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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-12 20:37:08 (5 ヒット)
週報巻頭言

悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。(ペトロの手紙一 3:11)

ペトロの手紙が書かれた時代は、70年頃から二世紀の初頭と言われており、激しいキリスト教の迫害の時代でした。キリスト教は当時、今で言う新興宗教のようにみられていましたので、周囲の多くの人たちから激しい迫害を受けていたようです。ユダヤ教の伝統を無視して、新しい教え(イエスの教え)を説いていたわけですから、イエス様を知らない人たちにとっては、非常に受け入れがたいものでした。
 激しい迫害、抑圧、嫌がらせなどに苦しめられていたキリスト者たちに対してこの手紙の著者は、互いに同情し合い、慰め合い、助け合いなさいと励まします。どんなに理不尽な仕打ちに遭ってもそれに対して仕返しをしてはいけないと命じているのです。そして更に、迫害をしてくる相手に対して祝福を祈りなさいと命じているのです。
 もし、現実に私たちが、そのような迫害、抑圧、嫌がらせなどに苦しめられたら、その相手をゆるすことができるでしょうか。受けた痛み苦しみが大きければ大きいほど、余計に相手をゆるすことができなくなると思います。世の中には理不尽なこと、ゆるせないことがたくさんあります。相手をゆるすだけでも大変なのに、更に祝福を祈るなどということが本当にできるのでしょうか。しかし聖書は、いかなる事情があったとしてもあらゆる暴力を正当化しません。そして、手紙の著者は、詩篇34編13節から17節を引用し、それを慰めの言葉として語ります。つまり、裁きはすべて主の手の中にある、というのです。裁き(報復)の心をすべて主に委ねよ!と勧めているのです。
イエス様は、人々に裏切られ、ののしられ、辱めを受け、十字架につけられ、絶叫するほどの苦しみを味わって死なれました。しかし、イエス様は自分を十字架につけた人たちを一切恨むことなく、報復することなく、それどころか、最後の最後まで人々を愛し抜かれました。迷い出た羊を最後の最後まで探し抜かれました。イエス様のこの非暴力を貫かれた生き方こそが、平和を実現する唯一の生き方であり、道なのです。
                                    (松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-05 12:29:19 (12 ヒット)
週報巻頭言

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
(創世記 22:14)

「恵みが届けられた」と言って喜んだのもつかの間、それそのものが取り去られてしまう。それは、私たち人間に時折起こる悲劇であり、不条理です。けれども、これは決して他人事ではなく、特別に気の毒な人々の出来事でもなく、まさに私たちの人生の事実です。
アブラハムが100歳を迎えたとき、アブラハムに子どもが与えられました。神さまの招きに賭けて出発して25年。ようやく手にした約束への唯一の手がかりでした。すべてに別れを告げて出発してからというもの、彼がようやく手にすることのできた「出発する人生」の実りでした。
 ですから、アブラハムはどれほど、このイサクを愛し、このイサクに執着したことでしょうか。どれほどの愛情をこの一人息子に注いだことでしょうか。かわいらしいイサクを抱き寄せ、その頭をなでるごとに、神の恵みに感謝し賛美したことでしょう。
 しかし、恵みが届けられたと喜んでいたそのものが取り去られようとしています。
 あろうことか、その最愛のイサクを、日の出と共に連れだし、モリヤの山に登って、祭壇にほふって礼拝せよ、というのです。耳を疑う命令でした。
 アブラハムは、おののきと悶絶の一夜を過ごしたに違いありません。何度も何度も、神を呪ったのではないでしょうか。呪いながらそれだけは許してくださいと涙で懇願したことでしょう。天幕の中で、彼はいったい何と向かい合わせられたのでしょうか。25年間の人生を問い、自分の心深くにあるあいまいなものと向き合い、神と向き合い、自己と闘ったことでしょう。その暗闇の深さを、わたしには簡単に理解することはできません。
一晩中の苦悶を経ても、彼は自分を納得させるものを得られたとは思えません。何も腑に落ちはしなかった。ただアブラハムは、神が神であり、人は人であり、神が与え、神が養い、神が取られる。厳しい事実であるが、それを越えることはできない。その神と自分の関係に打ちのめされて朝を迎えたのだと思います。
残酷な朝。アブラハムは立ち上がり、出発します。イサクを連れ、薪を積んで、神さまの命じるモリヤの山に向かって「出発」するのです。                  (吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-29 19:49:00 (22 ヒット)
週報巻頭言

主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。(創世記 21:1‐2)
       
創世記21章には、アブラハムとサラの子、「イサクの誕生の出来事」が記されています。子どもの誕生、特に男の子の誕生という出来事は、アブラハムの生きた時代、また、創世記が書かれた時代の人々にとって大きな「祝福のしるし」でした。
このような「祝福」の価値観は現代の日本でも見られる「価値観」です。そして、この当たり前に思える「価値観」が悲しみや痛み、そして、差別を生んでいることも見過ごしてはならないでしょう。特に、少子高齢化の進む現代の日本の中で、子どもを得ることへの評価と子どもを持たないことへの批判の言葉が、時には露骨に、時には巧みな形で様々な場面で表れています。そして、最近もまた「子どもを得る」ということに関連して、少数者に対する差別に満ちた言葉が政治家から発せられました。このように、聖書に記されている「価値観」が差別につながるという現実を目の当たりにしながら、私たちは創世記21章の「イサクの誕生の出来事」とどのように向かい合うことができるでしょうか。
この数日、今日のカリキュラムで与えられている『聖書教育』誌の聖書個所と向き合いながら、このような思いを巡らせていました。そのような中で、今日の宣教の準備をしようと手に取った、市川八幡教会の『週報』に掲げられた教会主題の言葉、『裂かれたカーテン〜隔ての壁を除く群れへ』という言葉が目に飛び込んできました。そして、イエス・キリストは「隔ての壁」を取り除くために、世に来られ、十字架で死なれたことを思いました。教会主題の言葉を通して、神様は差別を生むために「祝福」を与える方ではなく、差別を取り除くために「祝福」をくださる方なのだということを確認することができました。
「祝福のしるし」によって、人と人との間に上下を作り、「隔ての壁」を建てるのは人間です。しかし、「祝福のしるし」によって人間の建てた「隔ての壁」を取り除くことが神様の御心なのではないでしょうか。
(中田義直)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-22 20:03:37 (27 ヒット)
週報巻頭言

園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」 (ルカ13:8-9)
       
聖書には、ぶどうの木やいちじくの木のたとえがよく出てきます。イエス様が言われた。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)この聖句で、私は長く離れていた教会にまたつながるきっかけとなりました。
 聖書によれば、ぶどうの栽培とぶどう酒の製造はノアの時代にさかのぼります。ぶどうの木はパレスチナの人達に身近で親しまれたものだったでしょう。ぶどう酒は祝福の象徴であり、反対にぶどうが枯れることは滅亡の象徴でした。たくさんの歌やたとえが聖書に出てきます。
主人はぶどう園にいちじくの木を植えます。このたとえが福音書に出てくるのはルカだけです。19章で、ザアカイさんがイエス様を一目見ようと登った木がいちじくでしたから、ぶどうと比べてしっかりとした枝で幹も大きかったでしょう。ぶどう園にいちじくの木を植えた? 何故に? 主人の気持ちがわかりません。いちじくさんはどんな気持ち? ぶどうさんは、自分たちの園によそ者のいちじくさんが来てどう思ったかしら? そんな事が気になってぐるぐる頭を駆け巡りました。「実をつけないなら切り倒せ」なんて事を。しかし園丁がいちじくを助けようとがんばってくれています。園丁はイエス様です。命拾いしたいちじくは、翌年実をつけることができるでしょうか?                  (鹿島 美紀子)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-16 18:13:43 (34 ヒット)
週報巻頭言

しかしヨナは主から逃れようとして出発し、
タルシシュに向かった。 (ヨナ書1:3)

ヨナは、紀元前8世紀の北王国イスラエルの預言者です。神はヨナにアッシリアの都ニネベへ行って預言をするように命じます。その内容は「悪を悔い改めて行いを改めなければ、まもなく神の審判が下り滅ぼされる」というものでした。しかし、ヨナはこの命令に従わず、反対方向のタルシシュ(現在のスペインの辺り)に逃げて行きます。
しかし、神はヨナが逃げるのを許しません。神はヨナの乗った船に嵐を送り、身動きが取れないようにします。船員たちはそれぞれ自分の神に助けを求めながら必死になって船が沈まないように努力します。しかし、ヨナは船底に降りて横になって安心しきってぐっすりと眠っていました。しばらくすると、船長がヨナのところに来て「寝ているとは何事か」とたたき起こし、「この嵐の原因はお前にある」と言いました。ヨナは自ら責任をとって海に投げ込まれるようにしました。
この船の中で眠っているという場面は、マルコによる福音書4章35節以下にも似たような場面があります。ガリラヤ湖でイエス様が嵐を静めたというところです。
ヨナは神の命令に背き、タルシシュに向かう途上で大嵐に遭ったとき、「これでもう、神様から逃げることができた」と安心しきって眠っていました。一方、イエス様が乗った船もまたガリラヤ湖で嵐に遭いましたが、イエス様は神様に信頼していたので平安のうちに眠っていました。両者は嵐に遭うことも、船で眠っていることも共通していますが、中身が全く対照的です。イエス様の船は「向こう岸に渡ろう」というイエス様の呼びかけに従って、「向こう岸」に向かっていました。しかし、ヨナの乗った船は神様が示した方向とは逆の方向に向かっていました。
私たちの人生にも嵐が襲ってくることがあります。そのとき私たちはどちら向きの船に乗っているでしょうか?
(松 準)


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