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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-07 17:30:27 (38 ヒット)
週報巻頭言

 2011年3月11日、東北太平洋沖を震源とするM9.0の東日本大震災が発生。巨大津波と東京電力福島第一原発事故という未曾有の複合災害は、関連死を含めて全国で約1万9000人の命を奪い、いまだに多くの人々の行方がわかっていません。筆舌に尽くしがたい驚きと悲しみとを刻まれてしまったあの日から、今週3月11日で10年を数えます。あの日、私たちが目撃しながらも突きつけられた人間の愚かさと小ささ、感じさせられた後悔の念と誓い。誰にもそのようなものがあったと思うのですが、下手をするとわずか10年でさえ、それらを忘却し、風化させることができるのかもしれません。私たち人間には、そのような薄情さがあります。また、週報巻頭言に書かせていただいたような「楽園からの風」が私たちには強く吹き付けていて、忘却を後押しするのです。
この間、テレビ局が、多様な視点から特集番組を組んでいます。時間が許されるなら、そうしたものに導かれながら、再び、あの日に想いを傾け、死者を悼み、人の人生について、社会のあり方について、自分なりに思い巡らせていきたいと思います。

 今日はマタイ25章1-13節の『聖書教育』のテキストを変更せずに取り上げることにしました。このたとえ話の構図は以下のようなものです。
・10人の若い女性たちが、婚宴の席で花婿の到着を迎える際の、大切な役割を果たすた めにスタンバイしていた。
・ところが、花婿の到着が遅れる。アクシデントが起こった。
・5人は予備の油の入った壺を持っていた。しかし、他の5人は予備の油を準備していな かった。
・あまりに花婿の到着が遅いので、全員、眠りこけてしまった。
・突然、花婿到着の知らせが響く。
・起きてみると、手元のランプの油がほとんど無くなり欠けていて、灯心の火がちいさく なっていた。油を足して備えなければならない。
・油を準備していなかった乙女たちは、急いで油を補充しにでかけていく。しかし、タイ ミングは悪く、その間に花婿は到着し、婚宴は始まってしまった。

 この話は、天の国(神の国)のイメージを示すためにイエスが語られたいくつかのたとえ話の一つです。たとえ話には、そのたとえ話全体を通して、気づかせたい中心テーマがあります。
 天の国とは、神さまが人間の命と人生にとって大切だとなさるものを、「あなたが大切にして生きているかどうか」が問われる場所であるのと同時に、神さまのもとで、あなた自身がその大切なものに包まれ、平和と解放を味わえるような場所。それが天の国なのだということを示しているように思います。
 しかも、その「命にとって大切なもの」とは、わたしが常に大切にしていないと、わたしのものにならないし、すぐに見失ったり、思い違いをしてしまうものなのだ、ということなのだと思います。

 「油を準備している」ということ。それが、「いつ何があってもいいように、ちゃんと、きちんと、立派に生きておこう」ということなら、まさしく聖書に登場するユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々がそうでした。日ごろから正しいことを漏らさず実行する。でも、イエスさまが、そんな姿のことを指して「油を準備しているとはそういう人のことだ」などと仰るわけがありません。むしろ彼らの反対側にあることだと思います。
 ましてや、(今日は東日本大震災をおぼえる礼拝ですから、つい連想してしますのですが)突然の災害への備えのために、持ち出し荷物を整えておきましょう、ライフラインが復旧する少なくとも数日分の食べ物飲み物、防寒シート、ラジオ、予備の電池で荷物をつくっておきましょう。それから車の油、ガソリンを満タンにしておきましょう。というようなことと連想してしまいそうになるのですが、そういうことではないと思います。
「油を準備している」というのはどういうことなのでしょうか。

 もう一つ、うっかり予備の油を準備していなかった5人の女性たちに対して、準備していた5人の女性達はきっぱりと分け合うことを断りますね。「そういう時は、分かち合うべきじゃないか」と思うかもしれません。分かち合いの精神、助け合いの大切さを説くたとえ話ならそうですが、きっと、この油にたとえられているもの、つまり「命にとって大切にするべきもの」は、「急に分けようとしても分けることのできないようなもの」なのだと思うのです。では、いったい「油」って何を指しているのでしょう。

「大震災の悲しみをおぼえる礼拝の中で、よりによってなぜこんな箇所になるかなぁ。」「読み方によっては、とんでもないことになるぞ。」私は、そう思いました。
 救われる人と裁かれる人。助かる人と助からない人。受け入れられる人と受け入れられない人。救われるために、助かるために、受け入れられるために、どうすべきか。そんな構図で、聖書を読むべきではないと思いました。特に、今日の礼拝では、そのような印象を残してはいけないのだ、と感じてまして、先週は不安の中に黙想を続けました。
 そのような準備の中で、本田哲朗神父が訳された福音書『小さくされた人々のための福音』を読みました。本田哲朗神父は、カトリックの屈指の聖書学者で、バチカンの中枢の聖書研究所で研究員を続けてこられた方ですが、その研究環境の空しさから、自ら志願して職を辞され、大阪西成区の日雇い労働者の街・釜ヶ崎の中にある「ふるさとの家」の駐在神父となり、日中は、日雇い労働をしながら、労働者たちの綱渡りのような人生を共に味わい、抱えている孤独や心折れそうになる気持ちと接しながら「聖書の読み直し」をなさり、そして釜ヶ崎に今も生きているイエスの生き生きとしたまなざしや情感をくみ取りながら、しかし、聖書の原語が持つ意味をそこなわない範囲でニュアンスを選び取り、本田哲朗訳の聖書を刊行されました。
 本田神父の訳を読んで、私の不安な黙想に光を与えられました。「5人の賢いおとめ」「5人の愚かなおとめ」と訳されているところを、本田神父は、「感性のあるおとめたち」「感性のにぶいおとめたち」と訳しておられるのでした。
「油を用意する」というと、物を準備しておくこととか日ごろの行いを良くしておくことと捉えてしまいがちですが、そうではない。油を用意しておくとは、感性を養い、感受性を豊かにしていることなのだ教えられ、私は、黙想の目線の向きを変えられました。

 では感性のある人、とはどういうことなのでしょうか。
 マタイ25章という文脈。主イエスはエルサレム入城の後、十字架が迫る中で、このたとえ話を語って、天の国で大事になっているものこと、だからあなたにも大事にしてもらいたいことを語っているわけです。
 イエスは、人が負わされてしまっている重荷、とくに謂われのない差別や抑圧、ないがしろにされる存在の痛みを背負われました。と、同時に、人間にそのような重荷を負わせて成立している社会にがまんならなくて、それに決して服従せず、否を言いました。イエスは、ずっとそうしてこられました。ガリラヤからエルサレムまで、「幸いなるかな心の貧しい者、天の国はあなたたちのもの。」という宣言にあるように、イエスは天の国の訪れを、目の前のいと小さきこの人に、いま、ここで宣言し、同時に「この人を小さき者と蔑んでいる世の力こそが無力だ」と宣言して歩んできました。だから、彼は、ユダヤ指導者たちから殺され、「そんな宣言など腹の足しにはならない」と考えた多くの人々から捨てられていくことにもなりました。このたとえ話をイエスがしたのは、十字架の判決が、もうそこまで迫っているときでした。
 そのような主イエスが、感性を養い感受性を大切に研ぎ澄ましなさいと仰る時、その感性とは、間違いなく、苦しんでいる人の苦しみに共感する感性のことであり、痛んでいる人の痛みを理解しようとする想像力のことだと思います。傷口にずけずけと触らずに痛みをまず理解しようとする感性。その悲しみや痛みの時間を想像し、それを自分のこととして痛んでいくようなことなのだと思います。そして、失われていこうとしている人の存在に手をつなぎ、この人を見失っている世界に向かって、「ここに命がいますよ」と証言していく、そのような勇気を伴う感性のことだと思うのです。天の国の婚宴の広場に掲げられる灯火とは、そのような人の感性豊かな優しい心が大切に燃えて、その灯火が広場を照らしているような、そのようなランプがいくつも集まってその場にいる人々を照らしているような、そのような婚宴の席に、天の国はたとえられています。そうです、油とは人の痛みに対して共感力と想像力を働かせる感性、感受性のことです。わたしは、イエスが、そして聖書が語っている「愛」ということばも、ほぼ、これに等しいものだと感じています。
 ところで、このような感性は、出会いを大切に生きていないときっと養われることのないものです。このような感受性は、痛んでいる人の物語を聴いたことがない人や、聴こうとしてこなかった人には残念ながら宿らないものなのだと思います。こうした感性は、人の受けてしまう痛みや苦しみと、自分とが、決して無関係ではないということを感じ入ることなしに、わたしのものとなることのないものなのです。
 マリー・アントワネットが、「パンをくれ」という民衆の叫びに「だったらお菓子を食べればいいのに」と笑ったように、まるでわからなかったように、急に買いに行っても手に入れることのできないものなのです。
 感性や感受性は、共感したり共苦したり、関わろうとしてうまくいかず、自分の立場の優位性も問われたりして、自分も苦しみ、悩み、自己嫌悪に陥り、それでもいっしょに居させて欲しい、分け合うことがあればそうさせて欲しいと手をつないみようとした、そういう葛藤含みの交わり無しには、授かっていけないものなのではないでしょうか。
 こうした感性というものは、つくろうとくろうとしてもつくることができず、どこかに売っているわけではないのです。ただ、出会いの中で注がれていく恵みであります。自分で意識するわけではないのですが、このあとの箇所に出てくるイエスのたとえにあるように、振り返ったとき、「あのとき、あの人にしてくれたのが、わたしにしてくれたことなのだ」と主イエスから言ってもらえるようなものなのです。

「天の国に入るにはこれすれば良い」「これをもっておけば良い」というものはありません。ただ、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く。その共感の営みを生きていることなのです。予備の油の壺を準備するということは、持つことができないから、出会いと交わりと祈りを必要としながら生きる、ということなのです。直面し、自分が足をつけて生きている歴史の中で、人間が呻いた呻き、届けられている嘆き、流されてきた涙に目を向けることであり、それを自分なりに精一杯引き受けることであり、その呻き、嘆き、痛みと繋がって、感じ、考え、そこから、癒やしと解放の道筋を探していこうとすることなのです。
 東日本大震災から10年を数えました。
 あの日、あの時の驚き、嘆き、怒り、悲しみ、そして誓い。
 それを忘却しないこと。
 それを風化させないこと。もっともっと想像してみようとすること。それが、油を切らさないように生きるということであり、油断しない、という生き方なのだと思います。

                                 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-28 16:21:18 (39 ヒット)
週報巻頭言

 エルサレムへの入場。弟子たちにとって、それは、待ち望んできた晴れやかな舞台の幕開けでした。いよいよこの時が来た。いよいよ栄光をお受けになる。これまでの道のりが、これから始まる戴冠式によって華々しく締めくくられていく。「いよいよ、終わりだ」。そんなファイナルセレモニーのように感じ、浮き足だっています。すぐ手前の箇所では、ヤコブとヨハネが母親と一緒にやって来て、あなたが王座にお着きになるときは、一人を右に一人を左に座らせてくださるように、願い出てしまうほど興奮しています。弟子たちは皆が、先生はエルサレムに入場して王座に着座される。即位し君臨なさると思い込んでいます。一緒に旅をしてきた弟子達もまた同行していた多くの人々も、主イエスのエルサレム入場は、ファイナルステージ、栄光の最終章であるはずでした。
 しかし、主イエスにとってエルサレム入場は、入場は入場でも、苦しみの場への入場でした。屠り場にひかれていく小羊のように、踏みつけられ、侮られ、捨てられ、殺される十字架の道への入場、受難のはじまりでした。主イエスの目には、その道がもう見えていました。主イエスの足はもうその道を歩き始めていました。

 主イエスは子ろばを求められます。それが自分にふさわしいからです。それが自分の道にふさわしいからです。そしてその姿が、やがて自分の道に従ってくることになる人間にはふさわしいからです。小さなろばに腰掛けて進む。美しく、凜々しく登場し、高いところに目線を置き、勇ましく下々を見下ろし、速さと強さをもって敵をなぎ払うのではなく、優しく静かに近寄り、目線を低みに合わせ、柔らかく傷口に手を添え、あなたに届いていこうとする。ろばの子に腰掛けるのはそのためです。「あなたに届こう、あなたに仕えよう、できればあなたと一緒に働こう。」「あなたの生きる歩みの道に私は来ました。」
主イエスはロバの子の背中に腰掛けてわたしたちに近づいてきます。
 自分の乗り物に子ろばを選ぶ。自分にふさわしいものとして子ろばを求める。そのような王がいたでしょうか。エジプトのファラオ、バビロニアのネブカドネツァル、ペルシャのキュロス、マケドニアのアレキサンダー、そしてローマのアウグゥストゥス。地中海世界を制覇しようとした名だたる王たちのいったい誰が、ろばの子に腰掛けたでしょうか。そのような王は誰一人としておりません。しかしまた、それらの王の内、果たして誰が、この世界に、人々に、平和と救いとをもたらすことができたでしょうか。彼らが馬の上からもたらしたものは争いと略奪、支配と搾取、望まぬ労働と過酷な税金でした。しかし、主イエスが子ろばの背中から人々に届けたものは、生きる悩みへの共感、貧しさへのいたわり、罪人への憐れみと赦し、そして神と人とが結ばれていく繋がりでした。この世の王たちは、馬の上から命令と報復を振りまき、主イエスは子ろばの背中から招きと繋がりを届けます。

 今朝は、礼拝の冒頭に招詞として、ゼカリヤ書9:9-10(1489頁)を朗読しました。
 アジア・ヨーロッパ・アフリカ大陸を結ぶ地域に位置するが故に、常に大国の狭間で翻弄されてきたユダヤ。ダビデとソロモンの一時代に栄華を誇ったものの、瞬く間に没落し、都市の陥落と捕囚の憂き目に合いました。興亡を繰り返す大国の属国・植民地とされ続けてきたユダヤ。その疲れ果てた歴史に向かって預言者ゼカリヤは新しい王の姿を明確に語ります。
「彼は神に従い、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。エフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。闘いの弓は彼によって断たれ、諸国の民に平和が告げられるのだ」と。
 主イエスこそが、この子ろばに腰掛けた王こそが、人間がお迎えすべき方の姿、預言された方であります。この預言は今も聞かねばならないし、この預言は今も信じて良いのです。21世紀を生きている、今日の私たちの世界が迎えなければならない真の王もまた、この方、イエス・キリストであります。

 しかし、わたしたちは忘れてはなりません。これは入場だということをです。何に向けての入場なのでしょうか。この時小さな貧しい子ろばに腰掛けた主イエスは、間もなく重い荒削りの十字架を背負わされるのです。この時人々の歓声につつまれた主イエスの身体には、間もなく鉛の鞭が飛びかかり、頭には茨のとげが突き刺さり、彼の肩には罪人の死としての十字架がのしかかっていくのです。子ろばの背に乗った主イエスの入場の、本当の目的は、「背負うこと」でした。彼の命は「背負う命」でありました。背負われていたのは、まぎれもなくわたしなのです。彼が十字架を背負うことになったのは重荷を背負わされている「このわたし」の重荷を降ろすために闘ってくださったからでした。しかし、彼の十字架刑をピラトに求めたのは、他ならぬ「このわたし」でもありました。弱いイエスに直面したとき「わたしの欲しい救い主ではない。そんな人いらない」と首をふった「このわたし」なのです。イエスの十字架は、わたしのため。わたしの重荷のためであったと同時に、わたしのため、つまりわたしの拒絶のせいです。彼のかついでいた十字架は、わたしなのです。あの罪は、あの残酷は、あの重みは、わたしなのです。

 イエス・キリスト。わたしたちは、この方のいのちにまたがって、この方に背負われ、神さまの赦しと新しい生き直しの場に持ち運ばれているのです。それが、今日、生きているわたしの事実です。わたしの尻の下には、イエス・キリストがいるのです。それを忘れないでいたいのです。
 不安に怯えることがあります。仕事に疲れることがあります。他人の心ない言葉に傷つくことがあります。自分に失望することがあります。自分の罪に言いしれぬ恐ろしさを感じることがあります。それが私です。それが生きるということです。
 でも、このことを忘れないでいましょう。わたしは、イエスさまの背中に担がれています。主イエスに背負われて、今日を生きているということをです。わたしは、神さまの赦しと、「恐れるな小さな者、小さな群れよ、神はあなたに御国をくださる」という約束の中に、持ち運ばれようとしているのです。今、このときも、主イエスの背中に私たちは居て、持ち運ばれようとしているのだということを。

 そして、嬉しいことに、主はこのわたしを持ち運ぶだけでなく、用いようともしてくださいます。
 まったく勘違いをしたままの弟子たちにも、歓呼の中で主イエスを迎え入れた多くの人々の目にも、そのとき主イエスが踏みしめ始めていた十字架の道は理解できていません。 いったい主イエスの目は何を見ていたのか。主がエルサレムの何を見つめ、何を決意なさっていたのか。その時、誰も知ることができないでいます。しかし、すべては、主イエスの中で繋がっていましたし、動き始めていました。それまでの道のりの中で起こった主イエスのことばも業も、すべてがこの棕櫚の日曜日の入場につながっています。
 救いの業は、あらゆる人間の期待や予測を超えて、ただ神のなさり方によって動き始め、繋がりを示し、成就するのです。そして、救いの業のために、「主がお入り用」となさるものは、御手に委ねられ、御手に用いられるのです。
 主がお入り用となさるもの。それはこの日のように、子ろばかもしれません。それは、まもなく主イエスをしばることになる捕縛の縄かもしれません。彼の頭の上に編まれて載せられた茨の枝かも知れません。そして、もっとも呪われた処刑道具、十字架かもしれないのです。
 どんなに取るに足らないものであっても、どんなに人が気づかない貧しいものであっても、さらには、人々が忌み嫌い呪いさえするものであっても、神は、救いのために、それをお入り用とされ、それを用いて主は御業をなされるのです。
 わたしたちの弱さも、わたしたちが直面している試練も、あるいは背負わされている病気の重荷も、もしかしたら「主のお入り用」の中に扱われているかもしれません。人間が喜ぶどのような幸運も栄光も、主のお入り用でなければやがては霞み、逆に、人間の遠ざけようとするどのようなマイナスも、主のお入り用ならば主を証し、人々の魂を勇気づける働きをするのかもしれません。
 だから、わたしたちは、自分の弱さをも含めて自分を大切にし、私自身を主のお入り用の前で精一杯いきていくべきなのだろうと思います。

                                 了

 主なる神さま。あなたの独り子は、今も、子ろばの背中から、私たちの悩みの場を見つめて下さっていると信じます。新コロナに悩む私たちのただ中にあなたは低く小さくなって私たちに届きに来てくださいます。軍馬に跨がったミャンマー国軍の非情な暴力の前に、主イエス子ろばに乗って向かい合っておられます。主よ、やがて癒やされるべきもの、やがて光を充てられるものは、すでに主イエスの背中に背負われています。
 主の十字架が、立てられようとする闇のただ中にあって、イエスをよみがえらせたあなたの御心を仰ぎみる魂をわたしたちに、いま、授けて下さい。
 私たちもまた、子ろばの背中から、主イエス・キリストの御名によって祈ります。
                                  アーメン


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-21 13:43:09 (41 ヒット)
週報巻頭言

 フィリポ・カイサリアはユダヤと異教の地との境目にあります。これより後、ユダヤの深部・エルサレムに進んで行こうとするタイミングで、イエスは弟子達に打ち明けられました。エルサレムで、私は、多くの苦しみを受けることになる。長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺される。この自分を待っている迫害の運命を、あからさまに、はっきりと、弟子達に語り聞かせたのです。
 これから先生は何をなさるのだろう。どのようにしてこの国の人々を救うんだろう。救済計画のロードマップを知りたがっていた弟子達です。その言葉に度肝を抜かれました。 ペテロはあわてました。動揺しました。イエスさまを脇に引き寄せて、いさめ始めます。「およしなさい、先生。そんなことおっしゃるのは」「殺されるなんて滅多なことをおっしゃらないでください」
 ついさっき自分が「あなたこそメシアです。神の子です。」と告白したばかりじゃないですか。それなのに何ですか。あなたはメシアなんでしょ。神の子なんでしょ。ユダヤの真の王なんですよ。ペトロは到底、イエスの予告を受け入れられませんでした。拒絶したのです。とたんにペトロに対して、イエスの容赦のない叱責の言葉が向かってきます。「サタンよ、退け。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。
 
 ペトロの告白は結局は自分の願望、自分の思い描くメシア像の投影でしかありませんでした。イエスが、そして神ご自身が、人々の救いのためにどのような道をたどろうとしているかを見つめることができないし、打ち明けられた道が自分には受け入れられないときには、それを拒絶し、言葉を遮ろうとします。イエスは、そのような信仰のありさまのことを「サタン」と呼び、退けられます。
 このときイエスはもう明確に自分の受ける苦難と死を見つめておられました。しかもその死は十字架での死であることを理解していました。ユダヤの刑罰としての処刑ではなく、ローマの刑罰としての十字架刑を、忌まわしくも恐ろしい十字架の磔を悟られていたのです。
 十字架はユダヤ古来のものではなく、ローマがーマ帝国の全領域に広めた極刑の方法でした。この刑があてがわれるのは、ローマの政治支配に反抗した奴隷や下層民にかぎられ、ローマの市民権を持つ者にはぜったいに行われなかった刑です。
 十字架が宣告されると、その罪人をまずX型の木の枠に縛り付け、とがった骨や鉛の玉をちりばめた長い皮のムチで全身を撃ちます。その後、罪人は十字架の横木を背負って刑場にいきます。そして、そこで十字架が組み立てられ、罪人がづり落ちないように両足首のところに支えがつけられるんです。地面に寝かせてある十字架に張り付けられ、両手に釘が打ち込まれ、十字架はまっすぐ持ち上げられ穴の中に入れて立てられます。十字架は長く苦痛を与える死刑です。死ぬまでの間に仮死状態になったり、筋肉の硬直けいれんがおきたり、激しい渇きにおそわれ、発狂するものも多く、「最も残忍でおそろしい刑罰」とローマの哲学者キケロが書き残しています。イエスは、この十字架を背負う自分の姿を見ていたのです。ムチ打たれ、晒し者になり、苦しみ渇き、もだえ死ぬあの光景を見つめていたのです。
 民衆の前で栄光の内に君臨することではなく、群衆の前で晒し者になって死ぬことを。しかし、それは地上で神の思いを生き、神の国を宣言して生きた者にこの世が用意する死であることを悟り、受けとめていたのです。
 
 私たちは、だれもが軽々と人生を生きていけるわけではありません。みんな荷車を牽くようにして生きています。人生とはそれぞれが荷を背負い、荷車を牽きながら生きており、疲れを覚えたり病を得たりしながら歩む道であります。肉体を持ち、精神を持ち、限界を持って生きる人間の人生の事実です。
 さらに、そのような荷物に加え、時として重荷を背負わせられることがあります。その場合の重荷とは、ハードルの高い試練という意味での重さではなく、理不尽な仕打ちによって背負わされる類いの重荷です。例えば、それは謂われのない差別です。例えば暴力による傷と痛みです。例えば人々やこの社会から搾り盗られた果ての貧しさです。自分が生きている社会の構造の歪みや未熟さによってあてがわれてしまう無権利状態や困窮状態です。それは重圧であり、壁であり、縄であり、檻です。その人の存在を侮辱し、押しつぶそうとする、あまりにも理不尽で重すぎる重荷です。
 イエスは、人間が背負わされている重荷を知っていました。いいえ、重荷を背負わされている「この人」を知ろうとなさいました。「この人」の重荷を取り払いたいと強く願われました。それだけではなく、その人に重荷を背負わせている人々や社会にはびこっている通念を怒り、「否!」を叫びました。その都度、そこにある「重荷の主」と闘われました。それはユダヤ教指導層の神の名を語った民衆支配でした。時にそれは、武器によるローマの暴力支配でした。それに怒り、それに「否」といって不服従しました。それが、イエスの荷となりました。それが十字架への道というイエスの荷となりました。
 「人間の重荷」と「イエスの十字架」にはつながりがあります。「人間の重荷と十字架の関係」を、私たちは見落としたり見逃してはならないのだと思います。
「キリストは、私たちの罪のために、十字架を背負われた」とキリスト教では一口に語ります。罪を抽象化し、観念化し、人間の内面の苦悩の問題としてだけ理解し、その赦しのために神はキリストを十字架で身代わりとなって差し出してくださった」と出来事を心の内面の中で終結させてします。ほんとうにそれで、イエスの十字架の事実を理解したことになるでしょうか。イエスが事実、地上を生きたこと、その生き方が十字架を引き寄せたのだということに、私たちはもっとまなざしを向けなければならないのではないでしょうか。そしてそうでなければ「私の十字架」は再び内面の問題になり、「十字架を負う生き方」が観念的になっていくのではないでしょうか。
 「この人」が背負わされている重荷を見つめ、悲しみ、手を添え、痛み、そこで震え、そこで泣き、そして怒り、なんとかしたいと呻き、いっしょに立ち上がろうとする。この人の重荷への共苦と共感が、私の歩む道となり、それはその人に重荷を負わせている者の重圧を自分もかぶることになってしまう、すなわち十字架の道へとつながるのです。人に重荷を負わせる「重荷の主」は、常に狡猾で厚顔で暴力的です。つながって立ち上がろうとするものを潰そうとしてきます。だからその道は十字架の道となりますが、十字架を背負うとは、それでも痛みにつながろうとして心や身体を動かし始めることだと思います。その人の重荷のことで、悩んだり、考えたり、祈ったりしながら、それでもやっぱり「そのような重荷は人間に負わされるべきではないことを信じ続け」ることだと思います。また、考えていくと、自分自身がその「重荷の主」の一員なのだと気づかされる時があるのですが、その時には、ちゃんと打ちひしがれることだと思います。悔い改め、向き直って生きてみようとすることなのだと思います。
 ですから、十字架を背負う生き方とは、例えば宗教的な信念のために「殉教」や「殉死」を勇ましく遂げることなどではないのです。端的に言えば、他人の痛みと自分とを結びつけて生きようとする生き方のことです。
 それとは反対に、十字架を背負うことをしない生き方とは、人々の謂われのない苦しみや痛みを知っていながら黙っていること、見て見ぬふりをして通り過ぎること、何か別の理由を探してその人の重荷を「正当化」することだと思います。でもそれは、人間としての命を失うことだと思います。他人を失うだけでなく自分自身の人間性を失っていくのです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
 イエスの根源的な問いが心に響きます。
 
 ミャンマーでは、2021年2月1日の軍事クーデター以降、国の全土において、民衆が町に出て軍事クーデターに対する抗議活動が続いています。連日、SNS等を通して、民衆が広場や大通りを埋め尽くす様子と、それに対する武力鎮圧や夜間の襲撃・逮捕が繰り返されている様子が報じられています。
 ミャンマーは他民族の共和国連邦で、言語は350以上にのぼると言われ、かつての軍事政権により民族間での優遇差別政策がとられたことにより、大変複雑な国家体制が続いていました。そのような複雑な文脈を抱えながらも、現在、民族や地域や言語、世代の違い、セクシュアリティ、職歴など、拭い去るにはなかなか難しい「違い」のギャップを抱えながらも、軍事政権に対して「NO」を連日、違いを超えて訴え続けている闘いが、ミャンマー国内で続けられています。
 1988年の軍事政権の、あの時の苦しみの記憶がある年配の人たちも、「またもとに戻った」と嘆くだけではなく、若い世代とつながろうと、一緒に通りに出ておられます。日本でも、在日ミャンマー人たちが、ミャンマーで起こっていることを日本にいる人びとに知らせ、日本がミャンマー民衆の側に立って行動してくれることを求めて、連日、各地で集会がもたれてきました。外務省、国連事務所、ミャンマー大使館ほか、名古屋、大阪、神戸でも大きなアクションが続いています。
 ミャンマーの人たち抵抗運動は、具体的に昼間、街頭に出て声を上げる行動ですが、人々が掲げているプラカードの中にCDMと書かれたものがたくさん見受けられます。CDMとはCivil Disobedience Movement、市民的不服従運動です。軍事政権に決して服従せず、また協力しないという態度表明であり、公的な機関、企業、医療機関などで働く人びとが、「従わない」「従えない」と表明をする抵抗運動です。非暴力・不服従運動です。
 このような決死の民主化への声と態度に対して、先週から多く報告されているのは、夜間の襲撃です。電機システムを止め、CDMを表明した公務員宅を夜間に襲撃し、逮捕していくこと、それを阻止しようとする町の人びとをリンチしたり、発砲するということが毎晩くりかえされていると伝えられています。
 いま、渡邊さゆり先生の呼びかけで、毎週金曜日の朝9時から、在日ミャンマーのキリスト者たちと心配するキリスト者たちとの祈祷会がリモートでおこなわれています。その中で、在日ミャンマー人の方々が、口々に「ミャンマー国内の運動だけでは克服することができません。どうか、ミャンマー国外からみなさまの声を届けて、私たちの国を助けてください」と訴えておられます。

 十字架の道、十字架を背負う道、というものは、初めからあるものでも、決まった形があるものでもありません。目の前のこの人の苦しみ、この理不尽や不正義によって苦しめられているこの人の苦しみを目撃したとき、その痛みにつながり、その痛みを生み出すものを悲しみ、怒り、そして「それは決してこの人に、そして私たちに負わせられてはならない重荷である」と信じ、その重荷の主(ぬし)に服従しない姿の中に、十字架を負う、私の十字架を負う、という道が立ち現れてきます。
 主イエスは、そのように十字架を担われた方。そして、いまもなお十字架を負いながら本当に赦されなければならないもの、ほんとうに癒やされなければならないもののために闘っておられる方です。ミャンマーの人々が負わされている重荷、そしてミャンマーの人々が背負い始めている「私の十字架」のただ中に主イエスはおいでになります。
 また、その痛みとつながろうとする私たちのただ中に主イエスはいてくださるのです。

       了


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-14 14:42:30 (58 ヒット)
週報巻頭言

 人生はある意味で「宝探し」のようなものかもしれません。自分の人生を輝かせてくれる宝物。ああ、これがあるから自分の人生は良かった、と言える宝を手に入れること。自分は、こんな誇れるもの、こんなかけがえのないものを得たので、人生・生きていて良かったと思える、そんな宝物。そういう「お宝」を手に入れたい、と。それをどう考えるか、人によってそれぞれです。ある人にとっては、懸命に注いできた仕事と職場だと言うかも知れない。永年の鍛錬によって身につけた技術だというかも知れない。いや家族こそが自分の宝だと言う人もいるだろう。もうなんといっても孫が宝物だと言う「じいじ・ばぁば」たちもいるでしょう。何と言っても嬉しい友人たちだ。いやこの健康だ。
「あなたの宝物は何ですか」と訊かれて、人それぞれが、様々なものに思いを致すことでしょう。
 聖書は、人間が宝探しに生きる者であることを言い当てています。そして宝探しに悩み、宝探しに苦しみ、宝探しの果てにうずくまってしまう者であることを描いています。
 主イエスのたとえ話にもそれが映し出されています。
 100匹の群の中から迷い出た一匹の羊の話しがあります。もちろん迷い出た一匹の羊にたとえられているのが、まさに苦悩する人間のことです。宝物を探して、自分の目の先、鼻の先の何かにつられて進んでいるうちに、群れから遠く離れ、気がついた時には、生きることのできない場に閉ざされ、自分自身の命が危険にさらされる崖っぷちにいたのです。そこで、孤独と不安に怯える人間の姿を描いています。
 放蕩息子のたとえがあります。弟息子は、豊かな父の養いの家に暮らすことに満足ができなかった。この囲いの中から外に出れば、人生の宝物、もっと楽しく喜ばしいものに出会えるに違いない、と思いました。彼は、遺産の生前分与を申し出て、家を出ていきます。宝探しに胸を弾ませて出ていきます。たくさんの悦楽を知り、たくさんの遊び仲間ができます。しかし間もなく、それらすべては泡と消えます。彼は、豚に混じって、その餌を食べて空腹を満たしたいと思うところにはいつくばってしまいます。宝探しに失敗してしまったのでした。
 人生の宝を積み上げ、蓄えることに熱心で、すっかり大丈夫のようにしか見えないのに、苦悩が尽きず、イエスのところに、宝探しのことで接近してきた人々がいます。有名な「富める青年です」。彼は財産にも家柄にも恵まれていました。高い学問を修めユダヤの高級官僚(おえらさん)になる道もほとんど約束されていました。それでも彼は不安だった。そこでイエスのところにきて尋ねます。「師よ、何をすれば永遠の命が得られるのだろうか、さらに何をすれば、何を積めば、何を蓄えれば。」
 徴税人の頭でザアカイという男がいました。大金持ちで蓄えはもう十分でした。けれども人々から忌み嫌われる徴税人という仕事、誰からも「罪人」「ユダヤへの裏切り者」と指をさされる人生に、あまりにも深い孤独と嘆きを抱えてしまったのでしょうか。イエスにどうしても会いたくなり、恥も外聞も捨てて木に登って、主イエスを見に来たというのです。
 聖書は、そのように、人生の宝を求めて人間が悩み、迷い、失われそうになっており、場合によっては死にかけているのだということを示しています。
 聖書は、そんな人間を的確に描きながら、同時に、まったく別の角度から人間に迫っている神の呼びかけです。別の角度とはどういうことかというと、人間が自分の人生の延長線上に宝物を見いだし、宝を積もうとあがいているのに対して、神は、まったく逆の矢印をもって、「あなたは、わたしの宝物なのだ」と呼びかけているということです。

 申命記は、イスラエルの民がエジプトから導き出され、約束の地カナンに入っていく前に、途上にある荒野の中で、神さまから聞かされた言葉として編集されました。
「約束の地カナンにはたくさんの先住民族たちが住んでいる。そこに入植し、遊牧型にしろ、定住農耕型にしろ共同体を形成するときに、様々な誘惑があるだろう。あるいは、集団としてあまりにも弱く小さな自分たちを不安に感じるかもしれない。しかし、わたしを主と信じ礼拝する民としての姿を貫きなさい。わたしはあなたたちを、わたしの宝の民と思っている。わたしはあなたたちを必ず祝福する。」神はそう語りかけました。
 その際、神がイスラエルに言われた言葉は注目に値します。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた」(7-8節)と言うのです。イスラエルはたしかに、民族と呼ぶには数が少なく、貧弱でありました。それだけではなく、罪深くもありました。出エジプト後の荒野でのイスラエルの姿はうんざりするほど身勝手です。そのことも含める時に、神の愛に含まれる憐れみと忍耐の深みを知らされます。
 神がその民を選ばれる時、その人々が強いからではなく、また必ずしも正しいからでもありません。神は、この世にあって見落とされる人々、苦しんできた人々(エジプトで奴隷状態の中で叫び声をあげていた)に「心引かれ」、さらに「あなたたちこそわたしの宝物」と呼ばれるのです。かつて結んだ関係(アブラハムと交わした約束)に対する神の誠実と、人間の背きに対する神の忍耐、そして迷い・うめく人々に対する神の慈しみを見るのです。神は、イスラエルをご自分のための道具として選ばれたのではありません。道具ではなく宝とされたのです。神に背くゆえに「もはや使えない、もう使わない、捨ててしまおう」と言うのではありません。神にとって、ご自分が問題なのではないのです。イスラエルの民は、神の威厳や神の超越性を立証するための道具なのではない。この民は、神の愛の対象なのです。ですから、神はいつも心を動かしていかれます。絶対者として決して動かない神ではなく、情けないほどに相手に対して心を動かしてしまう神として、民に関係されたのです。だからこそ、神はこの民のために悩むのです。だからこそ神はこの民のために本気で怒るのです。だからこそ神はこの民のために忍耐し、繰り返し赦すのです。そして、神はこの民に信実を求めるのです。 

 「おまえたちは私の宝の民だよ」と、神から呼びかけられ祝福されているのに、イスラエルはその後も、自分の力で自分を輝かせようとし、この地上で自分たちの手で栄光を勝ち取ろうとあがいてしまいます。大づかみに言えば、それがイスラエルのその後の歴史であり、その結果、宝探しを誤り、宝探しに失敗し、あるいは宝をどこに蓄えるべきかも見誤ってしまっていました。何を愛すべきかをはきちがえ、また何を愛して良いのかがわからない民となってしまったのでした。
 さて、もともと、イスラエルの民にとって宝物とは何だったのでしょう。まさしくそれは、「神が自分たちを宝と呼んでくださること」そのものこそが「宝物」だったのです。神が宝と呼んでくださる自らを感謝し、神の宝として生きること、それそのものが宝物だったのです。それが天に宝を積む生き方だったのですが、イスラエルはそこから遠く離れて、もう神の呼びかけに心を動かすことができなくなっていきました。
 しかし、この民を宝物のように愛したい。この神の初めの思いは消え去ることはありませんでした。わが子として民を愛し、強いから、立派だから、役に立つからという理屈ではなく、愚か者であるからこそ憐れみ、迷い続けるからこそ導きたい、貧しいものであるから富ませたい、死に怯えるから生かしたい。神はこの心に燃え続けていました。
 主イエスは、この神の呼び声でした。主イエスは、この燃える神の心として「あなたは父なる神の宝物なのだ」と呼びかけました。
 主イエスは、宝探しに迷い、孤独と危険に閉ざされてしまった一匹の羊を、宝物のように探しに行き見いだして喜ぶ羊飼いの姿を映し出します。どうして99匹を野原に残して一匹を探し出しに行くのでしょうか。それは、宝探しに迷うこの一匹こそが、あなたであり、あなたは羊飼いにとって宝だからです。決して失いたくない宝だからです。
 放蕩息子が帰ってくる日を、父はなぜ戸口の外で待ち続けるのでしょうか。なぜ帰ってきた息子に、なんの怒りもぶつけず、抱きしめて迎えるのでしょうか。この愚かな息子がやっと真理を悟ったからでしょうか。いいえ、あの父にとって、この息子が宝物だったからです。失えない宝物だからです。そしてこの愛されたバカ息子こそが、実にわたしなのです。
 主イエスは、ザアカイの登った木の足下で、彼を見上げて、「今日、あなたの家に泊まらせて欲しい」と言います。イエスは、彼が宝探しに疲れていたことを感じたのです。そして、主イエスが言いたかったのは、「もうさまよいの木から降りてきなさい。あなたは、まぎれもなく神の宝だ。そして、あなたこそが、わたしの友だちだ。」ということでした。
 主イエスの言葉、主イエスの命は、「あなたは神の宝物なのだ」という神の心そのものです。あなたが、わたしを信じ、選んだのではない。私があなたを選んだ。わたしがあなたを信じ、共に生きるためにあなたとつながる。あなたの宝探しがあなたを強め、強いあなたが神を高めるのではない。神があなたを愛し、あなたを宝物とするのだ。あなたが、まだ弱かったときに、あなたがただただ神に背を向ける者であったときに、神はあなたを愛し、あなたを選び、あなたを宝物とされた。それがあなたの人生の出発点なのだ。あなたを宝物と呼び、あなたのために心を動かしてくださる神に向かって、あなたは「宝物としての喜びと安心」をもって生きていくことができるし、生きていくべきなのだ。
 これが主イエスの招きであります。
 人生は宝探しのようなものだ、と冒頭で申し上げました。けれども、その宝探しこそが謎に満ちており、人間は出口の見えない袋小路に入り込んでしまいがちです。しかし、人生にはもう一つの矢印があります。もうひとつの声があります。それは、神から「宝物」と呼ばれている自分に気づく、という矢印です。神の宝物としてのこのわたし。神のまなざしから自分を見るときに、私たちの今に、新しい慰めが訪れるのではないでしょうか。神の宝として生きること。私たちの今に、新しい使命が生まれるのではないでしょうか。
神の宝としての私、神の宝としてのあなた。わたしたちを、ともに天にたくわえるようにして歩んで行く市川八幡教会でありたいと思います。それは取りも直さず、わたしたちを私たちの手に握りしめることではなく、天なる神の前に、そして神の宝である多くの人々の前に、私たち自身を開いていくことであります。

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛する。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」 
                                了

 祈り
 主よ、いまコロナの霧、コロナの闇の中で、積み上げ、蓄えてきたものを失い、苦悩する多くの人々がいます。ただ、その誰もがあなたの宝物。自分自身の命と存在こそが、何よりの宝物だと気づき、それらの人々が再び希望をもって歩み出すことができるように導いてください。
 この世にあって見失われている人々を、慈しみ支えてください。
 そのような人を見失ってしまっているこの世を憐れみ、癒やしてください。
 私たちが、このような時に、ほんとうに大切なものに目を留め、自分の存在と隣人の存在の価の高さを受け取り直すことができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-07 14:50:25 (101 ヒット)
週報巻頭言

 今朝お読みしたマタイ10章は、12弟子の選任と派遣の部分です。
 マタイ福音書を読み、囲んで生きて居た人々が、主が自分たちを招きこの世に派遣してくださっていることと、この世にあって福音を語り生きることの試練、そしてその試練の中にあって貫いていくべき態度のことを、総括的に記している部分です。それを私なりの言葉でたどってまとめてみます。

「神の国が近づいた。神の国はあなたのものだ。これこそあなたがたが信じ語り伝えるべきことです。貧しい者を励ましなさい。病気のものとふれあい癒やしのためにかかわりなさい。重装備をやめて、いつもシンプルな姿で、身近なところで、日常の生活の営みをわかちあうような宣教をしなさい。人をもてなしなさい。あなたたちも人々のもてなしを受け取りなさい。わかちあうのだ。誰とでも、シャロームと挨拶し、その人のいのちと存在を祝福しなさい。もちろん、みんながあなたがたを歓迎するわけではない。拒絶され、攻撃されることもあるだろう。そのときには静かでいなさい。心が怒りや絶望や憎しみに支配されるくらいなら、その場から離れればいい。自分をだいなしにしてはいけない。
 あなたたちは、狼の群れの中にはなたれた羊のようなものかもしれない。みんなから悪意をもって議論をふっかけるられるかもしれない。しかしあれこれ前もって心配する必要はない。語るべき事はそのときちゃんと降りてくるのだから。
 もしかすると肉親からも迫害されることがあるだろう。身内から密告されるかもしれない。それは厳しい苦悩だろう。しかし、耐え忍びなさい。私も十字架を負うが、あなたがたもまた十字架を負う。しかし、その十字架を負うことをさらに命の神が背負ってくださり、十字架を負うあなたの人生丸ごとに真の命をくださる。忍耐強く、落ち着いて、わたしに信を置き続けなさい。
 あなたたちを拒絶し、排除し、危害をくわえようとする人々のことを恐れるな。今は、人々が理解できないことも、頑なに拒絶していることも、神の国の福音は必ず光を放つ。力で覆い隠そうとしても、真実はかならず表に出てくる。どんなに小さな声だとしても解放の言葉・福音の知らせを決して塞いでしまうことなどはできないのだ。恐れないで良い。あなたは体も魂も神のもの、神に知られ、神に支えられている。あなたの神はインマヌエルなのだ。」
 マタイ10章をわたしはこのようなトーンで読みます。
 これは、紀元80年代、イエスの宣教から50年ほどたった時代に、西シリア地方で、マタイ福音書を編集し、ユダヤ教徒たちからもローマ帝国当局からも厳しい弾圧の中にあった共同体が、イエスの言葉の伝承の数々を派遣の言葉として編み直し、自分たちが生きる上での励ましとし、支えとしていたものです。
 本日お読みした26-31節は、敵対する人々が圧倒的に多いこの世にあって、恐れる必要のないものと、ほんとうに恐れるべきものの事について明確に語っているフレーズです。
 特に、「暗闇の中、耳元で語り聞かせられた大切なことを、屋根の上で告げ知らせよ」というイエスのフレーズ、「小さないのち、安価な値段で売られている雀の命でさえ、神のみこころは注がれている」というフレーズ、そして「髪の毛一本まで数えられている、それほどにあなたは完全に神に知られているのだ」というフレーズは、たいへん印象的であり、またわたしたちイエスに従おうとするものの生き方や語り方に深い示唆を与えてくれます。

 2月1日早朝、ミャンマー国軍が突如軍事クーデターを引き起こしました。ミャンマーの民主化が進むにつれ、永らく国軍が政局にもたらしてきた特権や影響力が削がれてきたこと、そして民主主義の促進を図る現政権(NLD)が進めようとしている憲法改定によって、軍の既得権(議会の1/4の議席があらかじめ国軍に割り当てられること)が小さくされていくことに危機感を募らせ、一気に軍事的な転覆劇へと打って出ました。あれからアウン・サン・スー・チー国家顧問を始めとする政府要人は拘束されたままです。地方の与党議員たちはほぼ釈放されたようですし、一部の通信網は動き始めたようですが、それでもまだまだ情報は統制され、国民は軍事的に押さえ込まれています。
 軍部はクーデターを引き起こしたのち、かなりのスピードで組閣をおこない、軍部にとって好ましい政治体制づくりのために布陣づくりをしています。一年間は非常事態・戒厳令状態を続け、その間にミャンマーを正常化させるのだと言っています。
 戦車と銃とで思想と言論を封殺し、暴力を行使できる人々・すなわち軍人が政治の椅子に座ることで「国家の秩序と安全」を担保できる、それこそが「平和」であると考える思想が、このようにして君臨し直してしまいました。積み上げてきた民主主義が一夜にして軍靴に踏みにじられるという恐ろしい現実を世界はまのあたりにしています。これに類似した出来事は、昨年、香港でも引き起こされていきました。
 言論は大幅に封じ込められました。しかし、何が間違っているか、どんなひどいことがどこで起こっているのかということは、人々の耳元でささやかれ広がっています。何を見つめ、何に向けて、いま忍耐するのか。何を信じ、何を求め続けていくべきなのかという言葉は、暗闇の中で人々の耳元にささやかれ、伝わっています。「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」まさに、耳元で聞いた、切実な命の叫びや、耳打ちし合う真実は、決して封殺されることなく、やがて屋根の上で、叫ばれる日が来ます。屋根から屋根へと伝わりすべての人々が一斉に大声で叫ぶ日がくるのです。
 2月3日、在日ミャンマー人たちが3000人、ただちに外務省を取り囲んで、「ミャンマーを助けてください、よろしくお願いします」との嘆願の声を上げました。それを報じたYahooニュースには、すぐさま日本人達から、次のような非難の声が書き込まれました。
「日本で抗議しても意味ない。ミャンマーに帰れよ」
「コロナウィルスが日本で蔓延しても良いのか。エゴイスト過ぎではないか」
「他国へ逃げた負け犬、とミャンマーでは思われているかも知れません。蚊帳の外の蚊が 騒いでる状態で無意味」
「はっきりいって迷惑です。良識あるミャンマーの人はやめましょうって声ないの」
「密だし、迷惑です。本国に帰られて当事者相手にデモをしてくださいね。」
「邪魔だ、コロナで悲惨な状況でふざけている。」
「日本国内で異邦人が政治活動しないで欲しい。日本人には関係ない」
このような書き込みが、800件以上も書かれています。これをヘイトスピーチと言います。
 拒絶の声、無理解の壁、冷たいヘイトの風、そうした息苦しさの中で、しかし自由と正義の回復を求める声は決して封じられることなく、やがて屋根の上に鳴り響く日が来ると信じます。

 民主主義のいのちは、誰が主権者か、ということです。真の民主化にとって大事なことは、いつも「主権」というものを、この世に存在する「一人一人のいのち」に結びつけて捉えねばならないということです。力ずくでなく、かならずしも多数決だけでなく、そこに存在するすべての人の自由や権利が尊重されるように考え、作り直し、積み上げ、育てていく。それが常に「過渡期」を過ごす民主化、常に途上を歩み民主化のプロセスです。決して開き直らずに、自分たちの歴史の間違っていた問題点を検証し、対話的な教育を通して「考える人」を育て、新しい観点や見地も取り入れ、より良い社会にしていく不断の営み、これが民主主義を生きるということなのです。
 社会形成というものは常に「途上」ですから、たくさんの不備があります。そして、新コロナのような事態に直面した時にこそ、その社会の脆弱な事実、その社会のしくみの不備があらわになってきますから、混乱が起きます。しかし、その時にこそ、不満を力で抑え込もうとしたり、乱暴に思考したり、以前の姿に里帰りしようとしたり、力を持っている人に飛びついていったりしないで、落ち着いて新しい解決法を探していく。民主主義を育てるとはそういう忍耐強く丁寧な業なのです。
 ところで、その同じ時、日本では、運用する上での法解釈にたくさんの曖昧さを残したまま、行政罰つきで「私権」を制限させることができる「改正コロナ関連法」が成立しました。かなり心配な法律です。ミャンマーの軍事クーデターとは異質な出来事のようではあっても、力で自由や権利に制限を加えることも時には必要という「思想」は通じるものがあります。
 まもなく2月11日「信教の自由を守る日」を迎えます。日本社会が新コロナに覆われて初めての「信教の自由の日」。思想・信条・信教・言論の自由は、この一年でどうなってきたと思われますか。「こんな状況の中で、そうした自由は制限されるべきだ」という空気は濃くなっていると思いませんか。

 恐れるな。とイエスはいまもわたしたちに呼びかけてくれています。
 わたしたちは何かと恐れを感じます。信念や信仰を掲げて生きることに安心よりも恐れを感じることがあります。ひとたまりも無く、潰されるのではないか、はじかれるのではないか、嫌われるのではないか。恐れがつきまといます。弟子たちも、マタイ共同体も、わたしたちも同様です。新コロナウィルスの恐れは、この社会にいろんな恐れを引き出したとも言えます。ウィルス以上に恐ろしいものも出現してしまったのかもしれません。だから、わたしたちは、ほんとうに恐れるべきものは何なのか、をしっかりと考えていたいと思います。恐れるべきものは、ほんとうにそれなのか。という思考の枠組みを大事にして過ごしてみたいと思います。
 恐れるな、とは、恐れるべきものはほんとうは何? という問いでもあるのです。
 マタイ福音書を貫いているキーワードはインマヌエル「神共にいましたもう」です。今日の聖書箇所もインマヌエルです。「恐れるな、なぜなら『インマヌエル』だからだ」と言うのです。
「一羽の雀でさえ、父のお許しがなければ地に落ちることはない」と訳されている箇所は、原文に忠実に訳すなら「神なしに落ちることはない」すなわち「地に落ちるときには神が支えてくださる」という意味です。新共同訳の訳、「お許しがなければ」のままだと、「落ちるということは神の許可・裁断がくだったから」とか「落ちることが神のご意志だ」というニュアンスが残ってしまうので、もともとの本意と全く離れてしまいます。そうではありません。「神なしに落ちるのではない。あなたがどんなときでも神はインマヌエルなのだ」とイエスは言っているのです。
 わたしたちが弱るときもインマヌエル。理解されないときも、捨てられそうになるときも、「神なし」ではない。神が共にいてあなたを支えている。あなたは今泣いているかもしれない。しかし、神なしに泣いているのではない。神が共にいて泣いているのだ。神なしに疲れているのではない。神と共に疲れており、神が共に疲れを味わっておられ、疲れたあなたを神が支えているのですよ、ということなのです。
 一羽の雀さえ神なしに生きていない。一羽の雀さえ神なしに死ぬことはない。
 わたしたちは神なしに今日からを歩むのではない。わたしたちはどんなに悪い時代、どんなに先が見えない時代であっても、決して「神なし」に生きるのではないのです。

                                 了


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