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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-26 09:10:18 (34 ヒット)
週報巻頭言

(全文掲載)

みなさま。おはようございます。世の中はいま「ステイホーム週間」なのだそうです。感染リスクを抑えていくためにお互い十分に注意をしながら過ごしたいものです。
ところで、ステイホームという言葉を聞くときとても大切と思われる視点を共に確認しておきたいと思います。
 私たち市川八幡教会はホームレス・困窮者支援ガンバの会のそもそもの運動母体となった教会であり、いまなお深いつながりをもって歩んでいます。ホームレス支援の働きを続ける中で考えさせられたことは、まさしくこのホームレスという概念についてでありました。それは決してハウスレスではない。住む家が無い、住むためのお金が無いというだけの問題ではなく、人と人とのつながりや絆としてのホームが無い。私たちがそうしたホームレスの方々に届けていくのはアパートなのではなく、つながりなのだ。ということへの気づきだったと思います。ホームとはつながりや絆のことである、と。
 そう考える時、いま推奨されているステイホームについても、単にステイハウス、ステイルームという意味だけでは無い、つながりを忘れないで、ということを十分に考えて過ごしたいと思います。礼拝に来られた方も、いまここに来ることを控えておられる方々も、つながり続けるホームを共に心に留めたいと思います。 

 さて、私は、昨年5月、この教会の牧師に着任する直前に、スイスのチューリッヒ、ベルン、バーゼルなどを訪ねる機会をいただきました。日本とドイツとスイスの教会代表者による協議会が開催されたからです。集まった代表者たちは、そのほとんどがルーテル教会と改革派教会の牧師や神学者たちでした。ちなみに、ルーテル教会はドイツの、改革派教会はスイスの「国教会」であり、国民から徴収する宗教税(所得の9%)によって運営されている国営の教会で、それらの教会では、教会のディアコニア(社会奉仕)部門がたいへん盛ん(盛ん、というより行政の働きを請け負っている)なのですが、今回は「教会のディアコニア性、その実際と課題」とをテーマとする協議会でした。そのような中、ただ一人、私だけがバプテスト派の人間でした。ところで、この協議会の準備段階の中で、日本からの派遣代表者の中に「バプテスト」が混じっていることが少々話題となったようです。それは、こういうことでした。
 折しも、チューリッヒは「宗教改革500年」に沸き返っていました。改革指導者ツヴィングリの映画がつくられ、また彼の肖像を刻んだ貨幣や記念切手も発行されています。そのような宗教改革の熱狂のさなか、水をさすようなことですが、ある歴史的な出来事が想起されてしまいました。それは500年前のあの時代に、宗教改革の拠点となったグロスミュンスター聖堂の下を流れるリマット川で、改革派の指導者たちが、再洗礼派(バプテストの先祖)の人々を籠に閉じ込め川に沈めて殺害した、という歴史的事実のことです。当時、「異端」と断罪された人々は「火あぶり刑」で殺されるのですが、全身を水に浸めて再洗礼をしていたバプテストたちは「浸められて本望だろう」と溺死させられていきました。
 さて、今回問題となった点は、「『宗教改革』を記念する企画として『教会のディアコニア性』の課題や可能性を考えよう」という趣旨で開催される今回の協議会を、バプテストからの参加者がいるにも関わらず、あの迫害事件の史実に触れぬまま実施して良いのか、という事でした。事前協議の結果、チューリッヒのリマット川河畔で、和解の祈祷会を開催することとなり、私がそのスピーチと祈祷を担うこととなったわけです。
 当教会では本日、この後定期総会をいたします。いったん延期された総会ですが、この総会に合わせて礼拝のメッセージでは、リマット河畔でのスピーチと祈りの全文を紹介し、今という時代に「バプテスト」として生きる意味について共に考えていきたいと思っていましたので、新コロナ一色の状況の中ではありますが、あえてかねてからの思い通りに、このスピーチを紹介させていただきたいと思います。プリントもご覧ください。

◆リマット河畔でのスピーチと祈り◆
 私は、自分のことを「バプティスト」と称するとき、いつも「私は、ほんとうに、日々新たな人間として生きているか」「決まってしまわないで、決めてしまわないで、変えられることに開かれているか」と自問します。
 バプティストの「イスト」とは、ピアニストとかバイオリニストとかアーティストと言うように、現在進行形で「それに取り組んでいる者」のことだと思いますし、バプテスマとは、「人が新たに生まれる事実」を意味しているからです。バプティストとは、まさに固定された教理やパラダイムに安住する生き方ではなく、日々、自分が砕かれ、変えられていく生き方だと思います。
 ところが、私は、私の中から出てくるもので変わることはできません。新しくなることは難しいのです。しかし、神が日々届けて下さる「他者との出会い」によって、とりわけ、痛みや悲しみ、叫びや求めと共に私に向かってくる他者との出会いの中で、私は変えられ、それまで自分では気づかなかった「私のなすべきこと」へと導かれます。
 その変化の道すがら、時に聖書の読み方を変えることを要求されることがあります。
いま、この人にとって、この文脈の中で、聖書をそのように読むことが、果たして許されるのだろうか、と。そのような時に、命の解放と、人生の希望のためにこそ聖書を読む勇気を持ちたいと思います。聖書を活き活きと読むために、私には、身近な、最も小さくされた人々の手助けが必要なのです。
 日本バプテスト連盟の中で、今、女性牧師の数が次第に増加しています。それは、喜ばしきことです。それだけでなく、性的マイノリティーの人々への理解や共に生きる道が、提唱されています。しかし、一部のコンサバティブな牧師たちによって、それらの動きへの拒否や嫌悪が示され、またフェミニズム神学の柔軟かつ鋭い観点に対して、「それは異端である」と誹謗がなされる現象も起こっています。
 自ら、歴史の中で「異端」と呼ばれて来た先祖たちの事を、「過酷ではあったが見事な生き方」として記念するバプテストが、自分たちの内部に生きる少数者を「異端」と呼んで排除し、自分たちの依拠している枠組みを守ろうとするのです。皮肉な現象ではありますが、ある種の恐怖心に起因したこうした排除行動は、目をこらせば、今なお、あちらこちらで目撃することです。教会でも、学校でも、町内でも、そしてこの社会や民族間で常に起こっていることです。
 500年近く前に、このリマット川で沈められた人々は、今日、いったい誰なのでしょうか。今は、誰が沈められているのでしょうか。そして、今日、「異質な人々」を川に沈めたがっている人々は、今日、私を含め、何を恐れ、何にしがみついているのでしょうか。
 日本では、今日の人々の心の闇を映し出すような事件が日々起こっています。とりわけ、2016年7月に、相模原で起こった大規模な障害者施設殺傷事件は、入所している障害者を「生きる価値の無い人間」と呼んで次々と刺殺しました。19名が死亡し、26名が負傷する大量殺人事件でした。しかし、それは相模原の事件ではなく、日本社会の事件であったと思います。
 「生きる価値の無い人間」「殺されても仕方のない人間」がいるのだ、という「優生思想」は決して容認できるものではありませんが、私たち教会の中にある「正統」と「異端」という二分法はそれにつながる可能性を大いに含んでいます。そのことを、ここで心に刻みたいと思います。
 歴史はいつも、見つめるべき大切な本質と、闘うべきものの正体を教えてくれます。また、歴史は、今と今からを生きる生き方を教えてくれます。聖書を活き活きと読むために、私は、今日も歴史の手助けを必要としています。
 リマット河畔で、今、私は、真の意味でバプテストとして、もとよりキリスト者として生きることを問い直しています。この場所に、来ることができて幸せでした。この場所に、みなさんが共にいてくださったことはとても幸いでした。このような機会を与えてくださったことに心から感謝を申し上げます。
【祈り】
 主なる神さま。私たちは、あなたの大きな御旨を知り得ず、自分の生きる歴史の中で、正しさと間違いをつくりあげ、優れているものと劣っているものに物事を分けていこうとします。
 主よ、どうぞ、分裂と分断の虜となってしまう道から、私たちを救い出してください。お互いの中に、違いを見たとき、違いがわかり始めたとき、その違いに、必ず豊かさがあることを信じる信仰と、その豊かさを理解するまでその違いに向かい合う忍耐力をお与えください。私たちを、あなたの平和と和解の道具としてお用いください。
 お互い、国も、言語も、文化も、習慣も、信仰的立場も違う私たちの、唯一なる主にして、共通の命の道であられるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(2019.4/29-5/6日独瑞教会協議会)

 以上です。私たちの教会が、違いを受け入れ、人の弱さを力とする教会となっていけますように祈りつつ、定期総会に臨んでまいりましょう。
−主なる神さま。主は、いつも向こう岸を目指されました。人々の忌み嫌う場所を向こう岸となされ、悲しむ人々、痛んでいる人々、病に苛まれ、不安に怯えて生きる人々の場所へとこぎ出されました。主よ、向こう岸へ渡って行かれる主イエスに伴い行く私たちとしてください。いま、私たちは皆が部屋に閉じこもり、自分の岸辺に立ち止まっているかのように思わされている時ではありますが、向こう岸にあるもの、向こう岸に生きる人々を豊かに想像し、祈りによって渡っていけるものとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン −


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-19 08:29:05 (56 ヒット)
週報巻頭言

 (全文掲載)

◆閉ざした部屋の中で、復活の主に出会った弟子たちは、部屋の扉を開け、外に出ました。おずおずとではありましたが歩き出しました。ペトロは他の6人の弟子たちとガリラヤに戻りました。そこで、再びよみがえりの主と出会うのです。獲った魚を岸辺で焼いて、一緒に食べる。そんな主イエスとのリアルな交わり、主の復活を実感するうれしい湖畔の朝でした。しかし、食事の後のイエスとの対話は、ペトロにとってとても辛いものとなりました。おそらくは、彼の人生を貫いて、主の復活の証人として生涯を歩むことになったペトロの通奏低音ともなっていく信仰理解・自己理解が、この朝の主イエスとの対話でありました。
 よみがえられた主は、食事の後、ペトロに「わたしを愛するか」と尋ねられます。しかも三度繰り返して尋ねられます。ペトロにとって、この三度の問いはきつかったと思います。最初の勇ましさとは裏腹に、あっけなく「主を知らない」と否認してしまった、しかも忘れもしない、三度、否定を繰り返したこととの関係を感じざるを得なかったでしょう。
 ペトロが初代教会のリーダーであるということを示唆する大事な場面の記事であるにもかかわらず、そこには、ペトロの適格性を力強く謳ったトーンはまるでありません。むしろ弱々しすぎます。しかし、そうであるからこそ、主を証しする仕事に召されるとはどういうことなのかについて、じっくりと考えさせられもします。
◆それにしても、何度も確認されると、辛いものです。三度重ねられたらほんとうにへこんでしまいます。
 このやりとり、「愛する」という言葉を原語どおりで読んでみると次のようになります。
・イエスは私を「アガパオー」するかとペトロに尋ねます。
 主よ、わたしがあなたを「フィリオ」していることはあなたがご存じです、と答えます。
・ふたたび、イエスはペトロに問います。あなたはわたしをアガパオーするか。ペトロは答えます。主よ、わたしがあなたをフィリオしていることはあなたがご存じです。
・三度目にイエスはペトロに尋ねます。しかし今度は、ペトロ、あなたは、わたしを「フィリオ」するか、と言葉をペトロに合わせて尋ねます。ペトロは心を痛めて答えます。わたしがあなたを「フィリオ」していることは、あなたがご存じです。
となります。このように、アガペーという愛(無償の愛)とフィリアという愛(友情・友愛)とが交差しながら、変化していくのです。
 このやりとりには、引け目を負うペトロの気持ち、強くまっすぐ正面を見据えることのできない気持ち、「アガパオー」すると堂々と言えない心理がにじみ出ています。うしろめたさを隠せないペトロの現実です。しかも、「フィリオします」と直裁に言えずに、わたしが「フィリオしていることはあなたがご存じです」と控えめです。このペトロの答えはとても歯切れの悪いものです。しかし、考えてみれば、こと人間の神への愛は、何度訊かれても「上昇」などしない、できないのものなのではないでしょうか。むしろ、訊かれれば訊かれるほど、言葉に詰まり始めていく。それが私たちの神への信仰の偽らざる現実ではないでしょうか。ですから、私たちの信仰告白のそのような現実を、この日のペトロがよく映してくれていると、私は感じています。
◆そして、この弱々しく歯切れの悪い告白が、ペトロの現実であり、私たちの現実であるからこそ、主の呼びかけは繰り返されていくのです。しかも、それは決して意地悪な確認などではありませんし、「三回否定したから、三回誓い直せ」という帳消しの儀式でもありません。ここにあるのは、「ただ、愛への招き」だと思います。「愛するか。」そう問われるたびに、「はい愛します」と力強く答えることができない、それを繰り返し続ける私たち。しかし、そこに、主は赦しを加えてくださっている。そこに主は慈しみと憐れみを加え続けてくださっています。そして寄り添ってこられます。
 そうです。私の、私たちの、一度っきりの力強い宣誓によってなどではなく、繰り返される赦しと、繰り返される招きとによって、私たちは主の羊の群れとして養われ整えられていくのだと思います。繰り返し私たちを赦しつつ、繰り返し私たちを招き続けてくれている主イエスは、「アガパオーします」と言い切れない私たちに、アガペーの愛、十字架の愛で、私たちに寄り添い続けてくださるのです。そして、主は、ただ愛へと私たちを招き続けます。
「私を愛するか。」愛する力。それは、ペトロが「岩」(ペトラ)からニックネームをつけられたことを思うとき、それは岩のような硬さ・強さを連想しますが、決して「愛する力の強さ」のことではないのだと思います。愛する力は、岩のような強さからは生まれないのです。人を愛することができるとするならば、そこには、その愛のためにどれほど自分が愛されなければならないか。そのことを知る必要があります。「愛する。」それは知識の豊富さからは生まれません。それは精神力の強さから生まれません。愛すること。それはむしろ、人間の弱さから滲み出てくるものです。砕かれた心の傷跡から流れ出すものなのです。人間が、弱さと脆さを自らの中に知り、その痛みと悲しみを覚えながらでなくては、他者を受け入れ、愛する「ことば」も「おこない」もおそらく現すことはできないでしょう。砕かれ、赦され、愛された者に、愛する力が備えられていきます。
 そう考える時、主イエスがペトロに、「私を愛するか」と問いながら知って欲しかったことは、「愛しうる力強さ」のことではなく、どんなに自分の破れと惨めさに苛まれても、それを受け入れ愛している「私の愛」の上に足をつけて生きてきなさい、と呼びかけておられたのだと思います。三度の問いは、確認ではなく、呼びかけであり、招きでした。主イエスは、このペトロを用いるために、これからも、三度と言わず繰り返し何度でもペトロをあわれみ、赦し、立て直し、用いていくことを、主イエスご自身が、ご自身の心の中にしっかりと定めながら、ペトロへの招きを重ねているのです。
◆私たちは、ただ愛に招かれて生きる者なのです。私たちは、繰り返し招かれながら、愛へと導かれるばかりなのです。
 この弱い私たちが、傷を負う私たちが、愛へと招かれている、繰り返し招かれている、キリストが絶えず傍らで愛へと招いている、このことが「岩・ペトラ」の本当の意味なのではないでしょうか。私たちは、この岩の上に教会・そして交わりを建てていきたいと思います。ただ、愛へと招き続けてくださる復活の主の事実の上に、希望の根拠を置いて、ご一緒に歩んでまいりたいと思います。今は、互いが離ればなれになっていますが、私たちは主に養われ、主に寄り添われ、主に招かれている、共なる群れなのです


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-12 13:55:48 (64 ヒット)
週報巻頭言

 (全文掲載)

イエスの十字架の死。それは弟子たちにとって悪夢のような出来事でした。ホサナ! ホサナ!と群衆から迎えられ、誇らしくもあったエルサレム入城。エルサレムでの興奮。
 しかし、わずか数日で「イエスなど知らない」と語るようになってしまったり、主のもとから逃げ去ってしまうことになった自分たち。「いったい何なんだ。何だったんだ。」挫折感、虚脱感、情け無さに打ちのめされ、喪失感と不安に取り巻かれながら、弟子たちは土曜日(安息日)を過ごしました。そして、三日目の朝早く、ペテロともうひとりの弟子(ヨハネ)のところにマリアが飛び込んで来ました。「主の墓が空っぽだ」とマリアが叫びます。「重い石が取りのけられ、主のご遺体が無いのだ」と。
 驚いたペトロともう一人の弟子は、墓へ走り出しました。墓の中をのぞき込むとイエスを包んでいた亜麻布がおいてあるのが見えました。ペトロは、墓から遺体が無くなっていることを確かに目撃したのです。しかし、その時のペトロにとって、それは決してイエスの復活を意味するものではありませんでした。かえって、ペトロの中に何か大きな不安とざわめきがよりいっそう宿されてしまったのでした。ペトロはその足で、弟子仲間たちにそれを伝え知らせたのでした。そして弟子たちは(トマスを除く10人)、隠れ家に集まってきました。
 墓が空っぽであった、という出来事は、弟子たちにとつて深い困惑となり新たな恐怖となりました。イエスの「死体遺棄」の件で、ユダヤの兵もローマの兵も、自分たちを捜索しているだろう。とてつもない恐怖。それと同時に、自分たちでないとするならばいったい誰が、何の目的で主イエスの遺体を持ち去ったのか、その疑問。彼らは隠れ家に集まってからずっと、扉を閉め、閉じこもり、恐怖と疑問とを繰り返し、混乱の渦に呑まれ続けていたのです。自らを守るために、外との扉を遮断しながらも、その内側は困惑に満ちていました。そんな一日を過ごした彼らは、わからないままその日の夕暮れ時を迎えました。いつもより深い闇に包まれる、恐ろしい夜の予感であったと思います。
 その時です。彼らの真ん中にイエスが立ちました。そして「シャローム。あなたたちに平和があるように」と語りかけられたのでした。間違いなく主イエスでした。手に釘の跡。間違いなく十字架で死なれた主でした。でも間違いなく生きていてここに立っています。しかも、堅く閉ざした扉を突き抜けて、こちらに入ってきたのです。これが弟子たちの復活体験でした。
 このように弟子たちの復活体験は、墓の中で御使いに出会い、墓の外で後ろからイエスその人に声をかけられたマリアとは異なっていました。
 まるで自分たち自身が、まるで墓のように扉を閉ざし、まるで墓穴のように虚しく籠もる部屋の中。いのちの力が喪われ、生きる喜びも目当て、立ち上がり歩き出す理由も、何一つつかめないで立ちすくんでいる、そんな弟子たちの部屋の中に、イエスがいのちをもって、イエスが死んだ証しの傷跡をそのままに、いのちを持って、いえ、いのちそのものとして入ってきた。夕暮れ時でありましたが、弟子たちのその部屋には、一瞬にして驚きとまぶしさが輝いたのではなかったでしょうか。
 墓の重い石のように堅い扉は、彼らの心の中にこそあったのです。彼らの心こそが、墓穴のようであったのです。けれども、いのちが、向こうから、こっちへ入ってきたのです。
 戸を閉ざす。それは、中と外との交渉を断とうすることです。彼らは、外から自分たちのところに踏み込んでくる外敵を恐れ、それを遮っていました。しかし反転させると、自分たちの内側にあるものでは、もう外に出て行くことができない。外に出られない。外に向かえない。それが弟子たちの内側の事実であり状態でした。「こちらからは扉を開けられない。開ける力が出てこない。」
 けれども、向こうからこちらに、外から内側に、いのちが入ってくる。生きる力と生きる理由が入ってくる。
 自分たちが開けられるようになったからではない。私が、私たちがどうであろうと、復活のイエスが何にも遮られず、私の「ここ」に入ってきて、ここに立たれる。ここにおられる。いのちが、わたしの中に、来て、ここで命が立ってくださり、「あなたに平和があるように」と言うのです。苦しみ抜いた傷跡を見せながら言うのです。主を苦しませ、主を悲しませてしまった自分たちにおっしゃるのです。「シャローム(平和があなたと共に)」。
「インマヌエル、アーメン。」「アーメン、シャローム。」
 扉を閉ざしても、愛とゆるしは突き抜けて入ってきます。閉じこもっても、平和は流れ込んできて、平和への招きを止めないのです。
 弟子たちは経験したのです。
 自分たちが生きていて、時に設けてしまう「閉ざした場所」にも、外からの力で時に「閉じこめられてしまう場所」にも、主イエスは突き抜けてこられるのだと。
 どのような場所も、どのような場合も、どのような時間も、いのちがこちらに入ってきて、平安が私たちを支えようとして、何よりよみがえりのイエスが共にいる場所とされていくのだと。
死は命に勝つことができない。闇は光に勝つことができない。すべてが、希望の朝に向かっている。
 隠れるために閉ざした扉は、新しい朝への「いのちの扉」「希望の扉」に変えられたのです。彼らを待っていたのは、いのちの扉をひらく朝だったのです。   吉盂

You Tubeによる動画
https://www.youtube.com/watch?v=JJSWV-20fTE
                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-05 20:49:56 (55 ヒット)
週報巻頭言

イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と 言われた。こうして聖書の言葉が実現した。 (ヨハネ 19:28)
主イエスの受難の最終的な場面にあって、ヨハネ福音書は二度も「聖書の言葉が実 現するため、実現した」と記しています。一つは、イエスの衣がくじで分けられてい く場面であり、もう一つは、イエスがいよいよ絶命する直前に「渇く」と言われたこ とを受けてです。ここには詩編 22 編との深い関連が見られます。 詩編 22 編は、ダビデ王が自分に襲いかかる苦悩、すなわち王位を狙う人々の陰謀 や側近の裏切りに怯え苛まれる中で、神に向かって叫び声を上げた時の心境を詠って います。 「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わた しの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩 22:18-19) 後の世では最大級 の尊敬を受け、神格化さえされたダビデ王ですが、彼の現実は孤独と苦悩に喘ぎ続け ていました。自分の衣(地位)を奪い合おうとする部下・側近たちの狡猾、また身勝手 に要求を突きつけてくる民衆の残酷。それがダビデの偽らざる現実でした。 いま、人々はイエス殺害の陰謀を貫徹し、裸に剥いて十字架に吊し、その衣を足下 で奪い合い、くじ引きにします。ダビデ王が比喩として詠った光景が、まさにそのま まイエスに襲いかかります。しかし、それこそが「聖書の言葉の実現・成就」だと言 うのです。「真の王」イエスは、弟子たちの裏切り、宗教指導部の狡猾、政治支配者 の臆病、兵士たちの残酷、朝令暮改のごとき民衆のきまぐれに引き裂かれているので す。人間の実相はなんと罪深いものでありましょうか。人間が手に入れたいと暗躍す る衣(権威)を、否、そのようなものとは異なる真の権威を、傷だらけの裸のまま、十 字架に吊されながら身に纏っていた人がいます。イエスその人です。「渇く」とため 息をつき、絶命するイエスです。この弱さをむき出しているイエスこそが、聖書(神 のみこころ)の成就です。駆け引きと暴力とエゴイズムの渦の真ん中で、渇ききりな がら「罪人の死の柱」に吊され、張り付いておられるこの方の姿こそが、罪深い人間 を赦し受け入れようとする神の愛が「実現した」出来事であり、そし印でありました。 ピラトはユダヤ指導部の「死刑判決」の要求に屈し、イエスに対して十字架刑の判 決を下します。しかし、その背後で「真の判決」「神の判決」が動いていたのです。 神の人間への判決は「愛」でした。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-29 17:30:38 (104 ヒット)
週報巻頭言

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」 (ヨハネ 18:37)
総督ピラトは憤っていました。“イエスという男を突き出し、「死刑判決以外は聞きた くありません」だと。朝方に突然やってきたと思ったら、そんな勝手な要求だけ突きつ け、そのくせ自分たちの宗教的理由とやらで官邸の中に入ってこようともしない無礼な ユダヤの高僧たちめ。「異邦人の家に入ると7日間汚れる」だの、「そうなると過超しの 羊が食えない」だのと、心の中ではローマ人を軽蔑していながら、こういう時だけはこ ちらの権力を利用しようとする狡猾な野郎どもだ。”ピラトは怒りで震えていましたが、 しかしこのイエスという男の問題をとにかく始末しなければならないと焦ってもいまし た。「死刑しか受け入れない」と連中が言うなら罪状をつくらねばならん。ピラトは“ロ ーマへの反逆罪”の裏をとるため、イエスにずばり聞いたのでした。「お前がユダヤ人の 王なのか」。“この男が「そうだ」と言えばそれで終わる”そう思ったいたピラトにイエ スは初めて口を開きます。「それはあなた自身の考えですか。それとも誰かがそう訴えた のですか」と。ピラトは切れました。「お前がユダヤの王かどうかなんて知るか。お前た ちの問題だろ。お前の同胞のユダヤ人たちがお前を殺してくれと言っている。お前はい ったい何をしたんだ。お前たちの間では、何をしたらそんなに憎まれるのだ。」審問して いるはずの自分が問われて逆上したピラト。日ごろからユダヤ人たちが待望しているメ シアだとか、神の国だとか、ローマ人からすればくだらないこの国の連中のこだわりへ の怒りが逆流してしまったのでした。やっかいで理解不可能のユダヤ人たちへの鬱憤と、 こんな国の総督を任じられた自分の不運を呪い、イエスにぶつけているかのようです。 この姿、ローマという国家(帝国支配)とユダヤという国(宗教支配)のせめぎ合い、軽蔑 と暴力と憎しみの対立が、ピラトを通して爆発的に露出した瞬間でした。 そんなピラトに向けてイエスは続けます。弁明や論争の言葉ではなく宣言のような言 葉でした。「神の御心」「神の御業」の真実についての証しでした。「わたしの国はこの世 のものではない。どの国にも属しておらず、またどの国の王でもない。私がここにいる ことが『神の国』の到来の真実なのだ」と。ピラトはつぶやきます、 「真実とは何か。」 真実とは目の前のイエスでした。宗教家が、政治家が、群衆が「神の子」を十字架 にかけて殺す。しかし、神はそれでも人間を憐れみ、愛し、ゆるし、受け入れている。 イエスこそが神の真実でした。イエスの十字架こそが神の愛の真実そのものでした。


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