるのも奇跡なら、余る者も足りない者もいなかったのも神の国を先取りするかのような奇跡です。自由を生きるとは、互いに配慮し、必要を満たし合うことだと教えられます。
 また、自由を生きることは、七日ごとに労働を休むという形でも現れます。安息を命じられた神さまは、六日目に2倍の量が与えられたかと思うと、七日目には何も見つからないようにされます。しかし休むということは、休みなく働かされてきた奴隷たちにとって非常に難しいことでした。いや、わたしたちも同じかもしれません。E・フロムは、リラックスしていすに座り、目を閉じ、じゃましてくる映像や想念をすべて追い払って自然に呼吸をする練習を勧めています。呼吸を感じ、自分を感じ取れるまで、朝晩20分ずつかけるようにと。そんな時間はないと私は思ってしまうのですが、そのあたりがまさに何かの奴隷になっている証拠なのかもしれません。過労死の国で自由を生きることの難しさを思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-10-22 18:00:00 (33 ヒット)
週報巻頭言

主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。 (出エジプト15:2)

主なる神はイスラエルの人々にあしの海を渡らせ、エジプトから脱出させてくださいました。ここで物語は一段落し、長い詩によって結ばれます。21節のミリアムの歌が拡張されたものと見られ、あしの海のでき事を歌う間に主に対する賛美(2, 3, 6, 7節)が挟まっていきます。1, 4–5節ではでき事がひと言で述べられ、8節から海が分かれたこと、エジプト軍がイスラエルを追って海に入り、沈んだことが歌われます。11節は「あなたのような神はいない」と唯一の神をほめたたえます。
 12節から、モーセの権威を否定したコラ、ダタン、アビラムの末路(民数記16:31)、約束の地への侵入とペリシテ、エドム、モアブ、カナンの征服(ヨシュア記、士師記、サムエル記)を述べているのは不思議なことです。この時点でモーセがこれらのでき事を予見できるはずはないからです。土地征服に至る物語の流れが固まってからでなければ言えないことです。ここからも、この歌はモーセの時代よりはるか後の産物であることがわかります。
 神の恵みを喜ぶ人は、感謝し賛美しないではいられません。神に「ついて」語るだけでは足りず、神に「向かって」呼びかけざるをえません。その二つには、ヨブ記のヨブとその友人たちの発言を比べればわかるように、根本的な違いがあります。しかしどのように呼びかけたらよいのでしょうか。感謝の思いに形を与えたのがイスラエルの賛美の伝統でした。この詩は、詩編に多い「感謝の歌」に倣って作られていて、2, 6節は詩編118:14, 16、11節は同71:19など、18節は同146:10に似ています。過ぎ越しの祭りに集まった民が歌うことを想定しているのです。声を合わせて歌うことによって救いのでき事はよみがえり、追体験され、各自の心に刻まれていきます。歌は、心の深層から発して深層に届くからです。歌い手たちの深い喜びと感謝に触れた人は、慰めと励ましを与えられるでしょう。信仰が理性だけでなく体全体で経験されるものであることをイスラエルの人々は知っていたのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-10-08 18:00:00 (41 ヒット)
週報巻頭言

恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト14:13)

ファラオはついに主なる神に降参して民が荒野で礼拝することを認め、家族や家畜までも送り出しましたが、民がそのまま逃亡したことを聞いて心を変え、イスラエルを労役から(直訳: われわれの奴隷であることから)解放して去らせてしまったことを悔やみ、戦車に馬をつないで追いかけます。戦車は古代の最強の兵器であり、ミサイルを撃つようなものです。前には海、後ろにはエジプトの戦車、進むも引くもならなくなったイスラエルの人々は、モーセに辛らつな抗議を向けます。「エジプト人に仕える(直訳: 奴隷である)ほうが荒野で死ぬよりましだ」と彼らが言ったとはあと知恵の作り話でしょうか。あるいは「あなたたちのおかげでわれわれはファラオとその家来たちに嫌われてしまった」(5:21)と言ったとき、すでに奴隷であることを選んでいたのでしょうか。
 モーセが「きょうあなたたちのために行われる主の救いを見なさい」、「静かにしていなさい」と言うと、主なる神はモーセにつえを上げて海を二つに分けるように命じました。まず雲の柱(13:21)がイスラエルの後ろに回ってエジプトから守り、イスラエルの前では神が激しい東風で海を押し返し、海を陸地に変えてイスラエルの道を開きます。続いてエジプト軍も海の中に入って来ますが、朝の見張りのころ(夜明け前の3、4時間)神の救いの業が始動してエジプト軍をかき乱し、海の向こう側に引き返すエジプト軍をひとり残らず水が飲み込んでしまいました。もはや奴隷の家に連れ戻される心配はありません。一度は恐怖に襲われてモーセに詰め寄った民も、主を恐れ、主とモーセを信じました。
 イスラエルの人々は長い奴隷の生活にすっかり慣れてしまい、その束縛を捨てて自由に生きることが想像もできなくなっていました。出て行ったら災いが待っている(10:10)と繰り返し教えられていたことでしょう。だからファラオの戦車隊を見て恐れるのですが、エジプトのすべての戦車をもってしてもイスラエルに自由を与えることを決断された神の意志を曲げることはできませんでした。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-10-01 18:00:00 (46 ヒット)
週報巻頭言

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。(出エジプト12:29)

ついに、その日は来ました。主なる神はイスラエルを奴隷のくびきから解放するためにエジプトのすべての初子を撃つと予告されます(11:4–6)。イスラエルは羊をほふってその血を家の入り口に塗るように命じられました。「滅ぼす者が家に入ってあなたたちを撃つことがないため」です。エジプトから解放された後も、民は毎年この儀式を守り、この日のでき事を子どもたちに伝えなければなりません。
 恐ろしい裁きがエジプトに下りました。エジプトで最高の地位を持つファラオの家から牢屋につながれている捕虜の家まで、免れた家は一つもありませんでした。なおも神に反抗し続けたら、エジプト人は皆死んでしまうでしょう。ファラオはついに降参してイスラエルの民全員が家畜もろとも去ることを認め、エジプト人たちも民をせきたてます。たった一夜のでき事だったので、パンの練り粉に酵母を入れて膨らませる暇もありません。このため彼らはパン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。これもまた毎年儀式として守られることになります。金銀の装飾品や衣類というおまけまでつきました。
 神はなぜこんなに厳しくエジプトを撃たれたのでしょうか。悪に悪を返してよいのか(ローマ12:17参照)と疑問を持たれるかもしれません。しかし、イスラエルの立場から見てみましょう。彼らは奴隷として日に日に労働を重くされ、男の子を皆殺しにされ、先祖の神を礼拝したいという願いさえ拒まれていました。彼らの叫びを聞いてくださる神に頼るしかありませんでした。神は彼ら貧しく虐げられた者の肩を持たれたのです。過ぎ越しの祭りは、元来は春先に牧草地を移動する羊飼いたちが新生獣の安全を祈る儀式であり、種なしパンの祭りは農民が麦の初穂を感謝する儀式だったと見られます。それが出エジプトのでき事と結びついたのは、エジプトを脱出したごく少数の奴隷たちが農民や羊飼いに呼びかけて共に自由な国を作っていったからでしょう。自由を与える神、自由を奪う者に厳しく立ち向かわれる神に出会った人々が、世界を変えていったのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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