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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-19 22:55:24 (275 ヒット)
週報巻頭言

「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、・・・」
(ヨハネによる福音書6章5節前半)


  今日の聖書の箇所は、有名な「5千人の共食」の物語です。イエス様が五つのパンと二匹の魚をもって5千人のお腹を満たした、という奇跡的な出来事が書かれています。たった5つのパンと2匹の魚を何倍にも増やしたイエス様の力は素晴らしい!これは神の奇跡だ!というふうに読まれてきた物語だと思います。しかし、今日はなぜイエス様がそのような奇跡を行われたのか、その理由に注目をしてみたいと思います。
 「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て・・・」(5節前半)とありますが、並行箇所であるマルコによる福音書にはこのように書かれています。「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ・・・」(マルコ6:34)。
 この「深く哀れみ」という言葉はとっても大切な言葉です。なぜならこの言葉の中に私たちに対する神様の思いが明確に示されているからです。多くの聖書で「憐れみ」と訳されているこの言葉(スプランクニゾマイ)は、ギリシア語原典を最も忠実に訳している岩波訳では「断腸の思い」と訳されています。「断腸の思い」とは、「腸(わた)が千切れるほどの深い悲しみ」という意味です。それは、昔の中国のあるお話に由来します。
晋(しん)の武将桓温(かんおん)が船で三峡(長江の三つの渓谷)を渡ったとき、従者が猿の子を捕らえて船に乗せました。母猿が連れ去られた子猿の後を追って、悲しい泣き声をたてながら、どこまでもどこまでも必死についてきました。そして、ついにその船に跳び移ることができましたが、そこで息絶えてしまいました。その腹を割いてみると、腸(わた)がズタズタに千切れていたそうです。
「憐れみ」という言葉の中には、これほどまでに深く辛い悲しい思いが込められている。それは、ただ「かわいそう」という思いを遥かに超えています。そしてそれは私たち一人一人に対する主の思いがいかに深く大きいものなのかを示しています。これが、イエス様が奇跡を行われた理由ではないでしょうか。
今日も主はこの混沌とした世界を断腸の思いで見ておられます。主よ、私たちを、その主の思いに応え、主の愛に生きる者とならせてください。             (松準)
                                   


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-05 12:29:19 (295 ヒット)
週報巻頭言

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
(創世記 22:14)

「恵みが届けられた」と言って喜んだのもつかの間、それそのものが取り去られてしまう。それは、私たち人間に時折起こる悲劇であり、不条理です。けれども、これは決して他人事ではなく、特別に気の毒な人々の出来事でもなく、まさに私たちの人生の事実です。
アブラハムが100歳を迎えたとき、アブラハムに子どもが与えられました。神さまの招きに賭けて出発して25年。ようやく手にした約束への唯一の手がかりでした。すべてに別れを告げて出発してからというもの、彼がようやく手にすることのできた「出発する人生」の実りでした。
 ですから、アブラハムはどれほど、このイサクを愛し、このイサクに執着したことでしょうか。どれほどの愛情をこの一人息子に注いだことでしょうか。かわいらしいイサクを抱き寄せ、その頭をなでるごとに、神の恵みに感謝し賛美したことでしょう。
 しかし、恵みが届けられたと喜んでいたそのものが取り去られようとしています。
 あろうことか、その最愛のイサクを、日の出と共に連れだし、モリヤの山に登って、祭壇にほふって礼拝せよ、というのです。耳を疑う命令でした。
 アブラハムは、おののきと悶絶の一夜を過ごしたに違いありません。何度も何度も、神を呪ったのではないでしょうか。呪いながらそれだけは許してくださいと涙で懇願したことでしょう。天幕の中で、彼はいったい何と向かい合わせられたのでしょうか。25年間の人生を問い、自分の心深くにあるあいまいなものと向き合い、神と向き合い、自己と闘ったことでしょう。その暗闇の深さを、わたしには簡単に理解することはできません。
一晩中の苦悶を経ても、彼は自分を納得させるものを得られたとは思えません。何も腑に落ちはしなかった。ただアブラハムは、神が神であり、人は人であり、神が与え、神が養い、神が取られる。厳しい事実であるが、それを越えることはできない。その神と自分の関係に打ちのめされて朝を迎えたのだと思います。
残酷な朝。アブラハムは立ち上がり、出発します。イサクを連れ、薪を積んで、神さまの命じるモリヤの山に向かって「出発」するのです。                  (吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-29 19:49:00 (230 ヒット)
週報巻頭言

主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。(創世記 21:1‐2)
       
創世記21章には、アブラハムとサラの子、「イサクの誕生の出来事」が記されています。子どもの誕生、特に男の子の誕生という出来事は、アブラハムの生きた時代、また、創世記が書かれた時代の人々にとって大きな「祝福のしるし」でした。
このような「祝福」の価値観は現代の日本でも見られる「価値観」です。そして、この当たり前に思える「価値観」が悲しみや痛み、そして、差別を生んでいることも見過ごしてはならないでしょう。特に、少子高齢化の進む現代の日本の中で、子どもを得ることへの評価と子どもを持たないことへの批判の言葉が、時には露骨に、時には巧みな形で様々な場面で表れています。そして、最近もまた「子どもを得る」ということに関連して、少数者に対する差別に満ちた言葉が政治家から発せられました。このように、聖書に記されている「価値観」が差別につながるという現実を目の当たりにしながら、私たちは創世記21章の「イサクの誕生の出来事」とどのように向かい合うことができるでしょうか。
この数日、今日のカリキュラムで与えられている『聖書教育』誌の聖書個所と向き合いながら、このような思いを巡らせていました。そのような中で、今日の宣教の準備をしようと手に取った、市川八幡教会の『週報』に掲げられた教会主題の言葉、『裂かれたカーテン〜隔ての壁を除く群れへ』という言葉が目に飛び込んできました。そして、イエス・キリストは「隔ての壁」を取り除くために、世に来られ、十字架で死なれたことを思いました。教会主題の言葉を通して、神様は差別を生むために「祝福」を与える方ではなく、差別を取り除くために「祝福」をくださる方なのだということを確認することができました。
「祝福のしるし」によって、人と人との間に上下を作り、「隔ての壁」を建てるのは人間です。しかし、「祝福のしるし」によって人間の建てた「隔ての壁」を取り除くことが神様の御心なのではないでしょうか。
(中田義直)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-22 20:03:37 (261 ヒット)
週報巻頭言

園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」 (ルカ13:8-9)
       
聖書には、ぶどうの木やいちじくの木のたとえがよく出てきます。イエス様が言われた。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)この聖句で、私は長く離れていた教会にまたつながるきっかけとなりました。
 聖書によれば、ぶどうの栽培とぶどう酒の製造はノアの時代にさかのぼります。ぶどうの木はパレスチナの人達に身近で親しまれたものだったでしょう。ぶどう酒は祝福の象徴であり、反対にぶどうが枯れることは滅亡の象徴でした。たくさんの歌やたとえが聖書に出てきます。
主人はぶどう園にいちじくの木を植えます。このたとえが福音書に出てくるのはルカだけです。19章で、ザアカイさんがイエス様を一目見ようと登った木がいちじくでしたから、ぶどうと比べてしっかりとした枝で幹も大きかったでしょう。ぶどう園にいちじくの木を植えた? 何故に? 主人の気持ちがわかりません。いちじくさんはどんな気持ち? ぶどうさんは、自分たちの園によそ者のいちじくさんが来てどう思ったかしら? そんな事が気になってぐるぐる頭を駆け巡りました。「実をつけないなら切り倒せ」なんて事を。しかし園丁がいちじくを助けようとがんばってくれています。園丁はイエス様です。命拾いしたいちじくは、翌年実をつけることができるでしょうか?                  (鹿島 美紀子)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-16 18:13:43 (273 ヒット)
週報巻頭言

しかしヨナは主から逃れようとして出発し、
タルシシュに向かった。 (ヨナ書1:3)

ヨナは、紀元前8世紀の北王国イスラエルの預言者です。神はヨナにアッシリアの都ニネベへ行って預言をするように命じます。その内容は「悪を悔い改めて行いを改めなければ、まもなく神の審判が下り滅ぼされる」というものでした。しかし、ヨナはこの命令に従わず、反対方向のタルシシュ(現在のスペインの辺り)に逃げて行きます。
しかし、神はヨナが逃げるのを許しません。神はヨナの乗った船に嵐を送り、身動きが取れないようにします。船員たちはそれぞれ自分の神に助けを求めながら必死になって船が沈まないように努力します。しかし、ヨナは船底に降りて横になって安心しきってぐっすりと眠っていました。しばらくすると、船長がヨナのところに来て「寝ているとは何事か」とたたき起こし、「この嵐の原因はお前にある」と言いました。ヨナは自ら責任をとって海に投げ込まれるようにしました。
この船の中で眠っているという場面は、マルコによる福音書4章35節以下にも似たような場面があります。ガリラヤ湖でイエス様が嵐を静めたというところです。
ヨナは神の命令に背き、タルシシュに向かう途上で大嵐に遭ったとき、「これでもう、神様から逃げることができた」と安心しきって眠っていました。一方、イエス様が乗った船もまたガリラヤ湖で嵐に遭いましたが、イエス様は神様に信頼していたので平安のうちに眠っていました。両者は嵐に遭うことも、船で眠っていることも共通していますが、中身が全く対照的です。イエス様の船は「向こう岸に渡ろう」というイエス様の呼びかけに従って、「向こう岸」に向かっていました。しかし、ヨナの乗った船は神様が示した方向とは逆の方向に向かっていました。
私たちの人生にも嵐が襲ってくることがあります。そのとき私たちはどちら向きの船に乗っているでしょうか?
(松 準)


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