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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-02 20:10:35 (11 ヒット)
週報巻頭言

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
(ルカ1:45)

アドベント(待降節)を迎えました。まさしく「主の御降誕を待つ」ように過ごす季節です。この「待つ」という態度・姿勢は、人間にとって極めて重要な姿ではないかと思います。聖書に記されている人間(登場人物)たちが、どの時代においてもどの場面においても必要とされ、神から期待されてきた力が「待つ力」ではなかったか、とさえ思ってしまうことがあります。出エジプトを経験していくイスラエルがそうです。預言者たちの闘いがそうです。
そしてまた、聖書が描写する人間の罪性には「待てない姿」が多分に含まれています。(シナイ山麓での金の牛祭りしかり、バビロン捕囚の際のニセ預言しかり、12弟子たちの失敗談しかり、十字架につけよと叫ぶ群衆しかり、です)。
 いま、チキンラーメンがブームですが、カップ麺の3分が待てないことがよくあります。なにしろ熱いのが好きなので、ぬるくなるのががまんできない。もうえぇやろ!と、ふたをひっぺがしてたぐりこむと「もうちょっとやったなぁ」ということが。そんなことぐらいならまあ良いですが、「待てない」ことで交通事故が起こり、「待てない」ことで人間関係がぎくしゃくし、「待てない」ことでパニック騒ぎや暴動が起こり、「待てない」ことによって民族紛争が引き起こされていくことさえあることを考えると、「待つ」という態度は人間にとって大切であり、かつ困難なものであるように思えます。
待つ・・・。それには、忍耐力が必要です。その忍耐を支えるものとして、信頼や信仰が必要です。待つ相手や事柄への優しさが必要です。待つ必要の無いものと待つべきものとを峻別する洞察力も必要です。求める力、しかも表面的な欠乏感ではなく、求め自体を問う「問い」が必要です。待降節・・・。それは、神さまへの信頼を豊かに高めていく時です。「救い主」を迎えるのですから、救いって何だろう、人間の幸福って何だろう、といつもより丁寧に見つめていきたいと思うのです。今の時代が、どのような叫び声に満ちているのだろう、どこで、誰が、どんな救いを求めているのだろう、と、新聞を読みながら、ニュースを見ながら、聖書の御言葉と重ね合わせて見つめてみること。そうした自分なりの「思い巡らし」をもって過ごすのが「待降節」なのかな、と考えたりしています。
 (吉癲ヽ陝法                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-29 20:06:49 (15 ヒット)
週報巻頭言

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に・・・。
(エフェソ 3:20)

 今日から1週間、「世界バプテスト祈祷週間」として祈りを合わせ過ごします。
「日本バプテスト女性連合」の使命は、次の通りです。
「イエス・キリストが世界の救い主であることを告白し、日本を含めて全世界の人々にキリストの福音を伝えます。また世界のさまざまな痛みの中で苦しみ悲しむ人びとに寄り添い、共に福音にあずかります。これが、神より私たちに与えられた使命であると信じ、この使命を果たすために、互いに助け合い、励まし合います。」
「世界バプテスト祈祷週間」は、女性連合が推進している大切な活動です。世界宣教の働きのため、また同時に日本バプテスト連盟の国内外の伝道活動を覚えその働きの一端を担わせていただいています。
現在、日本バプテスト連盟からインドネシアに野口日宇満、佳奈両宣教師、カンボジアに嶋田和幸、薫両宣教師、シンガポールに伊藤世里江アジア・ミッション・コーディネーター、ルワンダに佐々木和之国際ミッション・ボランティアが遣わされ、その働きを祈り支えています。また、女性連合を通して福島、ネパール、インド、カンボジア、そして世界バプテスト連盟救援委員会を通じて支援の必要な場所へと、祈りとささげものを届けたいと願っています。
「変化著しいこの地で、主イエスが今どこにおられ、その眼差しが今どの方に向かっているのか、追っていきたいです。そして私たちは、主イエスと同じ眼差しをもって、そのお一人ひとりに寄り添っていきたいと願っています。」カンボジアに遣わされている嶋田和幸宣教師が国外伝道ニュースに寄せてくださった言葉です。
私たちもその祈りに繋がり、派遣されている方がたの働きを覚え、足元から広がる世界宣教の働きを担っていきたいと思います。
                              (吉癲])                                                                                                                                      


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-22 09:30:13 (41 ヒット)
週報巻頭言

この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。(マルコ 14:8)

 タイトルの「すべてを主にささげる〜主の豊かさに期待して〜」は、女性連合の2018年度の年間主題です。主題聖句は「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙一4:10)」です。このように、女性連合では、特にこの一年、「スチュワードシップ」を念頭において、歩みを進めてきています。
 「スチュワードシップ」を調べると、《スチュワードは執事・財産管理人の意》とあります。教会では、「神の恵みに対する応答」であり、神から受けた恵みである賜物を管理し、必要なときにそれを差し出す姿勢のようです。シップからは、スキンシップ、フレンドシップのように、関係性や交わりをイメージできます。神の恵みを管理し応えていくことは、一人ではできない。祈り合い、意見交換し、調整しながら、ともに神に応えていく歩みが「スチュワードシップ」の恵みなのでしょう。
 この「スチュワードシップ」を念頭に置きながら、本日は、「イエスに香油を注ぐ女(ひと)」の話を考えてみたいと思います。この話は、4つの福音書すべてに記されていますから、かなり信ぴょう性のある口頭伝承から生まれたと言われています。(しかし、マルコ・マタイと、ルカ・ヨハネでは女性のイメージがかなり異なっています。)いったいこの女性は、どんな女性だったのか。どうしてイエスに香油を注いだのでしょうか。周囲の反応から何が見えてくるのでしょう。そして、イエスは、なぜ女性を擁護したのでしょうか。ご一緒に想像し、思い巡らしたいと思います。そしてイエスさまの励ましを私たちも受け取っていきたいと願います。
(米本 裕見子) 
                                                                                                                                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-11 22:02:49 (37 ヒット)
週報巻頭言

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
(使徒言行録 10:15)

出会い。それは私たちにとって、とてもワクワクする、そして嬉しい出来事です。今日、市川八幡教会の皆さまとご一緒に礼拝が出来ることを楽しみにしてきました。初めて出会う方、久しぶりにお会いする方、はたまた日常的にいつもお会いしている方(!)まで、今日、いろいろな出会いが与えられることを期待しています。
 しかし出会いは、必ずしも嬉しくて楽しいことばかりではありません。時に、出会う者に驚きを与えたり、また拒絶したくなるような出会いを経験することもあります。その人との間にある違いによって、相手をまったく理解できず、その人を受け入れることが出来ないようなことさえあります。違いというものが、出会いという喜ばしい出来事を、そうではないもののように、私たちに感じさせてしまうのかもしれません。
 イエスさまの生きた時代もそうでした。ユダヤ人と異邦人、男と女、障がい者とそうでない人。こうした様々な“違い”が明確に打ち出され、分断されていました。時には、相手を自分たちと同一化させるような暴力的なことさえ起こっていたようです。そして残念ながら、イエスさまの弟子たちを中心としていたはずの初代教会にも、こうした“違い”を受け入れようとしない空気が漂っていたのかもしれません。
 エルサレム教会での迫害を受けて、一部の人たちはユダヤとは“違う”場所へと逃れ、そこで福音を宣べ伝えました。このようにして、福音はエルサレムから各地に広がりをみせていきます。しかし、自分たちこそが「本家本元」だと自負していたエルサレムの教会は、自分たちとは“違う”者たちが福音を信じることを歓迎していなかったようです。そこで遣わされたのがペトロです。ペトロは、エルサレム教会の伝統を守るようにと、ユダヤとは“違った”地域の人々に教えて回っていました。
そんなときに、彼は激しい空腹を憶え、幻を見ます。それは、これまで食べてきたものとは“違った”食べ物の幻でした。のちにペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(使徒10:34)と告白しています。いったい、ペトロに何が起こったのでしょう? ご一緒に考えてみたいと思います。   (松藤 一作)
                                                                                                                                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-04 21:29:00 (59 ヒット)
週報巻頭言

こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、 神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
(コリント一 4:1-2)

パウロは、コリント教会の一部の人々の態度について「大金持ちのようだ」「王様のようだ」と言っています(8節)。どういうことでしょうか。
 コリント教会の人々は、自分たちのことを、自分たちはキリストにつながる天からの聖霊を受けたのだから「もう何の束縛も受けない自由な人間だ」「自分たちはこの世の生きるための業や配慮からも解放された特別な存在だ。ただ聖霊の世界、天と結びついた霊的な存在なのだ」との自意識を持ち始めていました。どこか、世を蔑んでいた風潮がありました。そして自分たちを特別視し、「聖霊で満たされた私」という自己陶酔に陥っていました。
 コリント教会のそうした人たちは、おおむね身分的には奴隷を使う自由な金持ちであったようで、たっぷりと与えられた自由な時間や、彼ら特有の知識と知恵とによって、自分の賢さと自由さを確かめる十分すぎる機会を与えられていたとも言えます。それゆえの問題ですが、彼らは自己を高めようとすればするほど「高ぶりの虜」となり、霊の世界を語れば語るほど「浮き世離れした人々」となり、観念の世界を論じれば論じるほど「偉人・聖人」となっていったのでした。そのあげく、賢い者たち、賢い言葉で語り合える者たち、インテリで自由で金のある者たちばかりのグループを教会の中に生んでしまっていたのでした。さらに、使徒たちの教えがどれほどのものだと言うのか、開拓者パウロの導きがどれほどのものだと言うのか。そんなものを越えて、われわれは、天の世界と直接に結びついた霊的な自由者なのだ、と主張していたのでした。
 パウロは、そうした高ぶりを持ち始めたコリント教会の一部の人々に対して、決して傲慢になってはならない、まるで王様にでもなったかのように勘違いしてはいけない、私たち使徒のこと、わたしたち使徒が証しをしあなたがたに伝えたイエス・キリストの姿を思い出して欲しいと力説しているのが、今日お読みした聖書箇所です。
 今日はこの箇所を通して、苦悩する使徒たちのことと、恵みの管理人としてのスチュワードシップのことをご一緒に考えてまいります。
 臨時総会と役員選挙のことを祈りつつ。             (吉高 叶)
                                                                                                                                              


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