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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-09 20:06:44 (64 ヒット)
週報巻頭言

主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。」
               (士師記7章4節)

士師記には、モーセの後継者であるヨシュアの死の直後から預言者サムエルが登場するまでの、イスラエル民族の約300年間の歴史が書かれています。
今日の聖書の個所はギデオンという士師の物語です。前の4章と5章で、デボラとバラクの活躍によってイスラエルは解放され、40年の間平穏の時を過ごしました。しかし、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを7年間、ミディアン人の手に渡された」(6:1)とあるように、今度はミディアン人から圧迫されるようになったのです。そこで彼らは主に助けを求めます。すると、主はミディアン人から隠れて酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオンに召命を与え、ギデオンを通してイスラエルを救おうとされるのです。
彼(ギデオン)は言った。「どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(6:15)この主からの召命に対する弱腰な態度は、モーセやサウルやエレミヤにも共通しています。そんな気の弱いギデオンに主は「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」と言って励まします。
ギデオンは民を率いてエン・ハロドのほとりに陣を敷き戦いに備えます。その数3万2千人。それに対してミディアン人は13万5千人。ギデオンたちは圧倒的に不利です。しかし主は「あなたといっしょにいる民は多すぎる」と言われ、最終的に300人にまで減らすのです。その300人とは、水を飲む際、犬のように舌で水をなめる者ではなく、水を手にすくってすすった者。即ち、水を飲むことだけに気を奪われず、周囲に気を配りつつ、事態の変化にすぐに対応できるような姿勢の者です。それは、主が人の戦闘能力や体力を見ておられるのではなく、人の姿勢を見ておられるということです。日常生活においてその人がどれだけ主に目を向け、自分の基準ではなく神の基準で物事を考えているかを見ておられるのです。敵を恐れず警戒心の強い優秀な兵士を主が選んだのではなく、常に主に意識を置いている人を選び、ご自身の計画のために用いようとされるのです。
(松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-04 09:39:45 (64 ヒット)
週報巻頭言

「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 (ルカ 16:26)

イエス様のたとえ話には、いつも不思議な逆転が含まれています。
九十九匹を野原に残して一匹を見つけるまで探し回る羊飼いの話、勤勉な兄を差し置いて家出をし放蕩に身を持ち崩した弟が、父の愛に存分に包まれていく話(放蕩息子)や、ユダヤ人たちにとっては仇敵のようなサマリヤ人こそが重傷を負ったユダヤ人を憐れみ深く介抱していく話(善きサマリヤ人)、不正などうしようもない管理人が機転を利かせて友達づくりをするやり方を主人が褒める話。イエス様のたとえ話は、そのように一筋縄でいきませんし、常になにごとかの逆転や逆説を含んでいます。つまりユダヤ人たちが前提にしてきた以下のような「救いの方程式」がひっくりかえされていきます。
「まずユダヤ人であること。それから律法をはずれることなく勉強し実行していること。そのような者には結果的に祝福としてこの世の富や栄誉がもたらされるのだということ。そういう者たち(まともなアブラハムの子たち)だけが、特別な会員のように神の国をいただけるのだ」。
このような当時の教えや通念や救いの方程式をひっくりかえしてしまう「神の愛の自由さ」が、イエス様のたとえ話にはいつも含まれています。けれども、ユダヤの指導者たちは頑なで、そこから自問することを決してしませんでした。
 このときも、イエス様の話をファリサイ派の人々はあざわらいました(16:14)。そこでイエス様は、この世での成功や栄華に酔いしれて、それだけではなく、いつしかそれを「天国への通行証」だとさえ思い違いしていたファリサイ派の人々に向けて「金持ちとラザロ」の話を語って聞かせたのでした。
 ただし、この話、生前貧しかった者は死んだら神の国に招かれ、生前大金持ちだった人間は死んだら炎に焼かれて苦しむのだという単純な図式ではありません。でもイエス様は、次のことを明確におっしゃっています。「奢り高ぶり人々を侮っている人間が考えもしなかったような逆転が、神の前では起こるのだ」ということをです。その上で、イエス様は傲慢なファリサイ派の人々に問うたのです。「あなたは、自分に与えられたそれらの恵みを、門前の貧しき者とわかちあったか。神の国の鍵は、逆転の分水嶺は、あなたの門前にあるのではないのか」と。                          (吉癲ヽ陝法                                                    


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-26 09:32:34 (58 ヒット)
週報巻頭言

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」第1コリント 12章22節

脳梗塞の後遺症で介護が必要な状態になった友人のお父さんの言葉が心に引っかかっています。温厚で人望が厚かったお父さんが「迷惑をかけるようになり申し訳ない。死んでしまいたい」と家族の前で泣いたそうです。友人はお父さんが生きていてくれるだけで嬉しく幸せなのに、その男泣きして謝る姿を思うと、切なさに胸がずっとうずいていると語りました。
2016年7月26日、相模原にある障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員の26歳の青年が殺傷事件を起こしました。19人を殺害し、多くの人を負傷させた彼は「確信犯」でした。「重度の障害者は家族を不幸にしている」と言い、「日本や世界のために障害者を殺す」ことが良いことだと確信して事件を起こしたのです。彼は障害の重い人たちを「生きる意味のない命」と言い切り、実行したのです。
「家族に迷惑をかける存在になって申し訳ない。死にたい」と泣く高齢者。障害が重い人たちを「生きる意味がない命」と言い、殺害した青年。これに対し教会はどんな答えを持っているのでしょうか?
聖書は創世記1章31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と語ります。神は存在するものをすべて「よし」とされたのです。またマタイによる福音書6章には、神は、種も撒かず刈り入れもせず倉に納めもしない鳥を養い、1輪の野の花を、栄華を極めたソロモンより美しく着飾らせてくださると記されています。神は、私たちの「行為」によってではなく、「存在」そのものを、そのままで肯定してくださっているのです。
一方パウロは第1コリント12章22節で、教会を一つの体としてたとえ、「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです」と語ります。弱いところには神の力が働くからです。弱いところに心が注がれ、お互いの愛が沸き上がり、その愛と配慮により、結びつきがより強固になるからです。弱いとされるもの存在は、お互いの愛を引き出し、関わる周りの人を成長させ、本人も関わる人も含め、皆を根底から変える、新しい生き方への招きでもあるのです。                                               
                                 (篠塚薫)       


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-19 22:55:24 (78 ヒット)
週報巻頭言

「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、・・・」
(ヨハネによる福音書6章5節前半)


  今日の聖書の箇所は、有名な「5千人の共食」の物語です。イエス様が五つのパンと二匹の魚をもって5千人のお腹を満たした、という奇跡的な出来事が書かれています。たった5つのパンと2匹の魚を何倍にも増やしたイエス様の力は素晴らしい!これは神の奇跡だ!というふうに読まれてきた物語だと思います。しかし、今日はなぜイエス様がそのような奇跡を行われたのか、その理由に注目をしてみたいと思います。
 「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て・・・」(5節前半)とありますが、並行箇所であるマルコによる福音書にはこのように書かれています。「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ・・・」(マルコ6:34)。
 この「深く哀れみ」という言葉はとっても大切な言葉です。なぜならこの言葉の中に私たちに対する神様の思いが明確に示されているからです。多くの聖書で「憐れみ」と訳されているこの言葉(スプランクニゾマイ)は、ギリシア語原典を最も忠実に訳している岩波訳では「断腸の思い」と訳されています。「断腸の思い」とは、「腸(わた)が千切れるほどの深い悲しみ」という意味です。それは、昔の中国のあるお話に由来します。
晋(しん)の武将桓温(かんおん)が船で三峡(長江の三つの渓谷)を渡ったとき、従者が猿の子を捕らえて船に乗せました。母猿が連れ去られた子猿の後を追って、悲しい泣き声をたてながら、どこまでもどこまでも必死についてきました。そして、ついにその船に跳び移ることができましたが、そこで息絶えてしまいました。その腹を割いてみると、腸(わた)がズタズタに千切れていたそうです。
「憐れみ」という言葉の中には、これほどまでに深く辛い悲しい思いが込められている。それは、ただ「かわいそう」という思いを遥かに超えています。そしてそれは私たち一人一人に対する主の思いがいかに深く大きいものなのかを示しています。これが、イエス様が奇跡を行われた理由ではないでしょうか。
今日も主はこの混沌とした世界を断腸の思いで見ておられます。主よ、私たちを、その主の思いに応え、主の愛に生きる者とならせてください。             (松準)
                                   


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-12 20:37:08 (95 ヒット)
週報巻頭言

悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。(ペトロの手紙一 3:11)

ペトロの手紙が書かれた時代は、70年頃から二世紀の初頭と言われており、激しいキリスト教の迫害の時代でした。キリスト教は当時、今で言う新興宗教のようにみられていましたので、周囲の多くの人たちから激しい迫害を受けていたようです。ユダヤ教の伝統を無視して、新しい教え(イエスの教え)を説いていたわけですから、イエス様を知らない人たちにとっては、非常に受け入れがたいものでした。
 激しい迫害、抑圧、嫌がらせなどに苦しめられていたキリスト者たちに対してこの手紙の著者は、互いに同情し合い、慰め合い、助け合いなさいと励まします。どんなに理不尽な仕打ちに遭ってもそれに対して仕返しをしてはいけないと命じているのです。そして更に、迫害をしてくる相手に対して祝福を祈りなさいと命じているのです。
 もし、現実に私たちが、そのような迫害、抑圧、嫌がらせなどに苦しめられたら、その相手をゆるすことができるでしょうか。受けた痛み苦しみが大きければ大きいほど、余計に相手をゆるすことができなくなると思います。世の中には理不尽なこと、ゆるせないことがたくさんあります。相手をゆるすだけでも大変なのに、更に祝福を祈るなどということが本当にできるのでしょうか。しかし聖書は、いかなる事情があったとしてもあらゆる暴力を正当化しません。そして、手紙の著者は、詩篇34編13節から17節を引用し、それを慰めの言葉として語ります。つまり、裁きはすべて主の手の中にある、というのです。裁き(報復)の心をすべて主に委ねよ!と勧めているのです。
イエス様は、人々に裏切られ、ののしられ、辱めを受け、十字架につけられ、絶叫するほどの苦しみを味わって死なれました。しかし、イエス様は自分を十字架につけた人たちを一切恨むことなく、報復することなく、それどころか、最後の最後まで人々を愛し抜かれました。迷い出た羊を最後の最後まで探し抜かれました。イエス様のこの非暴力を貫かれた生き方こそが、平和を実現する唯一の生き方であり、道なのです。
                                    (松 準)


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