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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-08 22:43:10 (70 ヒット)
週報巻頭言

わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まり ます。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。 (ルツ記 1 章 16 節)
【敬老感謝礼拝に寄せて】 “白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる”箴言 16 章 31 節 日の出とともに農場で働き、日没とともに家に帰り、親子三代の家族が大きな机を囲 んで夜の時間を過ごす。そうした農夫の家族が、一年に一度「家族写真」を撮っていま した。祖父母を真ん中に、家族がぐるり囲んで写っている写真です。そのような写真が、 以前の典型的な家族写真の構図でした。やがて、工場がつくられ都市が形成されました。 この農夫たちの家族も都市へと移り住みます。合理化された工場で、父が働き、兄が働 きました。収入は安定していきました。ところが、一年に一度撮り続ける写真の構図は 明らかに変わってしまったのでした。父が真ん中、そして母と兄。子どもたちが囲み、 はしっこに祖父母が写るようになっていたといいます。 20 数年で教育を終え、40 数年生産し、65 歳で引退、あとは“余生”。戦後、復興と経 済成長期に急速につくられ、多くの日本人がそのように当てはめられてきた枠組みや価 値観は本当にそれでよかったのでしょうか。 機能性、合理性、生産性が価値観となる世界では、中心は元気に働く者であり、次に その予備軍、周辺に引退者という位置取りになってしまいます。でもそうした構図はち っとも優しくありません。温かくありません。教会はどんな「家族写真」を撮りまし ょうか。 「超高齢社会」と定義される時代を生きる以上、当然のことですが教会もまた高齢者た ちがたくさん生きている場になります。それはほんとうに豊かな風景です。「高齢者」と いう名前の人はいないので、そこにおられるのは 齢 を重ねられたお一人ひとりです。そ よわい のように人生を長く歩んだ方々がいる場には、生への慈しみと命の深みが満ちています。 キリスト教信仰の核心は「復活信仰」です。復活の福音から人生の苦楽を再解釈する 人生観です。そこでは、労苦に新しい意味が聞かれ、また語り直されます。生も死も、 喜びをも苦悩をも包み込みながら注がれる主の祝福を、子どもたちもいっしょに、その 交わりの中で味わっていきたいものです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-01 23:30:40 (56 ヒット)
週報巻頭言

く び き わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは 安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから である。 (マタイ福音書 11 章 29-30 節)
まずは、 軛 とはどのようなものかについて二種類の辞典から紹介します。 くびき ◇『新明解国語辞典』 軛(「頸木クビキ」の意)車の轅(ナガエ)の先に取り付ける横木。 牛馬の頸にあてて車を引かせる。広義では、自由な思考・行動を束縛するものの意にも 用いられる。例「圧制の軛」 ◇『聖書辞典』(新教出版社) 牛、ろばなどの首 につけて、鋤、車を引かせるために使用する木製 軛のイラスト の道具(民19.2)。頑丈な横木の下方にくぼみを作 るか、4本の堅棒を差し込み、下端を縄で止めた。 軛 を共にする二頭の牛を「軛の牛」と呼んだ。 くびき 福音書には苦しい荷車、悲しい荷車を引っ張りながら生きている人々がたくさんいて、 主イエスの前に登場しています。否、むしろ主が、重荷を負わされ失われかけている人 々のところに進んで行かれたからでしょう。その出会いを通して、目の見えない人は開 かれ、人々から遠ざけられてきた病人は交わりに復帰し、孤独で貪欲であった徴税人が 他人の為に働くようになり、38 年間寝たきりの男性は床を取りあげて歩き出します。鎖 でしばりつけられ、自分で自分を傷つけていた人物は自分を大切にできるようになり、 長年出血に苦しんできた娘の出血はおさまり、生きるために仕方なく身を売って生活し ていた女性が呪われていた人生に解放を見いだすのです。 それは主イエスが触れられたからです。「生きる」という事にずしりと伴う個々の荷車 に軛を渡し、その片方に自分の頸を突っ込むように共感されながら伴われたからです。 その時、イエスの力が一人ひとりに流れ込んだのだと思います。主イエスは「共苦」さ れる方です。主はまず「その人」と、その人が引く荷車の意味と重さと辛さを知られま す。そして「その人」を慈しまれます。「自己責任だ」と放置しない。「その重荷の責任 はいまの政治にある」と言って別の問題にもしてしまわない。その人の隣で、その人の 「軛の人」となられるのです。そうです。このわたしにもそうなのです。主イエスとわ たしとは「軛の牛」ならぬ「軛の人」の関係となったのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-25 15:53:43 (56 ヒット)
週報巻頭言

も つ ほ ぐ 今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする 必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより 先にお遣わしになったのです。 (創世記 45:5)
ヨセフが、たまらなくなって泣いています。こらえきれなくなって声を出して泣いて います。深い感動と、抑えようのない激情がヨセフの腹の底からこみ上げ、涙と嗚咽が 吹き出したのでした。 エジプトの 7 年の豊作の間、彼は続いておこる未曾有の大飢饉に備えてエジプト全土 で穀物の備蓄を指導しました。そしてその甲斐あって、エジプトの穀倉には十分な食料 が蓄えられていました。ファラオが見た夢をヨセフが解読したとおり、2 年前から前代 未聞の大飢饉が世界を襲いました。エジプト地域はもちろんのこと、アフリカ諸国から もメソポタミア諸地域からエジプトに穀物の買い出しにたくさんの人々が集まってくる ようになりました。その買い出しの群衆の中に、ヨセフは、22 年前に自分のことを売り 払い、見捨てた兄たちの顔を見つけてしまうのです。それが原因で、自分はエジプトに 奴隷として売られ、エジプトに生きるしかない運命をたどってきたのです。愛する父と 生き別れ、父や弟とのかけがえの無い時間を奪った兄たちの顔、憎んでも憎みきれない 兄たちの顔でした。 しばらくは平静を装って兄たちと対峙してきたヨセフでした。兄たちは、いったいこ の 22 年間何を考えてきたのか。どう生きてきたのか。行方不明になった自分のことをど う思ってきたのか。自分に対しておこなった非情な仕打ちを悔いているのか。わからな くて、知りたくて、探りたくて、平静の仮面の下は苦悶にゆがんでいたでしょう。心の 内に、懐かしさと怒りとがせめぎ合っていたことでしょう。しかし、とうとうヨセフは 我慢しきれず、兄弟たちの前で泣きじゃくってしまうのです。兄のユダが、「ベニヤミン の代わりに自分がここに残って奴隷になります。末っ子を放ってください。」と言うのを 聞いて、兄がこんなことを言う人になっていることを知って、ヨセフの感情の淵が決壊 したのでした。「兄さんたち、ベニヤミン。私はあなたたちの兄弟ヨセフです。父さんは まだ生きていますか。」恩讐の彼方に、新しく結ばれた家族の「結」。このようにしてイ スラエルの息子たちは、縺れてきたものを解され、それだけでなく、自分たちが結い込 もつ ほぐ まれていく神の大きな御心(歴史)の網を、知るのでした。吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-18 15:58:39 (51 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ 12:17)
本日の聖書テキストは、新約聖書の時代にあってとても重大な問題でありながら、し かしそれへの態度の如何によっては命にかかわってしまう「税金問題」をめぐる、ユダ ヤ指導者たちと主イエスのやりとりの記録です。 さて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉のシャ ープさを理解するためには、当時の民衆たちが二重・三重の税制度に苦しめられていた 事実を多少でも理解しておかねばならないと思います。ご存じのように、当時のユダヤ はローマ帝国の植民地でした。ある程度の自治が認められる代わりに、多額のあるいは 何重もの税金が民衆に科せられていました。ローマが徴収する税は、「人頭税」と「農地 税」という直接税と、「通行税」などの間接税です。人頭税は、人が定められた年齢にな ればデナリ銀貨で支払わなければならない非常に高負担の税金でした。このデナリ銀貨 には、当時のローマの皇帝ティベリウス・カイザルの肖像が刻まれており、またその周 りには「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カイザル」と彫り込まれてあ ったのです。植民地に対する露骨な優越感、思想支配、皇帝崇拝の強要でした。 さて、もう一つの税金問題に目を向けましょう。こうしたローマからの課税とは別に、 ユダヤ社会がずっと自らの共同体運営のために徴収してきた税金に「十分の一税」と「神 殿税」があり、いわば宗教的な税金が並列して存在していました。民衆がどれほどの重 税に苦しんでいたかがよくおわかりいただけると思います。 さて、イエスを嫌うユダヤ指導者たちは、この税制と民衆感情を利用すれば、イエス が窮地に立つことになる難問・難題が作れることに気づきました。「皇帝に税金を納めて 良いか悪いか。納めるべきか、納めるべきではないか」という問いかけです。イエスが 「納めて良い」と答えたなら、たちまち、民衆からそっぽを向かれてしまうだろう。逆 に「納めるな」と答えたなら、ローマの政策に異議を唱えたとして訴えてやろう。そう いう罠をしかけたのです。ところが主イエスが返した答えは「皇帝のものは皇帝に、神 のものは神に」という答えでした。ところが、この一言には、質問者たちの根底を揺さ ぶるほどの威力があったのです。なぜでしょうか・・・? 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-11 14:24:23 (64 ヒット)
週報巻頭言

「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のた めに奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。(競灰 5:18)
私たちの肉体はやわらかい。だから、ひとたび鉄の弾丸がこの肉体に撃ち込まれ、 鉄の破片がこの肉体に突き刺さり、また火炎のかたまりにこの肉体が焼かれるならば、 たちどころに私たちは、絶命する。生きてはいられない。そうだ、武器というものと 私たち人間とは、兵器というものと私たち生命体とは、共存もできなければ和解もで きないのだ。 私たちは神によって(キリストを通して)和解の恵みを受け、また和解の働きに押 し出されている。すなわち、誰とでも共に生きることができるのだという可能性に招 かれている。そして、さまざまな違いを超え、禍根を超えて、どんな人とも和解させ られるという希望を持って生きていたいと願う。しかし、この生命の肉体を貫く「武 器・兵器」とは、私たちがロボットでないかぎり、本質的に共存、和解ができないの だ。そして、核兵器は、人間が生きるために決して和解できないものの頂点に位置す るものだと言える。 私たち日本に生きる者が、8月が来るたびに「原爆が投下された事実」を指さし続 けることの意味は、人類にとって普遍的な意味と重要な役割を担っている。それは、 生命あるものが、決して和解できないもの(であるにもかかわらず、一度はこの世界 が浴びてしまったもの)、この核兵器を、生命とは和解不可能なものとしてさし示し 続けることにある。かつて、元秋葉広島市長が、平和宣言の中で語られた言葉「原爆 は廃絶されることのみに意味がある」という逆説的な真実こそが、まさに生命世界の 基本線にならなければならないのだ。そう、人間が、生命が、なぜ、決して和解でき ないものを保有し、「廃絶されることのみに意味があるもの」を温存しようとするの か。人間の精神は、人間の倫理観はいったいどうなってしまったのか。人間の祈りは、 生命世界を守るために無意味だと言うのか。これらの根本的な問いを、「ここ」から 人類に問いかけ続けなければならないのである。 この「和解できないもの」を、これほどに和解できないことがわかっているものを、 「和解できないものと」はっきり定めていく。このことは、和解のために祈り、働こ うとする者たちの基本姿勢でなければならないだろうと思う。 吉 叶


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