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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-24 13:17:49 (193 ヒット)
週報巻頭言

「神との格闘」(創世記 32:23‐33)

ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創世記 32:25-27)

主はヤコブに「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。私はあなたと共にいる」(31:3)と言われました。ヤコブは主の言葉に従い、家族と共に自分の故郷に向かって出発します。彼にとって最も心配なのは兄エサウのことです。父を騙し、自分が受けるはずであった長子の祝福を奪い去っていった弟を、兄は許すはずがないと思っていたからです。兄は今も自分を恨み、殺そうと待っているのではないかと思うと恐ろしくて仕方がありません。ヤコブは自分の身を守るために様々な準備をします。しかし、どれだけやっても彼の心に平安はありません。
ヤコブ一行は、ヤボクの川の渡し場まで来ました。その夜、ヤコブは家族全員を連れてヤボクの渡しを渡り、なぜか自分一人引き返し後に残りました。あれこれと自分を守るための策略を思い巡らし、最後に残った彼はそこで不思議な体験をします。暗闇の中誰かがヤコブに襲い掛かり格闘を仕掛けたのです。それはその時彼が一番恐れていたエサウではなく、神ご自身だったのです。神は「エサウのことを考え、思い悩む前に、まず私を見なさい」というのです。エサウとの和解はその後で良いのです。
 神は自分の努力を止めようとしないヤコブの腿を打ち関節を外されました。ヤコブはもう動くことも何もできません。しかし、彼は去っていこうとする神を離しません。神に打たれたことにより自分の弱さを知り、ただ必死に神にしがみつくことしかできなくなったヤコブ。弱さを知るということは腿を打たれ足が不自由になってしまったことではなく、自分の力だけに頼る生き方が間違いであることを知ることなのです。
 私たちにもそれぞれ「ヤボクの渡しでの神との格闘」があるのではないでしょうか?私たちにとって、弱さを知るということは時に、痛みや苦しみをともなうこともあります。しかし、そんなときこそ神に祝福を求めて、神と向き合い、神と格闘すべきです!真剣にしがみついて「祝福してくださるまでは離しません」と本気で求めましょう。その時、神は私たちの弱さを克服させ、新しい人生へと導き、私たちと共に歩んでくださるのです。                       (松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-17 18:19:27 (213 ヒット)
週報巻頭言

ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川 のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。
(列王記上 17:3‐4)

「エリヤ」という名前は「主は私の神」という意味です。それは正に主を神とせず、バアルを神としていたアハブ王をはじめイスラエルの人々のところに遣わされるべく名前です。バアルとは、カナン地方の天候を司る神として人々から崇められていました。人々は、農作物が育ちたくさん収穫ができるようにと、人が造った神バアルに雨を降らせるよう乞い願うのです。
エリヤは王に対し、その間違いを指摘し、露や雨を支配しているのはバアルではなく主なる神である!と宣言します。エリヤがこれほどまでに堂々としかも激しく時の権力に対して間違いを指摘したのですから、彼の身に危険が迫るのは当然のことです。アハブ王は、国の繁栄と自分の権威を維持するためにもエリヤに自分に都合が悪くなるような預言はしてほしくなかったのです。ですから最終的には実力行使に出てエリヤを捕まえて牢に監禁して強制的に彼の心と言葉を変えようしたのです。
神はエリヤをアハブ王の手から、そして、エリヤの預言どおり起こった干ばつから守り逃れさせるため、何もない場所(ケリトの川のほとり)に身を隠すように命じます。いくら神の命令でも何もない場所に行くのは不安です。それでもエリヤは主が言われたように直ちに行動しました。そして、一人になって不安で心細い状況に置かれ自分の無力さを知ることを通して、頼るべきは主のみであることを教えられるのです。
私たちも自分の無力さを知るとき、素直に神に助けを求めることができるのではないでしょうか。しかし、自分の周りに便利な物や頼れる親切な人がいると、時に私たちはそれらにばかり頼ってしまって、本来最初に頼るべきはずの神の存在を忘れてしまう。それが人間の弱さなのです。
私たちもエリヤのように、何もない荒野へ行け、と神から命じられることがあるかも知れません。それは神が私たちに、本当に頼るべきは誰なのかを知らせるためなのです。                         (松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-10 20:29:57 (229 ヒット)
週報巻頭言

パウロは、かつて主イエスのまなざしと彼の人間観に、そのいのちを刺し貫かれた経験をもっています。彼は、エリート的人間観で武装し、どんなに人を迫害し、苦しめても、自分の立場からすればそれは正しいことなのだと言い切れる独善的で暴力的な人間でした。自分で自分を正しいと確認して生きる生き方は、人間を争いに向かわせるのでしょう。
 パウロは、主イエスの愛に出会いました。その愛に出会ったときに、それまで自分が誇っていた自分の正しさが全部醜いものにしか見えなくなってしまったのです。「人間の義、それは全て醜い」と彼は言い切って生きていきます。「自分はいままで義・正しさを追い求めてきた。しかし、今、本当の義、神の義に私は出会った。それが『イエス・キリスト』そのものなのだ。このイエス・キリストという義は、理論や体系ではない。だから、安息日に何をしてはだめ、一週間に何回断食をしなければだめ、という義ではない。この新しい神の義は、人間の命の中に働く義、人間のいのちのあらゆる場面で、その悲しみを受け止め、その弱さを受け入れ、その罪を赦し、おそれを支える、そういう義だ。この新しい義こそが、イエス・キリストのいのちであり、神の愛だ」とパウロは語ります。
 この新しい「愛という義」は、ふつうに言う「正しさ」ならば、努めたり心がけたり、修得したり体得していくものですけれど、「愛」ですから、それはもう受け取るもの、受け止めさえすればよいものなのです。
人間のことをギリシャ語でアンスローポスといいます。上を(天を)仰ぎ見るものという意味ですが、上の窓をあけて、全ての器のように天を開いて、注がれる神の愛を受け止めるためにそこにあればよい。私たちという人間そのものの出来具合など、ほとんど、まったくどうでもよい。備前でも有田でも古伊万里でもなんでもない「土の器」です。しかし、私たちは、この宝(神の義・神の愛・生きる喜び)を土の器の中に持っている、そのはかりしれない力は神のものであって、私たちから出たものでないことがあらわれるためなのです。
(吉癲ヽ陝


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