はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-29 17:30:38 (11 ヒット)
週報巻頭言

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」 (ヨハネ 18:37)
総督ピラトは憤っていました。“イエスという男を突き出し、「死刑判決以外は聞きた くありません」だと。朝方に突然やってきたと思ったら、そんな勝手な要求だけ突きつ け、そのくせ自分たちの宗教的理由とやらで官邸の中に入ってこようともしない無礼な ユダヤの高僧たちめ。「異邦人の家に入ると7日間汚れる」だの、「そうなると過超しの 羊が食えない」だのと、心の中ではローマ人を軽蔑していながら、こういう時だけはこ ちらの権力を利用しようとする狡猾な野郎どもだ。”ピラトは怒りで震えていましたが、 しかしこのイエスという男の問題をとにかく始末しなければならないと焦ってもいまし た。「死刑しか受け入れない」と連中が言うなら罪状をつくらねばならん。ピラトは“ロ ーマへの反逆罪”の裏をとるため、イエスにずばり聞いたのでした。「お前がユダヤ人の 王なのか」。“この男が「そうだ」と言えばそれで終わる”そう思ったいたピラトにイエ スは初めて口を開きます。「それはあなた自身の考えですか。それとも誰かがそう訴えた のですか」と。ピラトは切れました。「お前がユダヤの王かどうかなんて知るか。お前た ちの問題だろ。お前の同胞のユダヤ人たちがお前を殺してくれと言っている。お前はい ったい何をしたんだ。お前たちの間では、何をしたらそんなに憎まれるのだ。」審問して いるはずの自分が問われて逆上したピラト。日ごろからユダヤ人たちが待望しているメ シアだとか、神の国だとか、ローマ人からすればくだらないこの国の連中のこだわりへ の怒りが逆流してしまったのでした。やっかいで理解不可能のユダヤ人たちへの鬱憤と、 こんな国の総督を任じられた自分の不運を呪い、イエスにぶつけているかのようです。 この姿、ローマという国家(帝国支配)とユダヤという国(宗教支配)のせめぎ合い、軽蔑 と暴力と憎しみの対立が、ピラトを通して爆発的に露出した瞬間でした。 そんなピラトに向けてイエスは続けます。弁明や論争の言葉ではなく宣言のような言 葉でした。「神の御心」「神の御業」の真実についての証しでした。「わたしの国はこの世 のものではない。どの国にも属しておらず、またどの国の王でもない。私がここにいる ことが『神の国』の到来の真実なのだ」と。ピラトはつぶやきます、 「真実とは何か。」 真実とは目の前のイエスでした。宗教家が、政治家が、群衆が「神の子」を十字架 にかけて殺す。しかし、神はそれでも人間を憐れみ、愛し、ゆるし、受け入れている。 イエスこそが神の真実でした。イエスの十字架こそが神の愛の真実そのものでした。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-22 20:09:16 (25 ヒット)
週報巻頭言

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている。 (ヨハネ 16:33)
「信じています」と「信じます」は似て非なるものです。「信じています」は認識。「信 . . じます」は決断です。「信じています」の力は自分の中にあり、「信じます」の力は信じ . る相手の中にあります。 認識は過去に基づくものです。しかし、信仰は未来の希望に基づきます。私たちはと かく、時間というものが過去から現在、現在から未来に流れるしかないと思いこんでし まっています。しかし必ずしもそうではありません。たとえば婚約期間中のカップルを 思い浮かべてください。結婚式や結婚生活という未来の出来事に向かって準備をし、わ くわくしながら家具や生活用品を選んでいる光景ひとつをとっても、未来の約束から今 の時の過ごし方がつくられていることがわかるでしょう。未来の約束から時間が流れ込 んできて、今の生き方をつくるということは、人間には確かにあるのです。信じる未来 から今がつくられる。そして私たちの信じる先には、イエスが私たちを苛む世の力、死 の力に勝利しておられるという事実があるのです。 「信じます。」そのように生きるとき、私たちの経験からくる実感や判断が元になってこ れからを積み上げていく道筋ではなく、主イエスの命の力と約束とが、今を生きる私た ちに流れ込んできて私たちを動かすのです。たとえ自分の現実の歩みが、実際は厳しい ものであり、事実悩みの多いものであったとしても、また「人間や社会を荒らす力」が この世を支配していたとしても、それが私たちを決定づけるのではなく、主イエスがそ れらに勝利しておられるという事実が私を守り、私たちをつくってくださるのです。「信 じています」 「信じられます」。この私自身に根拠を置く「信仰」はかなり脆いのですが、 . イエスご自身の宣言と約束に明け渡す「信じます」という「信仰」は柔軟でしぶといの です。主イエスは、弟子たちにこの「信仰」をお授けになりました。イエスと別れる最 後の最後まで「自分の信仰」を問題にし、仲間の信仰(の弱さ)を問題にしている弟子 たちを見つめながら、そこにある全てはまもなく打ち砕かれるけれども、イエスご自身 の十字架と復活の出来事が、必ずあなたたちをつくり始める時がくる。主はその約束を しっかりと遺して逝かれるのです。 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っ ている。」私たちは、このイエスの言葉を信じます。信じて「世」を生きます。叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-15 17:26:29 (40 ヒット)
週報巻頭言

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 (ヨハネ 15:4)
ぶどうの栽培は、ユダヤの農業の主要なもののひとつでした。元来、パレスチナ地方 は土地がごつごつしているので、どうやらそれがぶどうの栽培にたいへん適しているの だそうです。 ぶどうは、陽当たりの良い山腹、その斜面によく実るのだそうです。その山腹を平ら にし表土を保つために、丘の地形に応じて周囲に石を積み上げ、幾重にもささえるよう に壁(石垣)を造っていたようです。この石垣は高さが 60 センチから1メートル以上も あり、この石垣を維持・管理していくために多くの労力を要したと言われています。 パレスチナのぶどう園では、ぶどうの枝はたいてい地面を這っていて、私たちが知っ ているような柵や棚に支えられているようなものではありません。たいていの枝は這う ままになっていて、それらは地面や石垣を覆い、また山葡萄や樫の木などそこいらじゅ うの木に這い登って、くるくると梢の先まで巻き付いたりして実を付けたようです。 ぶどうの枝は、そのように縦横無尽に伸びていきます。ですから、ぶどうの幹からは すっかり離れていて他の木に巻き付いている枝などは、あたかもその木の枝のようにさ え見えてしまうのです。たくましいかぎりです。けれども、たとえそうであったとして も、何かの拍子に幹から断ち切れてしまった枝は、まもなく枯れてしまい、無惨な姿を 地面や石垣の上に横たえることになります。農夫たちは、そのような枝を引っ張り上げ て取り除き、農園の外にある焼き場で焼くのです。 ぶどう園と手入れの様子、イエス様の時代にだれもが目にしていたこの風景をたとえ にして、イエスは、人間の命や人生のイメージを語り聞かせてくださいました。わたし たちが生きるというときに、いくつものつながりの中に生きていることを教えてくれて います。ぶどうの木があり、枝があり、実りがある。農夫もいる。そこを流れる見えな い樹液の養分がある。そのつながりをイエスは思い描かせます。 イエスがこのたとえを語ったのは、弟子たちとの最後の別れの夜、彼らの足を洗い終 わった流れの中でです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっ ている。」彼が伝えたかったことはこのことだったでしょう。「わたしはあなたがたにつ ながっているいるのだ」と。イエスへの忠実とか従順の教説として平板化することなく、 イエスの、わたしたちへの決意と愛の言葉として、この言葉を受けとめたいのです。叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-08 10:20:54 (20 ヒット)
週報巻頭言

イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 (ヨハネ 11:44)
東日本大震災をおぼえて ●死者にことばをあてがえ● わたしの死者ひとりびとりの肺に ことなる それだけの歌をあてがえ 死者の唇ひとつひとつに 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを 百年かけて 海とその影から掬(すく)え 砂いっぱいの死者に どうかことばをあてがえ 水いっぱいの死者は それまでどうか眠りにおちるな 石いっぱいの死者は それまでどうか語れ 夜ふけの浜辺にあおむいて わたしの死者よ どうかひとりでうたえ 浜菊はまだ咲くな 畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな わたしの死者ひとりびとりの肺に ことなる それだけのふさわしいことばが あてがわれるまで (辺見庸『眼の海』より) 東日本大震災をどう振り返るべきなのか。辺見さんは「犠牲者○万○千人」と語って 論じる風潮の中で、巨大な数に統合され類化されてしまおうとする人間の命を見つめて 詩を書きました。いま新型コロナウィルスの感染者が「○県で新たに○人」と毎日報じ られています。一人一人は決して「感染者」という名前ではありません。しかし「感染 者」と類化され隔離され、それで終わらず、嫌悪され排除され差別され始めています。 一人ひとりが生きてきて、生きていた場所で下敷きになり、波にさらわれ、放射能に 追い出され、ウィルスに冒されました。その日まで生きていたその人には、異なるその 人の涙があり、無念があり、苦しみがあります。固有の闘いはいまも続いています。だ としても、それらのその打撃が打ち消すことの出来ない尊い人生が、一人ひとりにある のです。ですから、一人ひとりにふさわしいことばが届けられること、そして一人ひと りのことばを聴くことができるようになれること。私たちに大切なことは、それです。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-01 19:45:27 (47 ヒット)
週報巻頭言

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりも ないことになる」 (ヨハネ 13:8)
ペテロはずっとイエスに従って歩んできました。「先生」と仰いで教えを聴き取ろうと し、 「主」と言い表して期待してついてきました。 「先生」はいつも前を歩いていました。 「先生」はいつも向かいに座っていました。自分も群衆と一緒に座って話を聞くときは、 「主」を見上げました。まぶしいまなざしで。ペテロはいつも後ろから、いつも下から イエスを見つめてきました。向かい合っている時でも下から見上げるようでした。 けれどもイエスと歩む最後の夜になってペテロはイエスを見下ろすことになってしま いました。自分の足下にしゃがみ込んで、このわたしの足を洗っているイエス。自分の 足下からわたしを見上げているイエスの表情がペテロに焼き付いてしまいました。ペテ ロのその後の人生に刻印されたイエスの姿でした。 舗装の無い道を誰もがサンダル履きで生きていた当時、足の汚れは「生きる上で避け られない汚れ」でした。「誰にも避けられない汚れ」でした。生きる者が、生きることで 背負っていく痛みであり、苦悩であり、恥じている何かであり、抱えている弱さでもあ ります。でも足を汚さないで生きることなどはできない、まさに「わたしがわたしであ ること」のどうしようもない事実なのです。イエスは終にはそれに触れてきます。「あな つい たのそれに触れそれを洗うためにこそわたしは来た。もし、あなたがわたしにそれを洗 、、 、、 、、、 わせてくれなければ、わたしとあなたの関係は無くなる」とさえおっしゃって。 イエスがわたしを、そのように丸ごと受け入れてくださっている。その事実を通して、 わたしはようやくわたし自身を受け入れ始めることができるのではないでしょうか。「汚 れ」を抱え込んでいるそのままの自分を「わたし」として。 もしイエスが食事の時には上座に座り、素晴らしい教えを語り聴かせてくれるばっか りの人だったなら。もしイエスが十字架にかからずに、むしろ人々の望みどおりエルサ レムの王になっておられたなら。どんなに主イエスを尊敬し、主イエス教えに感銘を受 け、イエスの後を追いかけることに充実を感じたとしても、自分の悲しみと弱さをいつ になっても受け入れることはできていないのかもしれません。イエスがこよなく愛して くださっている。それは、もちろんイエスがわたしを受け入れてくださることなのです が、同時に、わたしが自分自身のこのままの姿を愛することができるようにしてくださ ったということなのではないでしょうか。 吉 叶


(1) 2 3 4 ... 17 »
市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム