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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-11 18:00:00 (91 ヒット)
週報巻頭言

神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使徒4:19)

イエスの十字架と復活から間もないエルサレムでは、宣教は危険を伴いました。神のみに従いたい、見たことや聞いたことを話さないではいられないという当然の思いが通用しない時代だったのです。ペトロはただ、足の不自由な人をイエスのみ名によって立ち上がらせ、不思議がる人々にイエスのみ名の力を語っただけでした。しかし、祭司たち、神殿守衛長をはじめとするサドカイ派の人々はイエスをピラトに引き渡した張本人です。そのイエスを神がよみがえらせたということになれば、彼らの権威は地に落ち、神殿から得てきた利益も危うくなるのですから、ペトロとヨハネの宣教は不愉快だったでしょう。そのうえ信者は増えていきます。もはや一日も放置できません。彼らは民衆の目の前でふたりを逮捕します。
 一夜明けて最高法院の裁判が始まります。大祭司らはイエスの復活という本題を避けて使徒たちのよって立つ権威というからめ手から攻めようとします。ペトロはイエスのみ名の力をあかしする機会を捕らえ、大祭司らの「ああいうこと」というぼかした言いかたを「病人に対するよい行い」と言い直し、その奇跡がイエス・キリストのみ名によるものであることを明らかにし、そのイエスを十字架につけて殺したのはほかならぬあなたがた(大祭司たち)であると指摘し、詩編118:22の、家を建てる者が捨てた石が不思議にも家の土台の中でも特に大事な隅の石になったということばを引いて、大祭司が捨てたイエスを神が拾い上げて救いの礎とし、全世界の救い主となさったのだと主張します。「あの名によって話すな」と命じられても「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか、考えてください」と言ってこれを拒み、民衆の支持もあって釈放されました。自分が信じる神のみに従いたい、救いのでき事を人々に語りたい、その信仰を貫いたのです。
 日本でも、国家が神道を護持して国民を従わせ、イエス・キリストが王の王、主の主となられることが語れなくなった時代がありました。その再来をもくろむ動きには警戒が必要です。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-04 18:00:00 (84 ヒット)
週報巻頭言

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。(詩編62:2)

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と作者は歌います。今はただ神のことばを待つしかありません。神はわたしの岩、わたしの救い、とりでの塔として語ってくださるはずです。動揺する理由はありません。どういう状況の中で作者は歌っているのでしょうか。敵対する者たちが一団となって襲いかかり、壁のように倒され、石垣のように崩されそうになっているのです。欺きを計らい、口先で祝福し、腹の底でのろっているのです。無実の人を神殿に訴えて命を奪おうとしているのでしょう。11節から見ると彼らはかなりの有力者だったようです。この状況の中でできるのは沈黙して神のことばを待つことだけだ、と作者は自分に言い聞かせます。神以外に希望はないからです。さらに「神はわたしの岩、わたしの救い、とりでの塔。わたしは動揺しない」との信仰告白を繰り返し、自分の救いと栄えは神にかかっていると訴えながら神の判決を待ちます。
 9節から明るい調子に転ずるのは、無罪の判決を得たからでしょう。そのときちょうど民が祭りに集まっていたのか、後日のことなのかはわかりませんが、作者は人々に神の恵みをあかしし、どのような時にも神に信頼するように勧めます。心を注ぎだすとは、思いを余すところなく語ることです(サム上1:15など)。神に語るのであって、人の子らに語るのではありません。彼らは頼りにならず、暴力や搾取や力も生きる支えにはなりません。神に語ることにだけ実りがあります。ただ、語りつくしたとき、人は聞かねばなりません。神が語り、作者は聞いたのです――力は神のものであり、慈しみもまた神にあることを。暴力をほしいままにする者たちにも、沈黙してただ神に向かう作者にも、神は正しく報われることを。
 信仰とは、単に神の存在を信じることではありません。むしろ祈ることです。祈りを通して人は神との交わりに置かれ、隣人との関係を正されます――心を注ぎだすことを通して、しかし同時にみことばを聞くことを通して。そのためには沈黙がなければなりません。心を静めて聞くことに努めたいと思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-28 18:00:00 (94 ヒット)
週報巻頭言

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている……それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ29:11)

紀元前597年、バビロニア軍はユダ王国を打ち負かし、主立った人々をバビロンに連れ去る一方、エルサレムの王としてバビロニアに従順なゼデキヤを立てました。ユダの人々にとって、それは豊作の神を拝み、弱者を虐げてきた自分たちの罪を悔い改める機会となるはずでした。ところが、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの使者たちがエルサレムに来て、同盟してバビロニアを追い払おうと持ち掛け、預言者ハナンヤも敗戦で絶望している人々を戦争に駆り立てます。無謀な上にバビロンにいる同胞を見殺しにする計画にエレミヤは反対の声を挙げ、やっとやめさせることができました。しかしバビロンにも不穏な動きがあります。そこでエレミヤはバビロンの同胞に手紙で自制を求めるのです。
 「建てよ、植えよ」ということばは、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」(1:10)時が過ぎたことを示しています。今や人口を増やすべき時です。そのためにはバビロンの町が平和でなければなりません。だからユダの人々を捕らえているバビロンが平和で満ち足りているようにと祈るのです。戦争をあおる預言者や占い師たち(21節参照)について行ってはなりません。彼らは主に遣わされてはいないからです。でもいつまでも屈従しているのではありません。70年たったら帰れるのです。70年! 確かに先の長い話です。手紙を読んでいる人たちは「生きては帰れない」と宣告されたようなものです。しかしそこに平和があり、確かな将来があります。つまり希望があるのです――人々が主に祈り求め、主が聞いてくださる関係を神が回復させてくださるという希望が。
 昨年の日本バプテスト連盟の定期総会は、主題聖句に11節を掲げました。どこの教会も苦闘しており、連盟もまた同様です。社会を見てもひとりひとりが孤立し、好戦的な言論の中で危機が深まっています。しかし神は平和の計画を持っておられ、将来と希望を与えてくださっているとわたしたちは信じます。捕囚という暗い時代にエレミヤが信じたように、神のよい意図を信じるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-21 18:00:00 (89 ヒット)
週報巻頭言

心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。(出エジプト35:21)
 エジプトから導き出された奴隷たちには、神の導きを求めるために「臨在の幕屋」が必要でした。神はその作りかたを25–31章で詳しく指示されます。金の子牛を拝むという民のひどい背きが戒めの再授与によって修復されると、モーセは幕屋建設のための材料の提供を呼びかけました。貴金属はもちろんのこと、巻き貝やカイガラムシから取った染料を使うなどした毛糸、エジプト産の亜麻糸、アカシア材など、いずれも高価なものです。人々がエジプトを出るとき、エジプト人が好意で与えたものを使ったのでしょうか。次いでこれらの材料を用いて「心に知恵ある者」が作るべき品々が挙げられます。幕屋全体に用いられる覆い、留め金、壁板、横木、柱、台座に続いて、至聖所に置く「掟の箱」(十戒を刻んだ石の板を収めた箱で、後エルサレム神殿に納めた)とあがないの座と垂れ幕、至聖所の前でパンを供える机と祭具、燭台とその祭具、香をたく祭壇、さらに幕屋の外の庭で焼き尽くすささげ物をささげる祭壇とその祭具、庭のまん幕など、中心から周辺へ順序よく説明されていきます。
 呼びかけを聞いた共同体全体は必要なものをすべて、いや必要以上に(36:5)携えて来ました。しかもそれらをすべて「進んで」ささげたと言います。「進んで」はこの段落に2回、類似の「動かされ」「随意のささげ物」を含めると5回も使われています。奴隷の鎖から解放された人々が感謝を込めてささげることによって、臨在の幕屋は完成に向かうのです。ささげられた品々が、金、毛糸や亜麻糸や毛皮、銀や青銅、アカシア材……と繰り返されてくどく感じられるほどです。みことばは、聞いた者が実際にそれに従って初めて意味をなすのだと言うかのようです。
 この教会の会堂建築のため海を越えてやって来た南部バプテストのボランティアたちも、進んで心から奉仕を引き受けたのでしょう。わたしたちだけでは建てえなかった立派な会堂が、信仰の交わりによって与えられたことを思い起こし、今度はわたしたちがどんな奉仕に召されているかを尋ねたいと思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-14 18:00:00 (97 ヒット)
週報巻頭言

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレト12:1)

多くの年齢を重ねたコヘレトは人の世のはかなさを考え抜いた上で「光は快く、太陽を見るのは楽しい」と言い切ります。長生きは喜ばしいことです。確かに、暗い日々も多くあることでしょう。来る者は皆(むなしいと言うよりは)はかない、つかの間の存在だからです。それでも老人には老人の、若者には若者の喜びがあります。それを喜び楽しむことが、神が人に与えられた宿題なのです。「あなたの心にかなう道を、あなたの目に映るところに従って」こそ、心から楽しむことができるというコヘレトの主張は、律法が「自分の心と目の欲に従ってみだらな行いをしないように」(民15:39)と警告していることを考えれば、大胆な人間肯定と言わなければなりません。すると11:9後半も、人間存在は確かにはかないけれども、喜び楽しむに値するものであり、神の恵みを受け取ろうとしない者は裁かれる、ということのようです。若さも青春もあっという間に過ぎていくのですから。ただ、その喜びのうちにはパンを水に流して見知らぬ人に与え、できるだけ多くの人と分かち合うこと、うむことなく種をまき続けること(11:1–6)も含まれているのですが。
 12:1で神を「創造主」(ボーレー)と呼んでいるのは、穴(ボール、墓の意も)を連想させるためとも言われます。創造主が人を造られたのは、その日々を楽しませるためです――いずれ穴に葬られて終わるはずの日々を。人の最期は、日月も暗くなる世の終わりのようであり、戦乱や飢餓に苦しむ国のようであり、恐怖に満ち、栄華が過ぎ去った廃屋のようです。草花や虫は変わりもないのに、人だけが永遠の家に去らねばなりません。
 だからこそ、若い日に創造主を心に留めることは意味のあることです。矛盾と破れに満ちた人生の中に創造主の恵みを見いだすのはなかなか難しいことであり、若い人々にも労苦の多いこの時代にはなおさらそうなのですが、喜べることを喜び、楽しめることを楽しむことを心がけるなら、一日一日が決してむなしくは終わらないでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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