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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-22 09:30:13 (22 ヒット)
週報巻頭言

この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。(マルコ 14:8)

 タイトルの「すべてを主にささげる〜主の豊かさに期待して〜」は、女性連合の2018年度の年間主題です。主題聖句は「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙一4:10)」です。このように、女性連合では、特にこの一年、「スチュワードシップ」を念頭において、歩みを進めてきています。
 「スチュワードシップ」を調べると、《スチュワードは執事・財産管理人の意》とあります。教会では、「神の恵みに対する応答」であり、神から受けた恵みである賜物を管理し、必要なときにそれを差し出す姿勢のようです。シップからは、スキンシップ、フレンドシップのように、関係性や交わりをイメージできます。神の恵みを管理し応えていくことは、一人ではできない。祈り合い、意見交換し、調整しながら、ともに神に応えていく歩みが「スチュワードシップ」の恵みなのでしょう。
 この「スチュワードシップ」を念頭に置きながら、本日は、「イエスに香油を注ぐ女(ひと)」の話を考えてみたいと思います。この話は、4つの福音書すべてに記されていますから、かなり信ぴょう性のある口頭伝承から生まれたと言われています。(しかし、マルコ・マタイと、ルカ・ヨハネでは女性のイメージがかなり異なっています。)いったいこの女性は、どんな女性だったのか。どうしてイエスに香油を注いだのでしょうか。周囲の反応から何が見えてくるのでしょう。そして、イエスは、なぜ女性を擁護したのでしょうか。ご一緒に想像し、思い巡らしたいと思います。そしてイエスさまの励ましを私たちも受け取っていきたいと願います。
(米本 裕見子) 
                                                                                                                                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-11 22:02:49 (21 ヒット)
週報巻頭言

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
(使徒言行録 10:15)

出会い。それは私たちにとって、とてもワクワクする、そして嬉しい出来事です。今日、市川八幡教会の皆さまとご一緒に礼拝が出来ることを楽しみにしてきました。初めて出会う方、久しぶりにお会いする方、はたまた日常的にいつもお会いしている方(!)まで、今日、いろいろな出会いが与えられることを期待しています。
 しかし出会いは、必ずしも嬉しくて楽しいことばかりではありません。時に、出会う者に驚きを与えたり、また拒絶したくなるような出会いを経験することもあります。その人との間にある違いによって、相手をまったく理解できず、その人を受け入れることが出来ないようなことさえあります。違いというものが、出会いという喜ばしい出来事を、そうではないもののように、私たちに感じさせてしまうのかもしれません。
 イエスさまの生きた時代もそうでした。ユダヤ人と異邦人、男と女、障がい者とそうでない人。こうした様々な“違い”が明確に打ち出され、分断されていました。時には、相手を自分たちと同一化させるような暴力的なことさえ起こっていたようです。そして残念ながら、イエスさまの弟子たちを中心としていたはずの初代教会にも、こうした“違い”を受け入れようとしない空気が漂っていたのかもしれません。
 エルサレム教会での迫害を受けて、一部の人たちはユダヤとは“違う”場所へと逃れ、そこで福音を宣べ伝えました。このようにして、福音はエルサレムから各地に広がりをみせていきます。しかし、自分たちこそが「本家本元」だと自負していたエルサレムの教会は、自分たちとは“違う”者たちが福音を信じることを歓迎していなかったようです。そこで遣わされたのがペトロです。ペトロは、エルサレム教会の伝統を守るようにと、ユダヤとは“違った”地域の人々に教えて回っていました。
そんなときに、彼は激しい空腹を憶え、幻を見ます。それは、これまで食べてきたものとは“違った”食べ物の幻でした。のちにペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(使徒10:34)と告白しています。いったい、ペトロに何が起こったのでしょう? ご一緒に考えてみたいと思います。   (松藤 一作)
                                                                                                                                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-11-04 21:29:00 (38 ヒット)
週報巻頭言

こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、 神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
(コリント一 4:1-2)

パウロは、コリント教会の一部の人々の態度について「大金持ちのようだ」「王様のようだ」と言っています(8節)。どういうことでしょうか。
 コリント教会の人々は、自分たちのことを、自分たちはキリストにつながる天からの聖霊を受けたのだから「もう何の束縛も受けない自由な人間だ」「自分たちはこの世の生きるための業や配慮からも解放された特別な存在だ。ただ聖霊の世界、天と結びついた霊的な存在なのだ」との自意識を持ち始めていました。どこか、世を蔑んでいた風潮がありました。そして自分たちを特別視し、「聖霊で満たされた私」という自己陶酔に陥っていました。
 コリント教会のそうした人たちは、おおむね身分的には奴隷を使う自由な金持ちであったようで、たっぷりと与えられた自由な時間や、彼ら特有の知識と知恵とによって、自分の賢さと自由さを確かめる十分すぎる機会を与えられていたとも言えます。それゆえの問題ですが、彼らは自己を高めようとすればするほど「高ぶりの虜」となり、霊の世界を語れば語るほど「浮き世離れした人々」となり、観念の世界を論じれば論じるほど「偉人・聖人」となっていったのでした。そのあげく、賢い者たち、賢い言葉で語り合える者たち、インテリで自由で金のある者たちばかりのグループを教会の中に生んでしまっていたのでした。さらに、使徒たちの教えがどれほどのものだと言うのか、開拓者パウロの導きがどれほどのものだと言うのか。そんなものを越えて、われわれは、天の世界と直接に結びついた霊的な自由者なのだ、と主張していたのでした。
 パウロは、そうした高ぶりを持ち始めたコリント教会の一部の人々に対して、決して傲慢になってはならない、まるで王様にでもなったかのように勘違いしてはいけない、私たち使徒のこと、わたしたち使徒が証しをしあなたがたに伝えたイエス・キリストの姿を思い出して欲しいと力説しているのが、今日お読みした聖書箇所です。
 今日はこの箇所を通して、苦悩する使徒たちのことと、恵みの管理人としてのスチュワードシップのことをご一緒に考えてまいります。
 臨時総会と役員選挙のことを祈りつつ。             (吉高 叶)
                                                                                                                                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-28 07:24:13 (42 ヒット)
週報巻頭言

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
(マルコによる福音書 3:3)

福音書には23通りのイエスの奇跡物語があると言われています。私たちは奇跡物語を読むと驚くべき結果(病気が癒される、嵐が静まる等)に関心を集めてしまいがちです。この物語も手の萎えた人がイエスの言葉に従って手を伸ばしたとき、その手が元通りになった事に感動します。視点を変えるとイエスが語った「真ん中に立ちなさい」という言葉はその人の人生を変え、少なくとも周りの人々に影響を与えた言葉でした。障害を持っていた為に蔑まれ、社会から片隅に追いやられて生きてきた人が、彼自身も誤った律法解釈を植え付けられ、それを当然のこととしていた社会の呪縛から解放されたのです。この解放こそが主イエスに出会った彼にとっての救いです。
ここから彼の新しい人生が始まったと言えるでしょう。イエスが安息日に律法で許されていない治療行為をするのではないかと見張っていたファリサイ派や律法学者たちに対して、イエスは怒って彼らを見回しました。イエスは人々の人権・尊厳を侵害することに対して怒りを発したのです。見方を変えれば、その怒りは虐げられた人々への憐れみであり愛なのです。
先日分級で、メンバーの方から「旧約聖書の神はイスラエルばかり守るのですね。依怙贔屓(えこひいき)の神じゃないですか?」という率直な意見が出ました。
そうです!聖書の神、主イエスも依怙贔屓の神です。それはいつも弱い人々、貧しい人々、虐げられた人々の側に立つ神なのです。
主イエスも十字架を背負わされ、罵声を浴びせられ、鞭打たれながら、ただ一人でゲッセマネの丘に向かいました。十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と問いながら、全ての苦しみを担い死んでいったのです。そうしたイエスの生きざまと死にざまに対する神の肯定が「主イエスの復活」です。徹底して低くされた者と共に生き、自らをも低き者となって生き抜かれたイエスを神は善しとされたのです。                            (眞嶋 豊)                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-21 22:54:10 (36 ヒット)
週報巻頭言

彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(ルカ5:28)

イエス様は、徴税人レビのところに出かけて行き、「わたしに従いなさい」と言って彼を招かれました。27節に「イエスは出て行って」と書かれていますが、並行箇所の『マタイ』と『マルコ』は「通りがかりに」となっています。つまり、『ルカ』はイエス様が「通りがかりに」レビと出会ったと言うよりも、わざわざ出かけて行ってレビに出会われた、ということを強調しているのです。
 レビは、徴税人としてローマ帝国がユダヤ人から税金を徴収するのを請け負う仕事をしていました。ローマの手先となり、しばしば不正な利益を得ていたので、人々から嫌われていました。また、徴税人は異邦人であるローマ人と接触するので、当時のユダヤ人社会の中では汚れた「罪人」とされていたのです。そのレビが仕事中にイエス様に見つめられ、「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。すると驚くことに、彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従ったのです。 
このイエス様の「わたしに従いなさい」という言葉は、ただ上から下への命令的な招きではなく、「あなたのその生き方を私と一緒に変えてみないか。もう一度生き直してみないか」という、愛と励ましに満ちたイエス様の思いが込められた言葉であったと思います。
 座っていたレビがイエス様と出会い、何もかも捨てて立ち上がって行く、という短い文章の中に、とても大切な意味が込められているように思います。何もかも捨ててイエス様に従うのは簡単なことではありません。しかし、聖書には何も書かれていませんが、イエス様の招きの言葉の中に、レビの心に触れる何かがあったことは確かです。この「何か」がとても大切なのです。
「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という言葉と同じギリシア語の単語が使われています。つまり、「新しい人間になる」、「新しく生まれ変わる」ということを意味しているのです。イエス様の招き(愛)が、レビの心に触れて、罪人として無力と束縛と絶望の中にあった彼を揺り動かし、命の息を吹きかけ、立ち上がらせたのです。そして、レビもまた持てる物を何もかも捨てた(手放した)からこそ、その場から立ち上がることができ、イエス様に従って行くことができたのです。 
                                     (松 準)


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