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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-04 15:23:32 (68 ヒット)
週報巻頭言

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、 そこから入る者が多い。」 (マタイ福音書 7:13)
「狭き門」と聞くと、普通は競争率の高い(合格率の低い)難関を突破することとか、 人生において過酷な道を選び取ることを連想してしまうのですが、主イエスの言葉が意 味していたのは「貧しい者、低い者、何も持てないで生きている者たちの歩み」という ことでした。福音書の中で特に重要と思われる「イエスの山上の説教」が、「心の貧しい 人々は幸い、悲しむ人々は幸い・・・」と語り始められ、続いて「大通りで長々と祈る 人々のようにではなく、隠れたところで祈る心の低さ」を伝え、また「野の花や空の鳥 の身軽さ」を示して語り進められた、その全体の文脈を考え合わせるとき、 「山上の説教」 の最終場面で主イエスがイメージしていた「狭い門から入る」事とは、やはり、貧しい 姿、低く小さな人としての姿を言い抜いていたと言えます。 と同時に、「山上の説教」は、その小さき者が天の神に知られており、神に支えられて いる命なのだということを語り抜いていて、この「狭き門」の話の背後にも、天に支え られていることを知る者だけが、たくさんの自分の荷物を降ろすことができることを言 い当てています。 神は、隠れたことをすべてご存じで、人にとってほんとうに必要なものが何かを知っ ている方です。ところが、この、神に支えられていることを知らない者、認めようとし ない者は、どうしても自分を大きく勘定したいがために、わざわざ表通りで祈ったり、 たくさんの持ち物を持って生きてしまうのです。つまり、そういう人は、大通りに続く 広い門からしか入れないし、狭い門をくぐれないのです。 「狭い門から入れ。」これは、とくだん「過酷な道を選べ」とか「厳しい道を選び取れ」 という言葉ではなく、別の言葉で言うならば、天の支え・神の愛を知り、天の神さまの 御心を求め「小さな自分の生活を守ってください」 「支えてください」 「赦してください」 と祈って生きることだと思います。そう、私たちが礼拝の中で毎週祈っている「主の祈 り」で生きていくことなのだと思います。 主イエスの私たちへのまなざしは慈しみに満ちています。「心配するな、小さき者よ。 あなたには神の祝福と愛とが注がれている。あなたに御国をくださるのは、父の御心な のだ」と祝福したい、それが彼の真実・真意なのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-28 10:32:26 (85 ヒット)
週報巻頭言

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたし たち救われる者には神の力です。」 (汽灰螢鵐 1:18)
−随想−人間の苦しみ、悲しみには固有のいきさつがあり、固有の痛みがある。たとえ ば「花の美しさ」などがあるのではなく「美しい花」があるというのと同様に、「人間の 苦しみ」などがあるのではなく「苦しんでいるその人」がいる、それが事実なのだ。 また無差別な大量殺傷事件が引き起こされた。殺傷事件と呼ばれるものは、もちろん どの出来事も悲痛であるが、被害者が誰かを問わない無差別殺傷事件の邪悪さは、被害 者たちが「唯一無二」の存在であるという事実から、人々を切り離してしまうところに ある。池田付属小では○名、下関では○名、秋葉原では○名、相模原では○名、川崎登 戸では○名、京アニでは○名、というふうにしか伝えられないし、人々はそれのみを記 憶してしまう。そこで殺されなければならなかった彼や彼女は誰であり、彼や彼女は、 なぜ、その時、殺されてしまわねばならなかったのか、そこにどうしても届けない。そ して時間の中で「○名が死亡した悲惨な事件」だと、事件だけが記憶されるのだ。だが、 死者には名前がある。一人ひとりに固有の名前が。もちろん固有の生があった。誰かに 愛された彼であり、誰かを愛した彼女であった。唯一無二の、名と身体と命の道のりを 持つ、その人であった。 私は、神の救いの業が「壮大・偉大な栄光の業」としてではなく、飼い葉桶や、道ば たの人々との出会いや、十字架に殺された「イエス」に顕されたというこの事実に、唯 一無二の命との繋がりを欲する神の想いをみる。まさに「花の美しさ」とか「人間の苦 しみ」といった抽象的、普遍的なものごとのためにではなく、苦しむ私、痛む私、呻い ている私に、神ご自身を接続なさろうとしたのだと。「低くなられた」とは、「身分を下 げられた」という以前に、固有の人間につながったということ。それこそが神の愚かさ、 否、愚かな神の真実の愛なのだ。十字架で殺されるなどという愚かしすぎる神の子の姿、 しかし、イエス・キリストがそこで繋がろうとし、そこで握りしめていたものこそが、 愚かな私、苦悩しながら命を歩む、唯一無二の私なのだ。 この世の制度・しくみ、潮流は、益々、私たちを無名にしていこうとする。しかし、 私の名と私の罪と私の痛みを知る主は、私の傍らで宣言してくださる。「私はあなたの名 を知っている。あなたをぜんぶ知っている。私はあなたを愛し、あなたを赦す」と。叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-21 17:14:59 (78 ヒット)
週報巻頭言

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」 (ルカ福音書 17:17-18)
去る 6 月 28 日、「ハンセン病家族訴訟」に対して熊本地裁が国の責任を認めた判決に 対して、被告の政府は控訴を断念した。「断念したのが立派」なのでなく、この熊本地裁 の判決こそが合理的であり「まっとう」なものだったにすぎない。原告らの提訴の主旨 は、「らい予防法」という医学的根拠が無くただ差別と偏見に基づいて実施されてきた悪 法を永年(プロミンという特効薬により劇的に回復する事実が明確になった 1940 年台以 降も延々と)放置してきた国家・政府の「無為」によって、ハンセン病患者のみならず、 その家族も多大な苦悩と社会的排除に見舞われてきた事実を問い、国家としての賠償を 求めたものである。国家という「法制度」(立法府も行政府も含めた法治国家そのもの) が、もし「わたしに責任はない」と開き直ったなら、どのような法律を造っても、また それを放置しても「誰にも責任は無い」ということになるのだから、「国家・政府の責任 を広く認める」という判決は、至極当然のことだと思う。そして、「国の責任」というこ とは、私たち「歴史と社会を構成する者たち全体の責任」ということが明確になったと いうことだ。だから、「控訴断念を決意した」首相が為すべきことは、「異例のことだが 私が温情深い決断をした」と胸を張ることではなく、まずは元患者の家族を、提訴しな ければならないところまで放置してきたことと、原告たちの提訴に対して争う姿勢を見 せてきたこれまでの構えを恥じ、一切の留保なしに謝罪をすべきなのである。かく言う この私も、「社会の残酷」に加担してきた一人として悔い改める他はない。 家族から「その患者」が出たことが知られると一族が村八分の目に遭う。本人は、死 亡したことにされ隔離施設で名前を変えてひっそり生きる。生殖機能を断絶させる手術 を施される。「一般」社会との交流は遮断され、完治しているにもかかわらず社会復帰は 永劫閉ざされている。生まれてきた事を呪われ、人間としての尊厳がすべて奪われ、つ ながりを消される、そこまでの差別を浴びせられてきた人たちが、私たちの歩んできた この歴史・この社会の中に、同時代的にあったことを記憶せねばならない。そして、彼 ら彼女らの、また家族らの「回復/恢復」の課題は、日本社会の「人間性」の恢復への問 いかけなのだということを心に刻みたい。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-14 17:27:59 (122 ヒット)
週報巻頭言

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 (イザヤ書 6 章 8 節)
本日の聖書テキスト−イザヤ書 6 章−は、年老いてからのイザヤが、預言者として の召命が自分にぶつかって来たときの出来事を回顧して記したものです。自分がふさ わしいものだったわけではない。むしろ、神に直面してしまったときの自分は、あま りにも罪深く、この唇は神の言(ことば)を取り次ぐには、汚れているということを 彼自身は自覚していました。けれども、神の接近は圧倒的で、自分の汚れた唇を、燃 える炭火で焼き取るかのような赦しと変革の力で清められてしまい、赦されてしまい、 もはや「わたしがここにおります」「わたしをおつかわしください」と応えるしかな い強い招き、強い背中押しだったことを告白しています。 自分の思いや計画ではなく、もう神さまからとしか言いようのない召しによって歩 まされてしまう、それを私たちは<召命>と呼びます。召す命令、命を召す、命への 召し。漢字からどのように連想しても当てはまります。そしてどう言い換えても厳し さを伴うものです。イザヤは、20 歳の時にこの召命に撃たれます。彼が「いつまで ですか」と尋ねたところ、それは「いつまででもだ」というような返事が返ってきま す。つまりとことんまで、人間の歴史のただ中で、神の言を語り伝える、時が良くて も悪くても、いいえ時がいつまでも悪いなら悪いからこそ語り続ける、そのような召 しに突き込まれてしまいます。 並大抵ではない耐久力と精神力を問われるそのような召しに応える用意が、若干 20 歳のイザヤにあったとは思えません。ただ、その時その時、神の言を預かり、それを 人びとの往来する街角や会堂で語り続けること。語るために観察し、洞察し、悩み、 もだえ神に聴き、また語ろうとしていくこと。たとえ聞かれなくても、たとえ笑われ ても・・・。神の言などより確実に人生を助けてくれそうなものにみんなが飛びついて いく中で、神への信頼、神の戒めに生きることを呼びかけ続ける。そんな「今日」の 葛藤の積み重ね、「今日」の姿勢の積み重ねが、振り返ってみると、彼の預言者とし ての生涯を導き、つくっていたのでした。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-07 11:59:39 (120 ヒット)
週報巻頭言

彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前 に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを 受けて、彼は命を取られた。(関連聖書イザヤ 53:7-8)
ローマのユダヤ総督は、普通はカイザリアにある総督の屋敷に住んでいます。けれ ども、祭りの前になると、エルサレム神殿近くの総督官邸に、かなりの数の兵士たち を伴って滞在していたようです。もしユダヤ人たちが興奮し、暴動や反乱、あるいは 万が一にも「民衆蜂起」が起きたときには、すぐに鎮圧に乗り出せるようにです。 世界を武力で征服していたローマ帝国は、その一方で常に各地の反乱に神経を遣っ ていました。特に、民族的・宗教的自負心の強いユダヤの地は、何がきっかけで暴動 が始まるかわからない、地下マグマがいつ吹き出るかわからない、そんな不気味な国 でした。「このユダヤを大過なく治める」。それが総督の主眼でした。そしてとりわけ 狡猾だったと言われるビラトの願いは、自分の任期中に何事も起こさずに全うし、栄 転することでした。ローマ皇帝の機嫌を伺い、自身は皇帝の権威をしっかり保持しな がら、他方ではユダヤ人たちの自尊心もある程度満たしてやる。一に威嚇、二に駆け 引き。忖度とおもねり、脅しと気遣い。それがピラトの政治の全てでした。 まだ明け方であるにもかかわらず、ユダヤの指導層が、ひとりの男を引っ立てて官 邸に押しかけてきました。「やっかいなことが起こり始めた」と、ピラトは直感しま す。「深入りしたくない」と思ったようです。それで「いったい、自分のところにま で連れてこなければならないのはなぜだ」「自分たちのことは自分たちで裁けるだろ う」と追い払おうとします。しかしユダヤの指導者たちは、あたかも決定済みのよう に言うのです。「あなたのところに来たのは、この男を、死刑にしてもらわねばなら ないからだ」 「死刑にできるのはあなただけの権限なんだから」と突きつけるのです。 そうです。もう彼らは決めてしまっているのです。「死刑だ」と。そして「もし死刑 にしなければ、ここで何が起こっても知りませんよ」と、暗黙の圧力をかけてきたの でした。興奮し、激高してピラトに迫りよる祭司長たち。あわてふためき困惑を隠せ ないピラト。この真ん中に、主イエスは静かに黙して立っていたのでした。 「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように」。 吉 叶


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