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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-15 18:00:00 (78 ヒット)
週報巻頭言

イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2:25)

「しるしを見て」であるとしても、イエスのみ名を信じるのはよいことです。その人には神の子となる資格が与えられます(1:12)。弟子たちもカナのぶどう酒のしるしを見て信じました(2:11)。次の段落に登場するニコデモもそうです(3:2)。しかし、しるしを見て信じるだけでよいかという問題が残ります。しるしを見たら信じるという姿勢は、しるしを見なければ信じないということでもあるでしょうから。4:48でそのことを指摘された役人は、イエスの約束のことばを信じることによって息子のいやしというしるしを経験します。人は、しるしに基づく信仰からみことばへの信仰に進んでいかねばなりません。
 しかし、人の信仰は結局は中途半端であるようです。24節は「イエスご自身は彼らを信用されなかった」と、前節の「信じた」と同じ語を用いて衝撃的なことを語ります。人が神を信じるのであって、神が人を信じるのではありません。神が人をご存じなのであって、人が神を知り尽くすことはできません。この関係が逆転することは決してないのです。イエスが人間についてだれかにあかししてもらうまでもなく、その人の心の中にあるものをご存じだったことはマルコ2:8などにも証言されています。よい人か悪い人かを見分けられるということでしょうか。「彼らを信用されなかった」と言っているところを見ると、むしろその人の思いがどのように悪いかをご存じだったという意味のようです。
 人間の心の中に何があるでしょうか。カルバンは容赦ない厳しさでこう述べています。「アダムから生まれた私たちはみな、神を知らず認めず、腐敗し、堕落し、すべての善を奪われている。心はおよそすべての悪に傾き、よこしまな欲望に満ち、その上、神に対してかたくなである。もし私たちが外見はいくらかでも善良な様子をすることがたまたまあっても、魂の内面は自らの汚れに侵され、ねじくれた背徳の中に沈んでいるのである」(キリスト教綱要初版)。ここに救いがあります。神は人の悪を承知の上で、まさにそのゆえにあわれみ、召されるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-08 18:00:00 (87 ヒット)
週報巻頭言

このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。(ヨハネ2:16)

過ぎ越しの祭り間近の神殿でイエスが犠牲動物の販売や両替を妨害したことは、他の三つの福音書にも出ています。そこではそのあとすぐ逮捕・処刑されることになっており、そのほうが史実に近いかもしれません。いずれにしても、大量の動物を「すべて」神殿から追い出す(どこに?)一方、両替人たちの机も倒すといったことがはたしてイエスひとりでできたのか、疑問が残ります。実際にはごく小規模の象徴的な行為だったと見るほうがよいでしょう。15節の「むち」が3世紀の2種の写本断片で「むちのようなもの」とされているのもその推測を強めます。ひもで作ったむちで羊飼いや牛飼いが家畜を追うまねをして退去を宣告したという程度のことかもしれないし、机を倒された両替人も2, 3人に過ぎないのかもしれません。
 イエスが何をしたのかは今となってはわからない点が多いとしても、そこに含まれていた意味は明らかです。神殿は「わたしの父の家」です。イスラエルの人々にとって、神が共に住んでくださることは大変な恵みだったはずです。しかし彼らはその恵みを無にして、そこを商売の拠点にしました。例えば100人分の神殿税を肖像のついてない神殿で使える硬貨に両替すると、4デナリオンあまりの手数料が取れたのです。神殿のこのありさまの中でイエスの行為が持っていた意味は、やがてローマ軍による神殿破壊を通してだれの目にも明らかになります。
 神殿はイエスを断罪してローマ総督ピラトに引き渡しました。しかし実は神殿のほうがイエスに断罪されていたのです。それでも、霊と真理をもって礼拝する者たちはイエスにつながり続けました。イエスはご自分の体を神殿とされたのに続いて、わたしたちをも聖霊の宿る神殿としてくださったのでした(20:22, 第一コリント6:19)。人間は本来神の像であり(創世記1:27)、神に宿っていただくのにもっともふさわしい存在です。残念なことに罪によって損なわれてしまいましたが、その回復を今も心の深みで待ち続けているのです。わたしたちの体を主の家として整えてくださるイエスに感謝しましょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-01 18:00:00 (82 ヒット)
週報巻頭言

急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。(マタイ28:7)

イエスが逮捕されて十字架につけられたのは、紀元30年ごろのある春の金曜日でした。葬りの場所を見届けた女性たちは、その日から数えて三日目、週の初めの日(日曜日)の夜明けに墓を訪れましたが、天使が降って入り口の石をわきへ転がすと、イエスの遺体はすでになくなっていました。弟子たちが遺体を盗み出してイエスがよみがえったとデマを流さないように番兵が見張っていましたが、死人のようになって抵抗することができません。ここには弟子たちが遺体を盗み出したのだという反対派の言い分が反映しています。墓が空だったことは認めているのが興味深いところですが、イエスのよみがえりを客観的に証明できないことを示してもいます。女性たちが復活の最初の証人として選ばれたことも、女性が裁判の証人となる資格を認められなかったことを考えれば、意味深いことです。
 天使は女性たちの恐れを解き、「彼はここにはおられない」と告げます。イエスはかねて予告しておられたとおり(16:21ほか)よみがえられたのです。彼女らは墓の中を確かめた上でそのことを弟子たちに告げなければなりません。そしてイエスが先にガリラヤに行っておられ、そこでお会いできることも。
 次いで、恐れと大きな喜びと共に弟子たちのところへ走って行く彼女らにイエスご自身が現れ、「喜べ」(新共同訳「おはよう」)とあいさつされます。彼女らの喜びをよしとされたのです。足を抱くのはひれ伏すのと同じく神の人に対する敬意の表現(王下4:27参照)です。イエスもまた彼女らの恐れを解き、「兄弟たち」に伝言されます。くもの子を散らすように逃げ去った弟子たちは今や「兄弟たち」とみなされ、よみがえられたイエスにお会いすることを許されるのです。
 よみがえられたイエスが弟子たちを招かれるとき、そこにわたしたちも含まれています。イエスを信じる者は、イエスがよみがえって自分たちと共に――どこから見ても頼りない自分たちと共に――おられるという、どこから見ても確かな約束に自分も招かれていることを認め、その約束から生きる者です。 (高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-03-25 18:00:00 (109 ヒット)
週報巻頭言

それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。(マタイ26:64)

マタイは、最高法院で開かれたイエスの最初の裁判をおおむねマルコに従って述べています。ヨハネ18:19以下のように、最高法院全員でもなければカイアファでもなく、前の大祭司アンナスが個人的に取り調べた上で、カイアファを通してローマ総督ピラトにイエスの身柄を送ったというほうが史実に近いかもしれません。しかしマルコやマタイは、神に特別に選ばれたイスラエルの民が、特にその指導者たち全員が、イエスに有罪判決を下したと確信しています。紀元70年の独立戦争の敗北と神殿の破壊を見たマルコ、その後のファリサイ派によるキリスト者への迫害のただ中にあるマタイにとっては、そのほうが自然なのです。
 イエスの処刑の理由の一つは、神殿を崩して三日のうちに建てることができると宣言されたとされることでした。キリスト者にとっては、イエスにそれができるのは当然のことです。それがイエスのご復活を指す(ヨハネ2:21)とすればなおさらです。が、イエスを信じない人から見れば自分を神と同一視する冒とくとなります。イエスは事実そう言われたのでしょうか。ヨハネはこれをイエスご自身のことばとしているので、事実のようです。
 敵意に満ちた訴えの前で、イエスは沈黙されます。「それは、あなたが言ったことです」と答えることを拒みます。「ほふり場に引かれる小羊のように……彼は口を開かなかった」(イザヤ53:7)と預言されたとおりの方がここにおられるのです。しかし「やがて人の子が天の雲に乗って来る」とダニエル7:13を引用されたのがご自身の来臨を予告したと受け取られ(確かにそう解することは可能)、死刑判決となります。ただ、これらは大祭司らにとっては処刑の理由となりますが、ピラトにとってはユダヤ人固有の宗教論争に過ぎません。それよりもユダヤ人の王を名のったとみなされたこと(27:37)のほうが重大なのです。起訴事実と判決理由がまるで異なるという、でたらめな裁判でした。周囲がこぞって敵対してくるとき、どうやって抵抗すればいいのでしょう。イエスは同じ立場に置かれた人々の苦しみを共に背負われました。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-03-18 18:00:00 (97 ヒット)
週報巻頭言

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:11)

ナザレから程近いカナの町で婚礼がありました。七日間も続いたかと思われる宴の途中でぶどう酒がなくなります。花婿の家にとって恥となる事態です。召し使いたちはそこにいたイエスの母から「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われて、イエスに言われるままにかめの縁まで水を満たします。そこからくみ出すと、よいぶどう酒に変わっていました。合わせて500–700リットルものぶどう酒が突然出現したのです。世話役はぶどう酒の味に驚きましたが、どこから来たのかはわかりません。わかるのはみずから水をくんだ召し使いたちだけです。彼らの労苦は十分に報われました。
 これが「最初のしるし」だったと福音書は言っています。しるしとは神が働かれたことを証拠立てる奇跡です。ただし、大事なのは奇跡そのものではなく、その奇跡が指し示している事がらです。つまりイエスが帯びておられる神の子としての栄光です。水をぶどう酒に変える! 栄光以外の何物でもありません。弟子たちがイエスを信じたのも当然です。しかし、福音書記者はそれを「わたしの時」と言い直しました。元来は「イエスの母は召し使いたちにイエスの言いつけに従うように言った」とだけあったところに母とイエスのやり取りを挿入したと見られるのです。人が目を注がねばならないのは「わたしの時」、すなわちイエスが十字架につけられる時だけだ。どんなに輝かしいしるしが示されても、それが指し示すのは十字架であることを忘れてはならないと記者は言いたいのでしょう。「あなたはわたしとどんなかかわりがあるのです」という母に対するとも思えないことばも、天の父のみに従う姿勢の厳しさを表すものとすれば納得できます。
 季節は巡り、イエスの苦しみの時が近づいてきました。イエスにしかできないこと、その栄光を見つめましょう。しかし何よりもその苦難を仰ぎましょう。世の罪を取り除くという、神の小羊にしかできなかったことを。そしてきょうわたしたちの労苦すべきことに励むなら、きっと豊かな報いを見いだすでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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