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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-06 18:13:10 (318 ヒット)
週報巻頭言

二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分 の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 (マルコ 11 章 7 節)
主イエスは子ろばを求められます。それが自分にふさわしいからです。それが自分の 道にふさわしいからです。そしてその姿が、やがて自分の道に従ってくる人々にふさわ しいからです。小さなろばに乗って進む。高いところから、勇ましいところから、麗し いところから手を差し出すのでなく、また美しく凛々しい姿で、速さと強さで人を魅了 しようとするのでなく、低く優しく届こう、と、それがろばの子に乗る意味です。「あな たと居たい。あなたに仕えたい。できればあなたと一緒に働きたい。私は、あなたの道 に来たのです。」主イエスはろばの子の背中にまたがって、私たちに近づいてきます。 自分にふさわしい乗り物に子ろばを選ぶなんて、そんな王がいましたか。エジプトの ファラオ、バビロニアのネブカドネザル、ペルシャのキュロス、マケドニアのアレキサ ンダー、そしてローマのアウグゥストゥス。地中海世界を制覇しようとした名だたる王 たちのいったい誰が、ろばの子にまたがったでしょうか。そして誰が、人間にとって本 当の意味での救いや慰めを運んだでしょうか。 彼らが最高の軍馬の上から指揮したものは争いと略奪、隷属と支配でした。しかし、 主イエスが子ろばの背に乗って届けたのは、人生の憂いに共感する愛と、罪の赦し、神 と人とが結ばれ直す和解でした。この世の王たちは馬の上から恐怖を振りまき、主イエ スはろばに乗って柔和を届けます。 アジア・ヨーロッパ・アフリカをつなぐ地域に位置するがゆえに、常に大国の狭間で 翻弄されてきたイスラエル。ダビデとソロモンの一時代に栄華を誇ったものの、瞬く間 に没落し、都市の陥落と捕囚の憂き目に合い、興亡を続ける大国の属国・植民地とされ 続けてきたユダヤ。その疲れ果てた歴史に向かって預言者(ゼカリヤ)は新しい王の姿 を明確に語ります。 「彼は神に従い--高ぶることなく、ろばに乗ってくる。エフライムから戦車を、エルサレ ムから軍馬を絶つ。断つ。闘いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。」ゼカ 9:9-10 主イエスこそが、この子ろばに乗った王こそが、お迎えすべき方です。21 世紀という いまの時代にも、お迎えすべき真の王はこの方なのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-29 18:23:35 (292 ヒット)
週報巻頭言

近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に 名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、 エッサイはダビデの父である。 (ルツ記 4 章 17 節)
最近読んだカロリン・エムケさんの『「憎しみに抗って」−不純なものへの賛歌−』か ら下記の一節を引用させていただきます。 「ファナティスト(熱狂主義者)の教条主義が依存しているものがあるとすれば、それ は一義性だ。ファナティストは『均一』の民衆、 『真の』宗教、 『根源的』伝統、 『自然な』 家族、『適切な』文化といった純粋な教義を必要とする。異議も多様性も矛盾も認めない パスワードとコードを必要とする。 −中略− 均一で純粋な国家は、まず初めに『異 質』『敵』『虚偽』と断罪されるものを排斥してからでなければ成り立たず、したがって 決して安定をもたらすものではない。本質主義的な意味で使われる『共同体』という概 念は、安全も安定ももたらしはしない。」 カロリン・エムケさんは、こう語ったあとに、「だからこそ不純で多彩なものを支持す ることが大切であり、また社会(集団)にとっては、本質主義的要素、つまり均一で「純 粋」な要素が少なくなればなるほど、他者と同じでなければならないという強制も弱ま り、むしろ安心し、安定する」という主旨のことを書いています。他者の多様性を尊重 することは、その人の個ばかりでなく、自分自身の個も守られるからだと言うのです。 さて、ダビデの系図とかイエスの系図、というと何かしら純粋性とか正当性を立証し ようとしているように考えがちですが、ルツ記の物語そのものが、そしてそれを包括し たマタイ 1 章のイエスの系図そのものが、決して純粋や正統を証明しようとしているも のではなく、むしろ歴史がたどったそれぞれの時代の中で「不純」とか「不義」「不浄」 と烙印を押された人々との交わりや繋がりを、隠すことなく記しているものであること がわかります。そのように、聖書が光を当てる「人の繋がりの歴史」から、私たちは「宣 教」のダイナミズムを学ばねばなりません。教会とて、自らを「純粋にしよう」「正しく あろう」とすればするほど、実は不安定になります。むしろ、異質なもの、不純なもの、 駄目なものを抱えた個と出会い、つながり、多元的、複数的に生きることに自らを開く とき、実は自分も安心でき、安定性と持続性のある交わりをつくりあげていくことがで きるのであって、教会の「活路」はそこにあるのではないか、と感じるのです。吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-21 17:14:59 (410 ヒット)
週報巻頭言

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」 (ルカ福音書 17:17-18)
去る 6 月 28 日、「ハンセン病家族訴訟」に対して熊本地裁が国の責任を認めた判決に 対して、被告の政府は控訴を断念した。「断念したのが立派」なのでなく、この熊本地裁 の判決こそが合理的であり「まっとう」なものだったにすぎない。原告らの提訴の主旨 は、「らい予防法」という医学的根拠が無くただ差別と偏見に基づいて実施されてきた悪 法を永年(プロミンという特効薬により劇的に回復する事実が明確になった 1940 年台以 降も延々と)放置してきた国家・政府の「無為」によって、ハンセン病患者のみならず、 その家族も多大な苦悩と社会的排除に見舞われてきた事実を問い、国家としての賠償を 求めたものである。国家という「法制度」(立法府も行政府も含めた法治国家そのもの) が、もし「わたしに責任はない」と開き直ったなら、どのような法律を造っても、また それを放置しても「誰にも責任は無い」ということになるのだから、「国家・政府の責任 を広く認める」という判決は、至極当然のことだと思う。そして、「国の責任」というこ とは、私たち「歴史と社会を構成する者たち全体の責任」ということが明確になったと いうことだ。だから、「控訴断念を決意した」首相が為すべきことは、「異例のことだが 私が温情深い決断をした」と胸を張ることではなく、まずは元患者の家族を、提訴しな ければならないところまで放置してきたことと、原告たちの提訴に対して争う姿勢を見 せてきたこれまでの構えを恥じ、一切の留保なしに謝罪をすべきなのである。かく言う この私も、「社会の残酷」に加担してきた一人として悔い改める他はない。 家族から「その患者」が出たことが知られると一族が村八分の目に遭う。本人は、死 亡したことにされ隔離施設で名前を変えてひっそり生きる。生殖機能を断絶させる手術 を施される。「一般」社会との交流は遮断され、完治しているにもかかわらず社会復帰は 永劫閉ざされている。生まれてきた事を呪われ、人間としての尊厳がすべて奪われ、つ ながりを消される、そこまでの差別を浴びせられてきた人たちが、私たちの歩んできた この歴史・この社会の中に、同時代的にあったことを記憶せねばならない。そして、彼 ら彼女らの、また家族らの「回復/恢復」の課題は、日本社会の「人間性」の恢復への問 いかけなのだということを心に刻みたい。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-24 18:43:08 (426 ヒット)
週報巻頭言

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)

「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人の問いに対してイエスさまは、神の国は見える形で来るのではなく、「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。」と答えられました。この「ある」という言葉は現在形です。つまり、今すでに神の国は「ある」と答えられたのです。
しかし現実社会に目を転じれば、そこは経済力や権力、腕力など力による支配が横行し、多くの争いがあります。不平等、憎しみ、悲しみ、不信感の渦巻く中で多くの人が傷つき苦しんでいます。私たちは「神の国」をどこに見て希望をつないでいったらよいのでしょうか。
第2次世界大戦に従軍したイギリス人の若者が、日本軍の捕虜となりタイ・クワイ河の収容所に送られました。泰緬鉄道建築の過酷な強制労働により病に倒れ、彼はごみを捨てるように「死の家」に送られます。彼を絶望の底に追いつめたのは、手当てもされず悪化をたどる病だけでなく、捕虜同士の盗み合い、憎しみ、欺きでした。彼を今まで支えてきた教育、道徳、善意がことごとく否定されたのでした。醜い人間の本性に絶望した彼は、無気力、無感覚となり死臭の漂うその場でただ死ぬのを待っていました。
そのような中、収容所内の彼の戦友が、彼の虫が這う体をきれいに洗い、清潔な寝床を用意し、強制労働の後の疲れた体で、彼に丁寧なマッサージを施し根気強いリハビリを続けてくれたのです。やがて彼の動かなかった手足に感覚が戻り、徐々に生きる気力を取り戻します。ひとりの老いた女性宣教師によりもたらされた神の光が、憎しみと不信に満ちたこの収容所内を少しずつ変えていきます。神の愛を知った彼は仲間と聖書を読み、自分がしてもらったように傷ついた仲間に仕え、ついにこの収容所の中に教会を立ち上げます。
まさに「神も仏もあるものかという」悲惨な状況下にあっても、「神の国」は人の間にすでにあるのです。「神の国」は目立たないかたちでひっそりと人と人の間に打ち立てられ、人と周りを根底から変えていきます。
このような特殊な状況を持ち出すまでもなく、私たちが、礼拝で、祈祷会で、また日常生活の中で、イエスさまのお名前を通して祈る時、もうすでにそこは「神の国」のご支配の中にあります。イエスさまが来てくださったことにより実現した、「神の国」のご支配があまねくこの世に行き渡るまで、私たちは今ある現実に絶望するのでなく、希望を持ってイエスさまに従うものでありたいと思います。
                        (篠塚 薫)                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-03 21:18:12 (505 ヒット)
週報巻頭言

園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。』(ルカ 13:8)

月が改まって、いよいよ2018年度最後の月となりました。
市川八幡教会にとっては大いに揺さぶられ、慌てふためきながら、しがみついたり、とにかく担いだりしながら歩んだ一年でした。みなさまお疲れさまでした。
でも、その市川八幡教会という「いちじくの木」の傍らには、「ご主人様、この木を切らないでください」「どうか、この木をもう少し辛抱して待ってやってください」「この木の世話をわたしがやってみますから」と言いながら懇願してくださっていた主イエスがいたのです。イエス様の「ゆるし」と「とりなし」、ほんとうは、そこにおいてだけ存在させられた教会(わたしたち)だったのだということを憶えていたいと思います。そうです。私たちの2018年度の歩みは、いつもの年以上に、主イエスの必死の「とりなし」が注がれた一年だったのかもしれません。きっと、そうです。傷ついたり、情けなかったり、しんどかったり、それでもばたばたしていたりの一年でしたけれど、イエス様の期待が教会の命をつないでくださったのです。神様の前に、そしてこの街の人々にとって、味わい豊かな実りになるようにと呼びかけ、ただし、「その味の源はここ(十字架)にあるよ」と、自ら痛みながらとりなしを祈って下さるイエス様が、私たちの傍らには確かにいたのです。 インマヌエル、アーメン。
市川市八幡2丁目。この街に植えられて、この街のある部分の土地を所有して、私たちは根を張り、枝を張っています。歴史もそれなりにできました。でも、そうだから私たちは教会として存在している、というようなものではありません。この教会には、イエス・キリストの血が注がれています。そして主イエスの復活の知らせが太陽のように注がれています。実を結べ、人々を生かしめる実を結べと、とりなされ、励まされています。だから、私たちは教会なのです。
 私たちが、私たちの教会という交わりが、主イエスの十字架があってもなくても変わらないような言葉で語り合い、主イエスの復活があってもなくても変わらないような気持ちで進んで行こうとするならば、2019年度の活動計画を、どんなに一生懸命立てても、誰もが何かをしていても、忙しく話し合いをしていても、それは葉っぱばかりのいちじくの木になってしまうかも知れません。
 今週、3月6日より、レント(受難節)に入ります。3月11日には、東日本大震災の記念日も迎えます。いよいよ、人間の愚かさとはかなさに思いを凝らし、主イエス・キリストの慈しみと愛とに深く接続する日々となりますように。 (協力牧師 吉癲ヽ陝
                                                                                                                                     


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