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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-03 20:23:53 (49 ヒット)
週報巻頭言

コリント人への第二の手紙は、パウロが自分自身の弱さを相当に開陳しながら、つまり切り開いて他人に見せながら、「弱さの中に働いてくださる神さま」のことを讃えている手紙です。普通ならば、わざわざ人には見せず語らない自分の弱い部分のことも、彼はあえて隠さないで触れながら、けれども主の僕として生きてきた人生には祝福が満ちていたことを証ししています。自分は弱いけれども、なんとか克服してやってきた、というような、回り回ったような「自慢話」ではありません。「弱さそのものを神が用いてくださる」という、神さまという方の「なさり方の不思議」にいつも驚かされてきた経験と実感を込めて証ししているのです。
2章14節には、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」とあります。口語訳聖書では「神は、いつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き」となっていますから、いっけん勇ましく華やかな意味合いに聞こえてきます。
けれども、常に勝利の行進をしているなどということは、実際のパウロの人生には全くと言って良いほどありませんでした。そのような「戦勝気分」「英雄気分」に浸れるような経験はほとんど無かったと言えます。11章16節以下を読めばわかるように、息つく暇の無い苦難と艱難の連続の人生でした。にもかかわらず、「主はいつもわたしたちを『キリストの勝利の行進に連ならせ』ていてくれた」というのが、パウロの自己理解であり人生理解でした。苦難の只中で、生きて顕れる生命の力があり、その香りが漂っている、と。
「どのような時もどのような場面も、結局のところそれはキリストの愛が勝利していた行進だったし、キリストの愛の足跡がついている。苦しみの道、茨の道。実にキリストご自身の道がそのような道でありながら、それは神の愛の勝利の道、神の和解の成就の道、そして復活の道であった。あの赦しの方、あの癒しの方、あの愛の方、あの低きに降られた方イエス・キリストが人生に寄り添ってくださるのであるから、私の人生が人目にどう映ろうとも、神の慰めと祝福に満ちた勝利の道なのだ。」パウロはそう証しているのです。
(吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-27 18:00:00 (63 ヒット)
週報巻頭言

エリシャは落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。(列王下2:14)

バアル礼拝を導入したイスラエル史上最悪の王のひとり、アハブとその子アハズヤに主なる神の裁きを預言し続けたエリヤに最後の日が来ました。神はあらしを起こしてエリヤを天に上げられたのです。主に遣わされるままにギルガルを出てベテルへ、エリコへ、さらにヨルダンへと向かうエリヤ。そのつど「あなたはここにとどまっていなさい」とエリシャから離れようとしますが、エリシャはどこまでもついて来ます。もうエリヤといっしょにいられないことはエリシャもわかっているのです。エリシャがヨルダン川も渡ってなおついて来るのを見て、エリヤが「あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」と水を向けると、エリシャは「あなたの霊の二つ分を」と願いました。別にエリヤの倍の霊がほしいと言うのではありません。イスラエルでは相続に際して長男だけはほかの息子たちの2倍を受けられることになっていました(申命記21:17)。つまり自分にエリヤの長子=後継者の資格を認めてほしいと言うのです。
 エリシャの願いは真剣なものでした。バアル礼拝と戦って貧しい人々の権利を守る預言者の働きは、だれかが受け継がなければなりません。しかしその願いはエリシャはもちろんエリヤの権限をも超えています。それをエリヤに願うエリシャは何か勘違いをしているようにも思えます。エリヤは「わたしが取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる」と答えます。正当にも願いの成否を神の決定にゆだねたのです。エリヤの昇天を見て、エリヤは「わが父よ、わが父よ、イスラエルの(信仰の)戦車よ、その騎兵よ」となお呼び続けますが、二度とその姿を見ることはありませんでした。
 エリシャの手には、エリヤの外とうだけが残されました。いや、エリヤの神、主のみ名を呼ぶことも残されていました。み名を呼ぶ者となったエリシャは、もはやエリヤを引き止める必要がありません。エリヤの体を探し回る必要もありません。「主のみ名を呼ぶ者は皆救われる」(ヨエル3:5)からです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-20 18:00:00 (58 ヒット)
週報巻頭言

真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 (ヨハネ16:13)

今日はペンテコステ、「聖霊降臨日」です。主イエスの十字架と復活を経験した弟子たちが、聖霊を受けて立ち上がり、福音の宣教のために進み始めた転換の日です。宣教活動を命とする教会の「誕生の出来事」だと言えるでしょう。その聖霊について思いを馳せていきたいと思います。 
 聖書(創世記)には「人は土からつくられ、神がそれに息を吹きかけた。そして人となった」と語っています。いっけん非科学的なようですが、人間にとっての事実と人間の命や人生の神秘の両方をよく言い当てています。人間の肉体は確かに「土」から、つまりさまざまな分子・物質の結合によってできている「土塊」のようなものです。それだけでは生きた生命ではありませんが、その土塊に神の息が吹きかけられていて、霊肉が整えられて「生きる存在」となります。人間は、私の存在を存在たらしめた神との深い交わりを求める霊的な動き、すなわち霊性を、肉体の中に備えられています。霊性とは、単に知識や知恵のことではありません。心、精神、情緒、感情、感覚、意思、それらをすべてを包括し、かつそれらすべてを統合するものだと言えます。いいえ肉体をも統合します。神との深い交わりに従って、「生きる」ということを統合しようとする動きのことを霊性(スピリチュアリティー)ということができます。神のみ声を聴きわけようとし、神の想いやまなざしを見つめ、神の招きに応えて生きようとする人間性のことだ、とも言い換えられるかもしれません。(自己陶酔的な忘我状態とは何の関係もありません!)
ところで、人間は常に、その霊性を育もうとする力と、損なおうとする力との双方に直面しながら生きているのだと言えます。たとえば、人が交わりに包まれたり、希望によって支えられたり、何といっても愛されている実感に結ばれているときに、その人格全体に平安を得ることができるでしょう。しかし逆に、人が計算ずくの関係や、利用主義の価値観や、物質的・肉体的なことだけを求められるつながりなどにさらされ続けてしまうと、その人格は著しく傷つけられ、不安に襲われてしまうのではないでしょうか。ですから、わたしたち人間が(その霊性にとって)「愛に支えられていること」「希望に結ばれていること」の大切さをおぼえたいのです。
神さまは、この人間の霊性を育もうとして下さっています。常に、愛と祝福と勇気を与えようとしてくださっているのです。そして、わたしたちを助け、守り、導くために、届けてくださっているものが聖霊なのです。(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-13 18:00:00 (56 ヒット)
週報巻頭言

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(第一ペトロ3:19)

ペトロの第一の手紙は、1世紀末のアジア(現在のトルコ西部)に吹き荒れた皇帝崇拝と迫害のあらしの中で、キリストの苦難を思いつつ救いの希望に堅く立つように勧めています。18節と22節は整った韻律を持ち、賛歌の引用と考えられます。キリストは人々の罪のために苦しみ、正しい方でありながら正しくない者たちのために死なれた。それはわたしたちを神のもとへ導くためであった。この方は霊によってよみがえられ、その後天に昇り、神の右にあって天使たち、諸権威、諸勢力を支配しておられる――そう歌ったものです。
 その途中に、キリストが捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されたという説明が挟まります。キリストはノアの時代に神に従わず、箱舟に乗らなかった者たちに宣教されたというのです。彼らと違って、箱舟に乗った8人は水の中を通って救われました。ちょうどそのように、バプテスマの水をくぐったキリスト者が今救われようとしています。ただし、バプテスマは肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることであることには注意しなければなりません。
 いったいノアの時代に神に従わなかった霊たちとは何でしょうか。神の子ら(天使)が人間の娘たちに巨人を生ませたので(創世記6:1–4)神が怒り、ノアの曽祖父エノクを送って断罪させたという伝承との関連が指摘されています。この「神に従わなかった者たち」のところにキリストが行かれた結果どうなったかを説明することなく、話題はすぐバプテスマの意味に移っていくため、「宣教」とは救いの告知なのか、単に彼らの断罪の確認なのか、あるいは有罪とされた天使らの前でのキリストの勝利宣言なのか意見が分かれるところですが、「彼らが……霊において生きるようになるため」(4:6)から見て救いの告知と見るのが妥当でしょう。いずれにしても、キリストが陰府においてもまた主であられ、生きている者にも死んでいる者にもひとしく裁き主であられます。わたしたちは死者と直接交渉することはできませんが、キリストを通して死者との交わりに置かれているのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-06 18:00:00 (64 ヒット)
週報巻頭言

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)

ヨハネの弟子たちに加えてファリサイ派からも警戒されていることを知って、イエスはガリラヤに向かいます。しかし最短コースで行くには途中サマリアを「通り抜けねば」なりません。もとダビデの王国の一部だったこの地の人々は、歴史的事情からユダヤ人と反目し合うようになっていました(9節参照)。イエスが疲れを覚えて井戸端に座っていると、深い渇きを抱えた女性が水をくみに来ます。正午ごろにわざわざやって来たのは人目を避けたかったからでしょう。決して人道にもとることをしているわけではないのですが。
 イエスは「水を飲ませてください」と呼びかけますが、実はみずから彼女の渇きをいやしたいのです。「生きた水」(わき水の意味もある)と聞いて女性は心をひかれますが、革のバケツも持たぬこのユダヤ人は何者だろうとなお不審そうです。イエスが言われるのは尋常な水ではありません。ただの水では、いや地上のどんなものでも、彼女の渇きをいやすことはできないのです。それができるのは神のことばだけです――渇いている人をいやすばかりか、世を潤す人に変えることさえできるのは。しかし彼女は普通の水を得る苦労で頭がいっぱいです。敵地を行くように周囲の視線を避けて毎日この井戸まで「通り抜けて」来なければならないのですから。
 いや、イエスはすべてご存じなのです。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」というひと言でそれがわかります。女性が自活できない社会に生まれ、運悪く夫が早死にしたこと。ずっと年上の男性の後添いになっては先立たれる繰り返しで、ついには正式に結婚することもできなくなったこと。そういう(当時は珍しくない)事情を、皆ご存じなのです。すべてを言い当てるイエスを預言者だと思った女性がユダヤ人とサマリア人の対立がいつか解けるのかを尋ねると、イエスは「その時が来る」と答え、ご自分が預言者以上の方――ほかならぬメシアであることを明かされます。それを聞いた彼女はあんなに避けていた町の人々を大急ぎで呼びに行きます。世を潤す人へと一歩踏み出したのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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