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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-11-17 20:45:27 (4 ヒット)
週報巻頭言

十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。 これによってわたしを試してみよと万軍の主は言われる。(マラキ 3:10)
本日は、スチュワードシップを覚える礼拝として捧げます。スチュワード(Steward) とは執事や管理者というような意味で、聖書では、主人から預けられた宝を用いて働く 人物として描かれていたりします。すなわち、人は、神さまの恵みを預けられ、託され て生きているということが、すべての理解の出発点となります。自分の命も、時間も、 経済も、能力も、「預かり物」と捉える姿勢です。この理解を、自分の人生論や生き方の 姿勢(個人倫理)として捉えるのも良いのですが、さらに、自然環境への考え方や歴史 に対する責任、国家や社会への関与、また自分が生きている身のまわりに存在する人々 (隣人たち)との関係、という包摂的な視点で捉えることが大切だと思います。 以前は、多くの教会の週報には「スチュワードシップ」という欄があって、その欄に は「先週の礼拝出席者数」と「献金額」が記されていました。つまり教会が元気かどう か、教会が使命を果たしているかどうかの「ものさし」が「数や額」で表されていたと いうことです。もちろん、それらの「数や額」に含意されている内実をほんとうに理解 し、互いに支え合ったり励まし合ったりできるなら、それにも意味はありましょうが。 礼拝出席は、自分に与えられている「時間の観念」の指標とも言えます。全ての時間 を「自分(自分に関わること)」のためだけに用いるのではなく、まず神さまを礼拝し(恵 みの与え手の御心を聞いてから)歩みだそうとすること、また隣人や同時代を生きてい る人々のために心を向けたり、実際に時間を使ってみようとすること。そこから自分の 生きる時間を意味づけたり組み立てたり捧げたりすることは、まさにスチュワードとし ての素敵な姿勢です。また献金は「経済の観念」の指標だとも言えます。自分の得てい る経済は、自分が力で稼いだからここにあるのか。自分に力が無いからここに無いのか。 そんな風に経済観念を自己に押し込めないことが大切です。「恵み」は神さまからの託さ れものですから、人間は神さまの被造世界とすべての生命を保全していくために「経済」 を働かせるべきです。けれど、実際の世界・社会は、その経済の独占や不公平な分配、 権力者による搾取と着服などが起こり、とてつもない格差社会を生み出しています。 「自分はきちんと献金してます」で終わること無く、この「被造物の平和と未来」のた めに富や宝が用いられているかどうかに心を配ること。スチュワードシップに大切なの はそうした視点と姿勢ではないでしょうか。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-11-10 20:03:47 (12 ヒット)
週報巻頭言

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、 と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。 (エレミヤ書 29:11)
1994 年にルワンダで起こったジェノサイドから 25 年が経ちました。人の身体と心に、 そして社会とその歴史とに途方もない傷が彫りつけられました。果たして加害者(とそ の家族・子孫)と被害者(とその家族・子孫)とが、共に生きていくことは可能なのか、 非常に深い難題が彫り込まれたのです。そのような中、REACH というキリスト教 NGO が「加害者と被害者の癒やしと和解」に取り組むプログラムを始めました。佐々木和之 さんは 2005 年からその働きに参与し、 「癒やしと和解」の実践に携わって来られました。 佐々木さんは鹿児島大学で農業を学ばれ、卒業後は国際飢餓対策機構の派遣員として エチオピアに駐在されました。そこで持続的な農業技術の指導などにあたられ貧困を克 服していく共同体づくりに携わられました。けれども繰り返される戦争によって村々か ら若い命が失われ、また耕した土地が荒れていく事実に幾度も直面されながら、「戦争」 そのものが根絶されないかぎり持続可能な生命の場づくりが台無しになっていくことに 強い問題意識を持たれていきます。そのような時、佐々木さんはジェノサイド事件間も ないルワンダに出会い衝撃を受けます。「あなたは、あの日、どこで、何をしていました か。」ジェノサイド被害者たちからの鮮烈な問いかけを自分自身に向け、「責任」を背負 って改めて米国やイギリスでの学びへと挑まれます。紛争そのものの予防と紛争後の和 解の道筋を研究する「平和学」という学問です。集中的に学び、「博士号」を取得した佐 々木さんは、そのままルワンダに赴き、和解のプロセスに参与し始めたのでした。 佐々木さんは、ルワンダで「和解と癒やしのセミナー」に取り組むと共に、「償いの家 づくりプロジェクト」「養豚プロジェクト」「花畑プロジェクト」などを開発し、自ら現 場でリードしながら、加害者と被害者(とその家族)の“和解のできごと”に数多く与 ってこられました。「悔い改め」と「癒やし」と「和解」と「協働」と「再生」とが密接 に結び合ってもたらされる「修復的正義」という道筋に光をあててこられたのです。 やがて、平和構築にはどうしても教育(歴史を記憶し平和を創造する次世代の人々の 育成)が必要であることに想いを強くされ、2011 年に PIASS(プロテスタント人文社会 科学大学)の平和・紛争研究学科の立ち上げに関わり、周辺諸国からも留学生を受け入 れて、平和構築のための後進の育成にあたっておられます。
               佐々木和之宣教  吉盂雉


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-11-03 17:39:12 (16 ヒット)
週報巻頭言

節 主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちる パン屑はいただくのです。 (マタイ福音書 15 章 27 節)
この福音書の記録を読むとき、私たちはイエスの「つれなさ」に意外な想い(はっき り言うと「嫌な感じ」)を抱いてしまうのではないでしょうか。カナン人の女性に対して、 イエスが子どものパン(つまりユダヤ人たちの救い)をさしおいて、犬に(つまり異邦 人たちに)投げてやるのは、順序が逆だし、その気はない、とおっしゃっているように 思えるからです。その後、この女性との会話を経て、イエスは態度を変えられるわけで すが、「それにしても、イエスともあろう人がこんなこと言うのか」とがっかりするよう な記録です。しかし、弟子たちにとっては「この出来事」こそが後々とても大事なこと として心に刻まれ、「救い」というものの中味やダイナミズムをとてもリアルに考えさせ てくれる記憶になったのです。「主はあの時、動かされたではないか」「主は、あの時向 き直ったではないか」 「主の業は、ユダヤ人か異邦人かなどという壁を(この重大な壁を) ものともせずに、あのカナンの女性に注がれたではないか」。この記憶こそが弟子達にと っては鮮烈であり、ラディカルな事実でありました。伝道のパラダイム(既成の感覚や 枠組み)を転換していく明確なモデルケースになったとも言えるでしょう。 ユダヤ人たちを主たる者たちとしていた最初期の「使徒・信徒集団」にとっては、ユ ダヤ教の枠組みに捕らわれ、ユダヤ人の救いを第一義的に考えてしまうのは偽らざる現 実でした。発想や感覚の限界を彼らも当然のごとく抱えて出発したのです。けれど、主 イエスについての記憶は、彼らをその枠内に留まらせることを許しませんでした。異邦 人女性に向けて動いた(動きを変えた)主イエスの記憶がそれを許さなかったのです。 その記憶は、国籍や国境などの壁を越えていく新しい出会い方への強い促しとなりまし た。行動範囲を限定しようとする人間的な意味づけや枠付けの「もっともらしい装いで カモフラージュされた限界」を「イエスの想い出」が突き抜けさせたのでした。 ただし、イエスの構えを変えたのは、まぎれもなく一人の女性、わが娘の苦しみを抱 きかかえて「助けてください」と声をあげた異邦人女性の「痛みの叫び」であったこと を、わたしたちはしっかりと記憶しなければなりません。「痛み」がちゃんと発せられ、 その「痛み」にまっすぐ向かい合おうとする関係こそが、あらゆる壁を越えさせるので す。それは、今日の教会の宣教にとっても同様です。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-27 17:31:50 (34 ヒット)
週報巻頭言

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 (ルカ 9:20)
                            
 本日、「交換講壇」で市川八幡キリスト教会の皆さまとご一緒に「主日礼拝」を献げることができ、心より感謝申し上げます。日頃より私たち福島主のあしあとキリスト教会を心に覚えてお祈りくださり、また毎月支援の献金をしてくださっていることに改めて御礼申し上げます。私は福島主のあしあとキリスト教会に招かれ、1年半が過ぎようとしています。たくさんの傷と痛みを受け、様々な課題を抱えた兄姉たちと共に「主日礼拝」や「祈祷会」、その他教会の諸活動を続けながら、また福島での様々な人々との出会いの中から、改めて思い知らされることがあります。それは、「イエスさまが共にいてくださる」のが確かで、そのイエスさまが「今も生きて働いておられる」ということです。直面する課題や問題に対して、「すぐに答えが欲しい」、「解決の扉が開いてほしい」という私たちの願いは、なかなかすぐに叶えられません。そして諦めたり、そのこと自体を忘れてしまったりします。しかし、思いがけない時や場面で、その答えや進むべき扉が開かれることを経験します。そうなのです。私たちの時間や思いを超えて、確かにイエスさまを通して神は働いておられ、神のご計画は着実に進められている、そのことをいつも教えられ示されます。
 あなたは「神からのメシアです」というペトロの告白の直後、イエスさまは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」(ルカ9:22)と受難を予告されます。さらに続いて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と語られます。この弟子たちを諭したイエスさまの言葉に注目します。「従う」こと、それは自分自身の生きる規範を自分の外に見ることでしょう。ここではイエスさまを見ることであり、イエスさまの生き方を選択することです。イエスさまが、十字架を覚悟され、自分を捨てる歩みに進まれたように、あなたは「神からのメシアです」という信仰告白を生きる私たちも、救いと恵みの源であるイエスさまを見続け、この方によって、期待と希望の歩みを日々進めていきたいと願います。
(福島主のあしあとキリスト教会 牧師・大島博幸)                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-20 21:16:00 (40 ヒット)
週報巻頭言

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来る のか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。 (詩編 121 編 1-2 節)
詩編 121 編はエルサレムへの巡礼へ旅立つ人の心情と周囲の人々の祈りを唱った詩で す。しかし、エルサレム巡礼にかぎらず、わたしたちの人生そのものが旅路です。わた したちは、ふだんは自分の足下を見回す程度の歩幅と視野とで生きていますが、時とし て山々を見上げるようにして“自分の人生がこれからどうなってしまうのか”と見渡す ことがあります。その時、目的地までの道がまっすぐはっきりと見えている人など誰一 人としておりません。道はほんの少し先までしか認めることができず、そのくせ険しそ うな山が向こうに見えてしまう。そして、この道がやがてあの険しい山々の中に通じて いくのかと思うと、ほんとうに不安になるです。 「わたしの助けはどこから来るのか。」それが、生きる者に共通した不安、生きるという ことの中にある根本的な求めであり、また生きる諸所の局面に繰りかえし起こってくる 問いであると思います。 人生の旅路の真の助けは何なのでしょうか。政治体制でしょうか。社会制度でしょう か。福祉制度でしょうか。預金通帳の残高でしょうか。たくさんのコネクションでしょ うか。たしかにそれらは時としてわたしたちの助けになります。けれどもまた、人間の 作り出したシステムや関係性には、ほとんどの場合「ギブ&テイク」の条件がついてい ますし、ほんとうに困ったときに知らん顔をされたり、場合によっては罠や裏切りによ って失望に突き落とされることがあります。 そこで開き直って“頼むは自分自身の堅い信念だ”“強靱な精神力で生きてみせる”と 力を入れて生きれば何とかなるのでしょうか。ところが、人生の危機というものは、必 ずしも外から来るものとは限らず、多くの場合は自らの内面から起こってきます。傲慢 になっては落とし穴にはまり、欲望という罠もまた自分の中から無くならず道を荒らす のです。怒り、迷い、不信、疑念は振り払っても振り払っても自分自身の内側から湧い てきて旅路を 苛 むのです。間違いを犯してしまった罪悪感、あるいは病気や老いは、か さいな つてあれほど満ち満ちていた自信をあっという間に打ちのめしてしまいます。人間はほ んとうに弱いのです。わたしの助けはどこから来るのでしょうか。 吉 叶


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