はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-07-01 12:39:01 (68 ヒット)
週報巻頭言

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」(創世記 12:1)

創世記12章からは、それまでの記述が、人類の生や罪の所在などについていわば根源的に語る「原初史」であるのに対して、アブラムという具体的な登場人物の人生にフォーカスをあてる(これがイスラエル史になっていくわけですが)記述となっていきます。ただし、一人の人にフォーカスをあてると言っても具体的な個人記録のようなものではありません。このアブラムという人が生きたのは、今から4000年ほど前のことですし、このアブラム(アブラハム)のことがこのようにまとめられたのは今から3000年ほど前のことです。ですから、私たちは、4000年前に生きた人のことを3000年前の人々がどのような意味合いをもって記憶し、記録したかという記述に向き合っているわけです。そこには、「アブラムという人の人生はどういう人生だったか」ということについての明確な主題があります。そしてその主題は何かと申しますと、「彼は出発した」ということなのです。
 ところが、アブラムはなぜ出発したのか、何の目的で出発をしたのか、という「出発の背景」について事細かく書かれているわけではありません。また、彼アブラムは「やがて何を成し遂げたのか」ということについても記されてはいないのです。ただ、後代の人々が、彼を記憶していく時の主眼としたのは、「彼は呼び声を聞いて出発した」「それが信仰だった」ということだけなのです。
 しかし、そこにこそ聖書が主題としている人間の生き方の原型を見るような思いがします。旧約聖書・新約聖書のあらゆる登場人物たちは、「呼び出す声」を聞いて生きた人たちだということがわかります。アブラムに始まり、モーセも、エレミヤも、イザヤもそうです。イエスの弟子たちも、もちろんパウロもそうです。皆、それまで包まれてきた生活、家族、その他のつながりの中で「呼び声」を聞いている。自分の願望の声ではない。その証拠に、その声に従った者たちは試練と艱難を余儀なくされていきます。ところが、そこでこそ神の御心(福音)が証しされます。そうです。福音宣教は、すべて出発した人々によってのみ証しされています。呼び出す声、切り出す声に応えて、出発するような出来事を通してのみ福音は明らかにされていくのです。 
(吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-24 13:17:49 (53 ヒット)
週報巻頭言

「神との格闘」(創世記 32:23‐33)

ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創世記 32:25-27)

主はヤコブに「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。私はあなたと共にいる」(31:3)と言われました。ヤコブは主の言葉に従い、家族と共に自分の故郷に向かって出発します。彼にとって最も心配なのは兄エサウのことです。父を騙し、自分が受けるはずであった長子の祝福を奪い去っていった弟を、兄は許すはずがないと思っていたからです。兄は今も自分を恨み、殺そうと待っているのではないかと思うと恐ろしくて仕方がありません。ヤコブは自分の身を守るために様々な準備をします。しかし、どれだけやっても彼の心に平安はありません。
ヤコブ一行は、ヤボクの川の渡し場まで来ました。その夜、ヤコブは家族全員を連れてヤボクの渡しを渡り、なぜか自分一人引き返し後に残りました。あれこれと自分を守るための策略を思い巡らし、最後に残った彼はそこで不思議な体験をします。暗闇の中誰かがヤコブに襲い掛かり格闘を仕掛けたのです。それはその時彼が一番恐れていたエサウではなく、神ご自身だったのです。神は「エサウのことを考え、思い悩む前に、まず私を見なさい」というのです。エサウとの和解はその後で良いのです。
 神は自分の努力を止めようとしないヤコブの腿を打ち関節を外されました。ヤコブはもう動くことも何もできません。しかし、彼は去っていこうとする神を離しません。神に打たれたことにより自分の弱さを知り、ただ必死に神にしがみつくことしかできなくなったヤコブ。弱さを知るということは腿を打たれ足が不自由になってしまったことではなく、自分の力だけに頼る生き方が間違いであることを知ることなのです。
 私たちにもそれぞれ「ヤボクの渡しでの神との格闘」があるのではないでしょうか?私たちにとって、弱さを知るということは時に、痛みや苦しみをともなうこともあります。しかし、そんなときこそ神に祝福を求めて、神と向き合い、神と格闘すべきです!真剣にしがみついて「祝福してくださるまでは離しません」と本気で求めましょう。その時、神は私たちの弱さを克服させ、新しい人生へと導き、私たちと共に歩んでくださるのです。                       (松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-17 18:19:27 (72 ヒット)
週報巻頭言

ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川 のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。
(列王記上 17:3‐4)

「エリヤ」という名前は「主は私の神」という意味です。それは正に主を神とせず、バアルを神としていたアハブ王をはじめイスラエルの人々のところに遣わされるべく名前です。バアルとは、カナン地方の天候を司る神として人々から崇められていました。人々は、農作物が育ちたくさん収穫ができるようにと、人が造った神バアルに雨を降らせるよう乞い願うのです。
エリヤは王に対し、その間違いを指摘し、露や雨を支配しているのはバアルではなく主なる神である!と宣言します。エリヤがこれほどまでに堂々としかも激しく時の権力に対して間違いを指摘したのですから、彼の身に危険が迫るのは当然のことです。アハブ王は、国の繁栄と自分の権威を維持するためにもエリヤに自分に都合が悪くなるような預言はしてほしくなかったのです。ですから最終的には実力行使に出てエリヤを捕まえて牢に監禁して強制的に彼の心と言葉を変えようしたのです。
神はエリヤをアハブ王の手から、そして、エリヤの預言どおり起こった干ばつから守り逃れさせるため、何もない場所(ケリトの川のほとり)に身を隠すように命じます。いくら神の命令でも何もない場所に行くのは不安です。それでもエリヤは主が言われたように直ちに行動しました。そして、一人になって不安で心細い状況に置かれ自分の無力さを知ることを通して、頼るべきは主のみであることを教えられるのです。
私たちも自分の無力さを知るとき、素直に神に助けを求めることができるのではないでしょうか。しかし、自分の周りに便利な物や頼れる親切な人がいると、時に私たちはそれらにばかり頼ってしまって、本来最初に頼るべきはずの神の存在を忘れてしまう。それが人間の弱さなのです。
私たちもエリヤのように、何もない荒野へ行け、と神から命じられることがあるかも知れません。それは神が私たちに、本当に頼るべきは誰なのかを知らせるためなのです。                         (松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-10 20:29:57 (71 ヒット)
週報巻頭言

パウロは、かつて主イエスのまなざしと彼の人間観に、そのいのちを刺し貫かれた経験をもっています。彼は、エリート的人間観で武装し、どんなに人を迫害し、苦しめても、自分の立場からすればそれは正しいことなのだと言い切れる独善的で暴力的な人間でした。自分で自分を正しいと確認して生きる生き方は、人間を争いに向かわせるのでしょう。
 パウロは、主イエスの愛に出会いました。その愛に出会ったときに、それまで自分が誇っていた自分の正しさが全部醜いものにしか見えなくなってしまったのです。「人間の義、それは全て醜い」と彼は言い切って生きていきます。「自分はいままで義・正しさを追い求めてきた。しかし、今、本当の義、神の義に私は出会った。それが『イエス・キリスト』そのものなのだ。このイエス・キリストという義は、理論や体系ではない。だから、安息日に何をしてはだめ、一週間に何回断食をしなければだめ、という義ではない。この新しい神の義は、人間の命の中に働く義、人間のいのちのあらゆる場面で、その悲しみを受け止め、その弱さを受け入れ、その罪を赦し、おそれを支える、そういう義だ。この新しい義こそが、イエス・キリストのいのちであり、神の愛だ」とパウロは語ります。
 この新しい「愛という義」は、ふつうに言う「正しさ」ならば、努めたり心がけたり、修得したり体得していくものですけれど、「愛」ですから、それはもう受け取るもの、受け止めさえすればよいものなのです。
人間のことをギリシャ語でアンスローポスといいます。上を(天を)仰ぎ見るものという意味ですが、上の窓をあけて、全ての器のように天を開いて、注がれる神の愛を受け止めるためにそこにあればよい。私たちという人間そのものの出来具合など、ほとんど、まったくどうでもよい。備前でも有田でも古伊万里でもなんでもない「土の器」です。しかし、私たちは、この宝(神の義・神の愛・生きる喜び)を土の器の中に持っている、そのはかりしれない力は神のものであって、私たちから出たものでないことがあらわれるためなのです。
(吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-06-03 20:23:53 (74 ヒット)
週報巻頭言

コリント人への第二の手紙は、パウロが自分自身の弱さを相当に開陳しながら、つまり切り開いて他人に見せながら、「弱さの中に働いてくださる神さま」のことを讃えている手紙です。普通ならば、わざわざ人には見せず語らない自分の弱い部分のことも、彼はあえて隠さないで触れながら、けれども主の僕として生きてきた人生には祝福が満ちていたことを証ししています。自分は弱いけれども、なんとか克服してやってきた、というような、回り回ったような「自慢話」ではありません。「弱さそのものを神が用いてくださる」という、神さまという方の「なさり方の不思議」にいつも驚かされてきた経験と実感を込めて証ししているのです。
2章14節には、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」とあります。口語訳聖書では「神は、いつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き」となっていますから、いっけん勇ましく華やかな意味合いに聞こえてきます。
けれども、常に勝利の行進をしているなどということは、実際のパウロの人生には全くと言って良いほどありませんでした。そのような「戦勝気分」「英雄気分」に浸れるような経験はほとんど無かったと言えます。11章16節以下を読めばわかるように、息つく暇の無い苦難と艱難の連続の人生でした。にもかかわらず、「主はいつもわたしたちを『キリストの勝利の行進に連ならせ』ていてくれた」というのが、パウロの自己理解であり人生理解でした。苦難の只中で、生きて顕れる生命の力があり、その香りが漂っている、と。
「どのような時もどのような場面も、結局のところそれはキリストの愛が勝利していた行進だったし、キリストの愛の足跡がついている。苦しみの道、茨の道。実にキリストご自身の道がそのような道でありながら、それは神の愛の勝利の道、神の和解の成就の道、そして復活の道であった。あの赦しの方、あの癒しの方、あの愛の方、あの低きに降られた方イエス・キリストが人生に寄り添ってくださるのであるから、私の人生が人目にどう映ろうとも、神の慰めと祝福に満ちた勝利の道なのだ。」パウロはそう証しているのです。
(吉癲ヽ陝


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 11 »
市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム