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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-08-20 18:00:00 (7 ヒット)
週報巻頭言

わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。(出エジプト4:21)

神の執ような説得に負けてイスラエルをエジプトから導き出すという大役を引き受けたモーセは、神の山ホレブを出てミディアンのエトロのもとに帰り、別れを告げます。以前の罪(2:12)を追及される心配もなくなり、妻子を伴ってエジプトへ出発です。しかし、モーセに課せられたファラオの説得という任務には困難が伴うことを神は予見しています。モーセが主から授かったしるし(4:3, 6, 9)を行ってもファラオは民を去らせず、ついにエジプト中の初子の死という結果を招く(12:29)と言うのです。ファラオをかたくなになさるのはなんと神ご自身です。ここには、圧倒的な支配者に対する果敢な抵抗の記憶が跡をとどめているのでしょう。ファラオのかたくなささえ主なる神のご支配のもとにあると信じる以外に、慰めも希望もなかったのです(ローマ8:20参照)。
 24–26節の不気味な物語も、救いの道の曲折を象徴するかのようです。元来はモーセが夜中に魔物に襲われ、割礼によって災いを免れたという話だったのでしょう。しかし聖書記者は、すべてをおひとりの神の業に帰そうとするがゆえに、モーセを殺そうとしたのも主なる神ご自身だったと説明しました。そうすることで初めてこの物語は聖書の物語になったのですが、エジプトに帰れと命じられた神ご自身がモーセを殺そうとなさるという矛盾も抱えることになります。しかし、この矛盾を含んだ物語は、自由を求めるモーセたちの矛盾と曲折に満ちた戦いを予兆するにまさにふさわしいものです。よい神がお造りになった世界になぜ悲しみや苦しみがあるのでしょうか。悪い神も存在し、よい神の業をじゃまするのでしょうか。この物語は「否」と言います――人生には確かにまったく説明のつかない矛盾がある。その理由はわたしたちにはわからないが、神はご存じだ。主が導いておられないことは一つもないのだと。
 モーセは(なぜかまだ神の山にいて)アロンを迎え、ふたりはイスラエルの人々の長老に語りかけます。民は信じ、とりあえず第1段階は成功です。 (高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-08-06 18:00:00 (7 ヒット)
週報巻頭言

それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう。(出エジプト4:1)

神が「わたしはあなたと共にいる」と約束され、「主」というご自分の名を明かされても、モーセはなお迷っています。人々は名を告げるだけではわたしを信用せず、わたしの言うことを聞かないだろうと言うモーセにとっては、どうやら人々が神を信じ神に聞くか否かより自分を信じ自分に聞いてくれるか否かが問題のようです。エジプト人殺害の前科を持ち、ミディアンの地に寄留する自分は主なる神の預言者にふさわしくないという観念を振り払えなかったのでしょう。そこで神はへびに変わるつえ、重い皮膚病、血に変わる水の三つのしるしをモーセが行うことを許します。もっとも、エジプトの魔術師もへびに変わるつえと血に変わる水のしるしは行うことができます(7:11, 22)。しるしを見て納得するのは最善の信じかたではありません(ヨハネ20:29)。その背後に働かれる方への信仰あってのしるしです。
 次にモーセは口も舌も重いことを挙げて断ろうとします。言語障がいがあったのかもしれません。しかし神は「だれが人間に口を与えたのか」と反論されます。モーセをお召しになった方は、み心を行うためにすべてのよいものをも備えてくださるはずです。それでも「だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言うモーセに神は怒りを発し、レビ人アロンを同行させるように命じられました。アロンがモーセの口となり、モーセはアロンにとって神の代わりとなることが約束されます。必要なものが備えられたゆえか、神の怒りに恐れをなしてか、モーセはイスラエルの民を導き出すという大役を引き受けます。
 手に余る課題。しかし、共にいると約束してくださる方がおられます。なろうとする者になられる自由な方のみ心は成ります。人々が自分の言うことを聞いてくれるか否かを気にするのではなく、(自分も含めて)神を信じ、神に聞くことができるように祈るべきです。そして協力してくれる人を備えていただいたことに感謝することです。広島への原爆投下から72年、核兵器禁止条約が国連総会で採択されました。関係者の労苦とそれを支え続けた希望の力を思いつつ。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-07-30 18:00:00 (11 ヒット)
週報巻頭言

わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。(出エジプト3:12)

正義を実現するのは骨の折れるしごとです。「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出せ」と命じられたモーセは、さまざまな理由を挙げて辞退します。最初の抗弁は「わたしは何者でしょう」というものです。確かにモーセはイスラエルのひとりの人を監督の虐待から守ろうとしただけでファラオのお尋ね者となり、ミディアンの地に寄留するよそ者でしかありません。イスラエルの民をエジプトから連れ出すなどという大役が務まるはずもないのです。しかし、神は「わたしはあなたと共にいる」と約束されます。「これが(とはおそらく燃えても燃え尽きないこのいばらが、の意)しるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ」。主役はあなたではない。だから、民を首尾よくエジプトから導き出したら、みんなでもう一度ここに戻って来なさい、と主は言われます。
 しかしモーセはなお不安です。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることは聞きました(6節)。しかしその名を問われたら、何と答えればよいのでしょうか。古代人にとって、名を知ることは相手の本性を知ることです。呼びかけ、願い求めることを許されることです。容易に教えてもらえるものではありません。しかし神は「主」(ヤハウェ)という名を明かされます。「わたしはある」、むしろ「わたしはなろうとする者になろうとする」(エフイェ)という意味の説明までつけて。
 二つ目の抗弁も破られました。再び神は任務を突きつけます。イスラエルの長老たちにわたしのことばを、壮大な救いの約束を、告げよ。彼らは聞き従うであろう。それから長老たちと共にエジプトの王のところへ行ってわたしのことばを告げよ。王はあなたたちを行かせないであろう――わたしが手を伸ばしてエジプトを打つまでは。何もかも見通しておられる方がそう命じられるのです。エジプト人はイスラエルの民に金銀や外とうまで与えて送り出す、と約束されているのは、この神にとって奴隷を解放するとき手ぶらで去らせるのは不道徳なことだからです(申命記15:13)。モーセはこの方に身を任せることができるでしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-07-23 18:00:00 (12 ヒット)
週報巻頭言

今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(出エジプト3:10)

エジプト人を打ってミディアンに逃れたモーセは、そこで祭司の娘ツィポラと結婚しました。その祭司の名は2:18と民数記10:29にはレウエル、それ以外ではエトロと記されています。長い年月がたち、モーセの命を求めていたエジプト王が死んだあと、モーセはホレブ山で神から使命を与えられました。火に燃えながら燃え尽きない柴(いばらの一種)は、聖書記者にとっては単なる自然現象ではありませんでした。柴は逃亡中の身であるモーセで、火は神の霊であるという解釈がよさそうです。霊はモーセを燃え立たせ、しかし彼を焼き尽くすのではなくかえって生き生きとさせる、というのです。
 モーセが近づくと、神は「モーセよ、モーセよ」と切迫した調子で呼びかけられます。そこが聖なる(神のために取り分けられた、人の自由にできない)土地だからです。そこでは履物を脱ぐなど、普通の場所とは違ったふるまいが求められます。続いて「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という声を聞いて、モーセは恐れに打たれました。人は神を見てなお生きていることはできないからです(33:20)。続いて、神は「わたしの民」イスラエルの苦しみと叫びに言及し、「エジプト人の手から彼らを救い出し……広々としたすばらしい土地……へ彼らを導き上る」と宣言されます(8節)。どのように救い出されるのでしょうか。なんとモーセに彼らを連れ出せと言われるのです。
 私のような者には、こんな途方もない課題を引き受けることはできそうにありません。自分などに人々を奴隷の国から連れ出すことができるわけはない、抵抗したところで何の役に立つだろう――そう思ったに違いありません。このあと見るように、モーセもなんとか断ろうとしますが、神に迫られてついに承諾します。モーセだけでなく、今日までさまざまな人々が途方もない課題に立ち向かう道を選びました。聖なる方がこんなにも近づいて来られ、このすねに傷持つ者を通して大いなる業をなさる――そのおそれ多さが決断させるのかもしれません。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-07-16 18:00:00 (24 ヒット)
週報巻頭言

王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。(出エジプト2:10)

ヘブライ人に対する王の怒りが頂点に達し、男の子を皆ナイルにほうり込めと命じたとき、ひとりの男の子が生まれます。特にかわいい子だったので、母は王の命令に従うことができず、3か月隠した末に、防水したかごに入れてあしの茂みの中に置きました。母のこのささやかな行為がファラオの支配に風穴を開けていくのです。王女もまた赤ん坊への単純なあわれみからヘブライ人の子と知りながら養子にします。そこに、ようすを見ていた赤ん坊の姉の機転により実の母親が乳母として育てることになったというエピソードが挿入されて、幼い命を救った3人の女性たちの美しい連携の物語となりました。民を隷属の苦しみから引き上げる者=モーセ(本来は「息子」の意)はこうして生き延びたのです。女性たちが神のみ手に守られて圧制に抵抗した次第が示されています。
 しかし、モーセの道は平たんではありませんでした。奴隷が監督に打たれるのは日常のことです。しかし、ヘブライ人が同胞であることを自覚しているモーセは、エジプト人がヘブライ人を打っているのを見て怒りを抑えられず、エジプト人を打ってヘブライ人を助けます。しかしだれが見たのかこのことが知れ渡り、ファラオに追われる身となってミディアンの地に逃れます。そこでもモーセは正義の味方としてふるまい、7人の娘たちが羊に飲ませるためにくんだ水を横取りしようとした羊飼いたちを追い払います。これがきっかけで、娘たちのひとり、ツィポラ(小鳥の意)と結婚し、一児を得ることになるのです。
 1章でイスラエル全体の状態を描いた大きな物語が、一転して母・姉・王女の3人の女性に焦点を移し、さらには成長したモーセ個人の小さな物語へと展開していきます。強大な帝国の前で、個人の力はいかにもかすかなものにすぎません。被抑圧民族となればなおさらです。この吹けば飛ぶような個人が神の導きの中で歴史を左右することもあれば、モーセの監督殺害のように暴発に終わることもあります。エジプト王の死と共に、再び大きな物語が動き始めます。 (高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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