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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-09-03 18:00:00 (31 ヒット)
週報巻頭言

ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。主が仰せになったとおりである。(出エジプト5:17)

主なる神はモーセを通して奴隷たちを去らせて荒野で神に仕えさせよと命じられましたが、ファラオはまったく取り合おうとしません。ついに神はファラオに対する行動に出ました。まず、モーセがナイル川の水を打つと血に変わり、エジプト人は水が飲めなくなります。しかし、エジプトの魔術師が同じことをしたので(どうせなら血を水に戻せばよいのに)、ファラオはモーセの要求を拒みます(7:14–24)。次に主が用いられるのはかえるです。あの動物が家に入り込んで寝台からパン作りに使うこねばちまで占領するさまを想像するだけでぞっとしますが、かえるはけがれた動物とされていましたから(申命記14:9–10)古代人にとってはなおさらです。魔術師たちは今回も同じことをしますが、ファラオはモーセたちを呼んで「主に祈願してかえるが退くようにしてもらいたい」と頼みました。
 人間の生存がどんなに多くの条件によって支えられているかを一連の物語は思わせます。水がなければ生きられないのはもちろん、かえる、ぶよ、あぶのような小動物に入り込まれるだけで悩まされます。疫病も一度に多くの人命を奪いますし、ひょうやいなごは畑の作物をだめにしてしまいます。言い換えれば、神が一つ一つの脅威から守ってくださるからこそ人は生きられるのですが、ファラオにその認識はありません。ここにくまやライオンのような猛獣が登場しないのは意味深いことのように思われます。一匹一匹は吹けば飛ぶようなものでも、群れをなして押し寄せればたいへんな力を持つのは、奴隷たちとファラオの関係に似ているように思うのです。わたしたちは自然に対してファラオのようにふるまっていないかも考えてみる必要がありましょう。
 主の前に降参したかに見えたファラオでしたが、モーセの祈りによって一息つく暇ができたのを見るとたちまち頑迷になり、またふたりの言うことを聞き入れなくなりました。支配者が相手を安心させておいて譲歩を引き出すと前言を翻す例は、今日も見られます。主とファラオの対決がまだまだ続きます。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-08-27 18:00:00 (37 ヒット)
週報巻頭言

この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。(出エジプト5:17)

イスラエルの民をエジプトから導き出せと命じられたモーセとアロンはファラオのもとに行き、「イスラエルの神、主」のことばを伝えます。荒野での祭りのために往復を含めて七日の休みを求めただけでしたが、ファラオは主など知ったことかという態度です。ふたりが「ヘブライ人(流れ者の意)の神」と言い直しても、奴隷は労働のために存在するという王の信念は微動だにしません。支配者の信念の前で被支配者の宗教がいかに無力であるかを思わせます。
 神に犠牲をささげたいと言うイスラエルを「怠け者」と決めつけたファラオは、これまでのしごとに加えてれんがに強度を持たせるために粘土に混ぜるわらの調達まで彼らに課することにしました。生産量のノルマはもとのままですから、純然たる労働強化です。民がこれに懲りてむなしい希望をあきらめ、休みを要求することもやめるだろうと見込んだのです。この無理な要求のために、民を追い使うエジプト人と下役(14, 16, 21節から見てイスラエル人)の間に不和が生じますが、ファラオは一方的に「怠け者」とののしるばかりです。下役たちを奴隷たちに対する加害者にし、さらにモーセとも対立させるとは、何と巧妙なやりかたでしょう。下役たちが苦境に立たされたのは、モーセの予想もしない成り行きでした。彼らはモーセにあなたの責任だと抗議し、孤立したモーセは神に「なぜこの民に災いを下されるのか」と抗議します。双方とも、災いを下しているのはファラオであることさえわからなくなってしまったようです。
 イスラエルの人々を苦役から解放するはずの行動が、皮肉にも人々の苦しみを増す結果となりました。モーセはまちがったのでしょうか。しかし、何も要求しなかったら奴隷の苦しみが続くだけです。どちらに進んでも難問が待っています。戦うべき相手を正しく見抜かない限り、内輪もめに陥るしかありません。そして、神の「強い手」に信頼しない限り希望を見いだすことはできません。聖書はあらゆる階層の人々が非難をぶつけ合う今日の時代を鏡のように映し出します。(高市和久)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-08-20 18:00:00 (56 ヒット)
週報巻頭言

わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。(出エジプト4:21)

神の執ような説得に負けてイスラエルをエジプトから導き出すという大役を引き受けたモーセは、神の山ホレブを出てミディアンのエトロのもとに帰り、別れを告げます。以前の罪(2:12)を追及される心配もなくなり、妻子を伴ってエジプトへ出発です。しかし、モーセに課せられたファラオの説得という任務には困難が伴うことを神は予見しています。モーセが主から授かったしるし(4:3, 6, 9)を行ってもファラオは民を去らせず、ついにエジプト中の初子の死という結果を招く(12:29)と言うのです。ファラオをかたくなになさるのはなんと神ご自身です。ここには、圧倒的な支配者に対する果敢な抵抗の記憶が跡をとどめているのでしょう。ファラオのかたくなささえ主なる神のご支配のもとにあると信じる以外に、慰めも希望もなかったのです(ローマ8:20参照)。
 24–26節の不気味な物語も、救いの道の曲折を象徴するかのようです。元来はモーセが夜中に魔物に襲われ、割礼によって災いを免れたという話だったのでしょう。しかし聖書記者は、すべてをおひとりの神の業に帰そうとするがゆえに、モーセを殺そうとしたのも主なる神ご自身だったと説明しました。そうすることで初めてこの物語は聖書の物語になったのですが、エジプトに帰れと命じられた神ご自身がモーセを殺そうとなさるという矛盾も抱えることになります。しかし、この矛盾を含んだ物語は、自由を求めるモーセたちの矛盾と曲折に満ちた戦いを予兆するにまさにふさわしいものです。よい神がお造りになった世界になぜ悲しみや苦しみがあるのでしょうか。悪い神も存在し、よい神の業をじゃまするのでしょうか。この物語は「否」と言います――人生には確かにまったく説明のつかない矛盾がある。その理由はわたしたちにはわからないが、神はご存じだ。主が導いておられないことは一つもないのだと。
 モーセは(なぜかまだ神の山にいて)アロンを迎え、ふたりはイスラエルの人々の長老に語りかけます。民は信じ、とりあえず第1段階は成功です。 (高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-08-06 18:00:00 (41 ヒット)
週報巻頭言

それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう。(出エジプト4:1)

神が「わたしはあなたと共にいる」と約束され、「主」というご自分の名を明かされても、モーセはなお迷っています。人々は名を告げるだけではわたしを信用せず、わたしの言うことを聞かないだろうと言うモーセにとっては、どうやら人々が神を信じ神に聞くか否かより自分を信じ自分に聞いてくれるか否かが問題のようです。エジプト人殺害の前科を持ち、ミディアンの地に寄留する自分は主なる神の預言者にふさわしくないという観念を振り払えなかったのでしょう。そこで神はへびに変わるつえ、重い皮膚病、血に変わる水の三つのしるしをモーセが行うことを許します。もっとも、エジプトの魔術師もへびに変わるつえと血に変わる水のしるしは行うことができます(7:11, 22)。しるしを見て納得するのは最善の信じかたではありません(ヨハネ20:29)。その背後に働かれる方への信仰あってのしるしです。
 次にモーセは口も舌も重いことを挙げて断ろうとします。言語障がいがあったのかもしれません。しかし神は「だれが人間に口を与えたのか」と反論されます。モーセをお召しになった方は、み心を行うためにすべてのよいものをも備えてくださるはずです。それでも「だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言うモーセに神は怒りを発し、レビ人アロンを同行させるように命じられました。アロンがモーセの口となり、モーセはアロンにとって神の代わりとなることが約束されます。必要なものが備えられたゆえか、神の怒りに恐れをなしてか、モーセはイスラエルの民を導き出すという大役を引き受けます。
 手に余る課題。しかし、共にいると約束してくださる方がおられます。なろうとする者になられる自由な方のみ心は成ります。人々が自分の言うことを聞いてくれるか否かを気にするのではなく、(自分も含めて)神を信じ、神に聞くことができるように祈るべきです。そして協力してくれる人を備えていただいたことに感謝することです。広島への原爆投下から72年、核兵器禁止条約が国連総会で採択されました。関係者の労苦とそれを支え続けた希望の力を思いつつ。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-07-30 18:00:00 (43 ヒット)
週報巻頭言

わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。(出エジプト3:12)

正義を実現するのは骨の折れるしごとです。「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出せ」と命じられたモーセは、さまざまな理由を挙げて辞退します。最初の抗弁は「わたしは何者でしょう」というものです。確かにモーセはイスラエルのひとりの人を監督の虐待から守ろうとしただけでファラオのお尋ね者となり、ミディアンの地に寄留するよそ者でしかありません。イスラエルの民をエジプトから連れ出すなどという大役が務まるはずもないのです。しかし、神は「わたしはあなたと共にいる」と約束されます。「これが(とはおそらく燃えても燃え尽きないこのいばらが、の意)しるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ」。主役はあなたではない。だから、民を首尾よくエジプトから導き出したら、みんなでもう一度ここに戻って来なさい、と主は言われます。
 しかしモーセはなお不安です。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることは聞きました(6節)。しかしその名を問われたら、何と答えればよいのでしょうか。古代人にとって、名を知ることは相手の本性を知ることです。呼びかけ、願い求めることを許されることです。容易に教えてもらえるものではありません。しかし神は「主」(ヤハウェ)という名を明かされます。「わたしはある」、むしろ「わたしはなろうとする者になろうとする」(エフイェ)という意味の説明までつけて。
 二つ目の抗弁も破られました。再び神は任務を突きつけます。イスラエルの長老たちにわたしのことばを、壮大な救いの約束を、告げよ。彼らは聞き従うであろう。それから長老たちと共にエジプトの王のところへ行ってわたしのことばを告げよ。王はあなたたちを行かせないであろう――わたしが手を伸ばしてエジプトを打つまでは。何もかも見通しておられる方がそう命じられるのです。エジプト人はイスラエルの民に金銀や外とうまで与えて送り出す、と約束されているのは、この神にとって奴隷を解放するとき手ぶらで去らせるのは不道徳なことだからです(申命記15:13)。モーセはこの方に身を任せることができるでしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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