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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-11-03 17:39:12 (31 ヒット)
週報巻頭言

節 主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちる パン屑はいただくのです。 (マタイ福音書 15 章 27 節)
この福音書の記録を読むとき、私たちはイエスの「つれなさ」に意外な想い(はっき り言うと「嫌な感じ」)を抱いてしまうのではないでしょうか。カナン人の女性に対して、 イエスが子どものパン(つまりユダヤ人たちの救い)をさしおいて、犬に(つまり異邦 人たちに)投げてやるのは、順序が逆だし、その気はない、とおっしゃっているように 思えるからです。その後、この女性との会話を経て、イエスは態度を変えられるわけで すが、「それにしても、イエスともあろう人がこんなこと言うのか」とがっかりするよう な記録です。しかし、弟子たちにとっては「この出来事」こそが後々とても大事なこと として心に刻まれ、「救い」というものの中味やダイナミズムをとてもリアルに考えさせ てくれる記憶になったのです。「主はあの時、動かされたではないか」「主は、あの時向 き直ったではないか」 「主の業は、ユダヤ人か異邦人かなどという壁を(この重大な壁を) ものともせずに、あのカナンの女性に注がれたではないか」。この記憶こそが弟子達にと っては鮮烈であり、ラディカルな事実でありました。伝道のパラダイム(既成の感覚や 枠組み)を転換していく明確なモデルケースになったとも言えるでしょう。 ユダヤ人たちを主たる者たちとしていた最初期の「使徒・信徒集団」にとっては、ユ ダヤ教の枠組みに捕らわれ、ユダヤ人の救いを第一義的に考えてしまうのは偽らざる現 実でした。発想や感覚の限界を彼らも当然のごとく抱えて出発したのです。けれど、主 イエスについての記憶は、彼らをその枠内に留まらせることを許しませんでした。異邦 人女性に向けて動いた(動きを変えた)主イエスの記憶がそれを許さなかったのです。 その記憶は、国籍や国境などの壁を越えていく新しい出会い方への強い促しとなりまし た。行動範囲を限定しようとする人間的な意味づけや枠付けの「もっともらしい装いで カモフラージュされた限界」を「イエスの想い出」が突き抜けさせたのでした。 ただし、イエスの構えを変えたのは、まぎれもなく一人の女性、わが娘の苦しみを抱 きかかえて「助けてください」と声をあげた異邦人女性の「痛みの叫び」であったこと を、わたしたちはしっかりと記憶しなければなりません。「痛み」がちゃんと発せられ、 その「痛み」にまっすぐ向かい合おうとする関係こそが、あらゆる壁を越えさせるので す。それは、今日の教会の宣教にとっても同様です。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-27 17:31:50 (50 ヒット)
週報巻頭言

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 (ルカ 9:20)
                            
 本日、「交換講壇」で市川八幡キリスト教会の皆さまとご一緒に「主日礼拝」を献げることができ、心より感謝申し上げます。日頃より私たち福島主のあしあとキリスト教会を心に覚えてお祈りくださり、また毎月支援の献金をしてくださっていることに改めて御礼申し上げます。私は福島主のあしあとキリスト教会に招かれ、1年半が過ぎようとしています。たくさんの傷と痛みを受け、様々な課題を抱えた兄姉たちと共に「主日礼拝」や「祈祷会」、その他教会の諸活動を続けながら、また福島での様々な人々との出会いの中から、改めて思い知らされることがあります。それは、「イエスさまが共にいてくださる」のが確かで、そのイエスさまが「今も生きて働いておられる」ということです。直面する課題や問題に対して、「すぐに答えが欲しい」、「解決の扉が開いてほしい」という私たちの願いは、なかなかすぐに叶えられません。そして諦めたり、そのこと自体を忘れてしまったりします。しかし、思いがけない時や場面で、その答えや進むべき扉が開かれることを経験します。そうなのです。私たちの時間や思いを超えて、確かにイエスさまを通して神は働いておられ、神のご計画は着実に進められている、そのことをいつも教えられ示されます。
 あなたは「神からのメシアです」というペトロの告白の直後、イエスさまは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」(ルカ9:22)と受難を予告されます。さらに続いて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と語られます。この弟子たちを諭したイエスさまの言葉に注目します。「従う」こと、それは自分自身の生きる規範を自分の外に見ることでしょう。ここではイエスさまを見ることであり、イエスさまの生き方を選択することです。イエスさまが、十字架を覚悟され、自分を捨てる歩みに進まれたように、あなたは「神からのメシアです」という信仰告白を生きる私たちも、救いと恵みの源であるイエスさまを見続け、この方によって、期待と希望の歩みを日々進めていきたいと願います。
(福島主のあしあとキリスト教会 牧師・大島博幸)                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-20 21:16:00 (53 ヒット)
週報巻頭言

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来る のか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。 (詩編 121 編 1-2 節)
詩編 121 編はエルサレムへの巡礼へ旅立つ人の心情と周囲の人々の祈りを唱った詩で す。しかし、エルサレム巡礼にかぎらず、わたしたちの人生そのものが旅路です。わた したちは、ふだんは自分の足下を見回す程度の歩幅と視野とで生きていますが、時とし て山々を見上げるようにして“自分の人生がこれからどうなってしまうのか”と見渡す ことがあります。その時、目的地までの道がまっすぐはっきりと見えている人など誰一 人としておりません。道はほんの少し先までしか認めることができず、そのくせ険しそ うな山が向こうに見えてしまう。そして、この道がやがてあの険しい山々の中に通じて いくのかと思うと、ほんとうに不安になるです。 「わたしの助けはどこから来るのか。」それが、生きる者に共通した不安、生きるという ことの中にある根本的な求めであり、また生きる諸所の局面に繰りかえし起こってくる 問いであると思います。 人生の旅路の真の助けは何なのでしょうか。政治体制でしょうか。社会制度でしょう か。福祉制度でしょうか。預金通帳の残高でしょうか。たくさんのコネクションでしょ うか。たしかにそれらは時としてわたしたちの助けになります。けれどもまた、人間の 作り出したシステムや関係性には、ほとんどの場合「ギブ&テイク」の条件がついてい ますし、ほんとうに困ったときに知らん顔をされたり、場合によっては罠や裏切りによ って失望に突き落とされることがあります。 そこで開き直って“頼むは自分自身の堅い信念だ”“強靱な精神力で生きてみせる”と 力を入れて生きれば何とかなるのでしょうか。ところが、人生の危機というものは、必 ずしも外から来るものとは限らず、多くの場合は自らの内面から起こってきます。傲慢 になっては落とし穴にはまり、欲望という罠もまた自分の中から無くならず道を荒らす のです。怒り、迷い、不信、疑念は振り払っても振り払っても自分自身の内側から湧い てきて旅路を 苛 むのです。間違いを犯してしまった罪悪感、あるいは病気や老いは、か さいな つてあれほど満ち満ちていた自信をあっという間に打ちのめしてしまいます。人間はほ んとうに弱いのです。わたしの助けはどこから来るのでしょうか。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-13 00:17:52 (55 ヒット)
週報巻頭言

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださった のは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐ者で もなく、成長させてくださる神です。 (第一コリント 3 章 6-7 節)
植物を育てる時、たとえば土、水、光、肥料など、成長のための環境や要件はいろい ろありますが、それらすべてを豊かに受けとめながら成長していく力は、いのちそのも のの中に見えない力として託されています。そこに神さまの成長させる力があります。 草花や木の話だけでなく、人間の成長もそうです。飲ませた食わせた、着せた行かせ た、やらせた習わせた、そういう人間の業が人を育てているのではなく、成長させてく ださる見えない力によって成長します。そして教会というものもまた一つの「からだ」 ですから、何をやってみた、このプログラムをした、こんなテキスト使った、あんな研 修会をした、そういう「企画」で成長しているのでなくて、このひとつの「からだ」の 中に注がれている神さまの成長させる力が「教会」を育てます。 人間は、どうしても「余白」を埋めたくなります。見えるもの、わかりやすいプログ ラムで全部を埋めてしまいたくなるのです。成長させてくださる力、その本人の中に、 そして余白の中に込められている成長の力、見えない力を忘れてしまうと、すべて人間 の業で埋め尽くしてしまいたくなり、それが原因で疲れて倒れたり、窒息したりしてし まうことになります。 私たちが、一日のうちで何度か、目を閉じ、手を組んで、お祈りをするのは、自分の 業を中断して余白をつくるためです。自分の目で見ているもの、自分で確かめていると 思っているものから離れる。自分の手、何かを為すその手の動きを一度止める。そして 余地・余白をつくる。神さまの言葉が響く余地、神さまのお働きが働いてくださること を待ち、またそれを受けとめようとする余地、余白をつくる。「祈りの型」がそこにあり かた ます。これは「人生の構え」とも言えるでしょう。 かま 教会というひとつのからだも、成長するためには、余地・余白が必要なのです。教会 を成長させるために、すべき目配り、気配り、手配りは大切です。でもそれら私たち人 間の業が、神さまの備える成長の力以上に力があると勘違いしてはいけないのです。言 い換えるなら、見えない神さまの力、成長させてくださる神さまの力を忘れてしまうほ ど一生懸命に労苦しても、その労苦が教会を育てはしないのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-06 18:13:10 (41 ヒット)
週報巻頭言

二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分 の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 (マルコ 11 章 7 節)
主イエスは子ろばを求められます。それが自分にふさわしいからです。それが自分の 道にふさわしいからです。そしてその姿が、やがて自分の道に従ってくる人々にふさわ しいからです。小さなろばに乗って進む。高いところから、勇ましいところから、麗し いところから手を差し出すのでなく、また美しく凛々しい姿で、速さと強さで人を魅了 しようとするのでなく、低く優しく届こう、と、それがろばの子に乗る意味です。「あな たと居たい。あなたに仕えたい。できればあなたと一緒に働きたい。私は、あなたの道 に来たのです。」主イエスはろばの子の背中にまたがって、私たちに近づいてきます。 自分にふさわしい乗り物に子ろばを選ぶなんて、そんな王がいましたか。エジプトの ファラオ、バビロニアのネブカドネザル、ペルシャのキュロス、マケドニアのアレキサ ンダー、そしてローマのアウグゥストゥス。地中海世界を制覇しようとした名だたる王 たちのいったい誰が、ろばの子にまたがったでしょうか。そして誰が、人間にとって本 当の意味での救いや慰めを運んだでしょうか。 彼らが最高の軍馬の上から指揮したものは争いと略奪、隷属と支配でした。しかし、 主イエスが子ろばの背に乗って届けたのは、人生の憂いに共感する愛と、罪の赦し、神 と人とが結ばれ直す和解でした。この世の王たちは馬の上から恐怖を振りまき、主イエ スはろばに乗って柔和を届けます。 アジア・ヨーロッパ・アフリカをつなぐ地域に位置するがゆえに、常に大国の狭間で 翻弄されてきたイスラエル。ダビデとソロモンの一時代に栄華を誇ったものの、瞬く間 に没落し、都市の陥落と捕囚の憂き目に合い、興亡を続ける大国の属国・植民地とされ 続けてきたユダヤ。その疲れ果てた歴史に向かって預言者(ゼカリヤ)は新しい王の姿 を明確に語ります。 「彼は神に従い--高ぶることなく、ろばに乗ってくる。エフライムから戦車を、エルサレ ムから軍馬を絶つ。断つ。闘いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。」ゼカ 9:9-10 主イエスこそが、この子ろばに乗った王こそが、お迎えすべき方です。21 世紀という いまの時代にも、お迎えすべき真の王はこの方なのです。 吉 叶


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