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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-01-06 17:03:28 (85 ヒット)
週報巻頭言

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ 4:17)

新年、明けましておめでとうございます。皆さまの上に、主の導きとお守りをお祈りいたします。さて、新年礼拝にあたって、今朝は、怒りが沸点に達したような時代のガリラヤから主イエスが宣教を始められた記事を読んで参ります。
 人々の中から、怒りというものが湧き出てしまう時代があります。怒りというものが同時代を生きる人々を呑み込んでいってしまうような状況があります。正しいとされてきたことが踏みつけられてしまうような、もう怒り叫ぶことしか正しい者のなすすべがないような地点において、主イエスは時を見定め、福音宣教を始められたのです。
 ほんとうに暗い時代、正しい人が、実直な人が苦しむ時代に、イエス・キリストは、愛と慰めと赦しを届け、「神があなたと共にいる」「神はあなたに近づいた」「あなたはもうこれ以上、自分を傷つけてはいけない」「あなたはもうこれ以上自分を失ってはならない」「神の愛は近づいた、神の国は近づいた。あなたの心を、あなたを愛する生ける神に向けて生きて生きなさい。」と呼びかけ、励ましていったのでした。その声は、いま、わたしたちに向けられています。
 キリスト者で詩人の八木重吉さんの短い詩を二篇紹介します。彼が、自分自身の中に宿る「怒り」を見つめた詩です。
●なにゆえぞ わがこころに いかりといふもののわく        
   いかるときは みづからのにくたいすら        
   屍のごとくに こんこんとくちてゆくなり       
●自らを怒り 他人(ひと)を怒り また 他人を怒っては 自らを怒る
   かくて わたしは つくる日無く 寂しい
 しかし、また八木重吉さんは、そうした「怒り」に満ちた自分にキリストが宿る新しさを詩に書いています。
●きりすと われによみがえれば よみがえりにあたいするもの
すべていのちをふきかえしゆくなり
うらぶれはてしわれなりしかど あたいなき すぎこしかたにはあらじとおもう
(協力牧師 吉癲ヽ陝法                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-30 20:33:32 (54 ヒット)
週報巻頭言

                           
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
(マタイ 5:3)
僕は学生時代に語学を勉強し、今は通訳として働いています。言葉の成り立ち、というものに自分が興味を惹かれることが多いのは、おそらくそのような経緯があるのでしょう。先日もボーっとあることを考えていました。・・・『社会人』ってなんだろう?
ある辞書ではこのように書かれています。「社会人とは、実社会で働いている人。 社会の構成員としての個人。」これではあまりに曖昧で、現実味のない説明とも言えるかもしれません。ただ、よく考えると一つの焦点が見えてきます。それは「社会とは誰によって構成され、動かされているか」ということです。
聖書が書かれた当時のユダヤ社会で、律法は大きな役割を持っていました。ユダヤ民族のアイデンティティが脅かされる歴史が繰り返されるなかで、彼らは自分たちを肯定してくれる何かを律法に求めたのでしょうか。それがやがて「神さまは律法を守るものだけを愛される」という思考へ変質していったのかもしれません。どのような経緯があったにせよ、イェス様の時代には律法理解を司る人たちが社会を動かしていました。
イェス様が足しげく訪ね、教えに多く登場させたのは、その律法から外れた人たちでした。社会を動かす力などない、そもそも社会の構成員としてさえ数えられていない人たち、自分の価値を証明する術を持たない人たちを取り上げて「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのもの」と福音を告げ知らせたのです(マタイ5章)。
それは苦しんでいる人を慰めるための、ただの作り話ではありません。イェス様は「神の国は、あなたがたのただ中にある」と言い切ります(ルカ17章)。それは目には見えないもう一つの現実であり、もう一つの実社会です。
わたしには、それが見えるでしょうか。あなたには、それが見えるでしょうか。
                                (原口 建)                                                                                                                                      


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-24 20:16:37 (62 ヒット)
週報巻頭言

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ 1:23)

クリスマスの出来事は、とてもシンプルなメッセージを私たちに贈ってくれています。それは、神が人として生まれたということです。それは神さまが人間と全く同じ経験をこの地上でされるために生まれたということなのです。神さまが、一人の人間として、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、泣いたり、苦しんだり、私もみなさんも生きていて体験していく、そのような体験をなさるということです。そして何と言っても、人生にどうしてもつきものの不条理や無情といった経験の中に神さまが生まれ、一緒に生きていてくださるということです。そうです。神さまが共にいてくださるということなのです。
 人間の世界にはどうしようもない欲望の力や残酷の力が働いています。ともすると、人間を生きにくくしてしまったり、生きづらくさせてしまったりします。でも、そのような力が取り巻いているところにイエス・キリストは生まれました。なぜなら、人間が生きることが嫌になってしまうような力や、歪んだ関係を、神さまはそのままにできないからです。希望をもてなくなってしまう人々のつらさを、神さまは一緒に分かちあいたいと願っておられるからです。
 「神さまなんだから、もともとそんな辛い出来事そのものをつくらなければ良かったじゃないか。」そう思う方もいらっしゃると思います。でも、神さまの思い通りに動かす世界、人間が神さまの思うままに支配されてしまう世界ならば、もともと、人間は人間ではなく、わたしはわたしではありません。人間が人間であるということは、わたしがわたしとして思うことができ、生きる道を選び取ることができるということです。でもそこにはどうしても、わたしの罪が起こり、欲望が力を持ち、間違いが起こり、そのため辛い目に会ったり会わせたりして、生きにくくなっていきます。それが巨大な力になって、構造のようになって人間をがんじがらめにします。欲望の力や残酷の力がすごく強くて、人間が人間らしさを失ってしまう悲劇も起こります。人間は素晴らしいのですが、人間はほんとうに罪深く、また苦しいのです。
 でも、わたしは神さまから切り離されているのではありません。神さまは、わたしが、人間として生きる経験の中に共にいてくださり、わたしを知っていてくださるし、わたしが背負わされる苦しみの中にも神さまに繋がる道があることを教えてくださるのです。わたしと共に重荷を負いながら、わたしを立ち起こしてくださりながら、神さまは共に歩んでいてくださるのです。その徴がイエス・キリスト。インマヌエルという愛の誕生の出来事なのです。                             (吉癲ヽ陝法                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-16 20:13:53 (56 ヒット)
週報巻頭言

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1:14)

本日は「待降節第3主日」です。教会では第3アドベントとも呼ばれますが、この意味は「神様が天から降りて来られるのを、心を躍らせながら待つとき」ということです。教会では、12月2日からクリスマスが始まりました。毎週、1本ずつのローソクを灯して主のご降誕の記念日を大切に待ちます。
 誰でも赤ちゃんの誕生は大変嬉しい出来事で、心からお祝いするに違いありません。特に当時のユダヤ地方の民は、ローマ帝国の圧政に苦しみ、新しい王様すなわち神様の誕生を待望していたのです。必ずや私たちの苦しみから解放してくれる、最高権力を持つ“正しく・逞(たくま)しい”王様の出現を待っていました。イエス様の誕生によって、民衆は“King of Kings ! Lord of Lords ! ”(王のなかの「王」、主のなかの「主」)と歓喜の叫び声をあげました。しかし、その同じ民衆がイエス様を十字架につけ殺してしまったのです。
 さて、本当のクリスマスの意味とは、一体何なのでしょうか。何のためにイエス様はお生まれになられたのでしょうか。イエス様は殺されるために誕生なさったのでしょうか?
本日のみ言から、「クリスマスとは?」について共に神様の真意を尋ねたいと願っています。わたしたちの「クリスマス」だけではなく、隣人との関わりにおいて、多くの方々と共に、喜びと感謝を持ちつつ、「神様の愛」を分かち合えたら幸いです。
アドベントの意味は、「キリスト待降節」のみならず「キリストの再臨待望」をも示す言葉です。私たち一人ひとりのために「救い主」としてお生まれになられ、永く「神様の愛」に基づく忍耐の末に、神様の“そのとき”に「再臨の主」として再びこの世に来て下さるのです。主イエス様の再臨をも待望しつつ、日々の教会生活を過ごしてまいりましょう。  (鳥飼 好男)                                                                                                                                      


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-12-02 20:10:35 (48 ヒット)
週報巻頭言

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
(ルカ1:45)

アドベント(待降節)を迎えました。まさしく「主の御降誕を待つ」ように過ごす季節です。この「待つ」という態度・姿勢は、人間にとって極めて重要な姿ではないかと思います。聖書に記されている人間(登場人物)たちが、どの時代においてもどの場面においても必要とされ、神から期待されてきた力が「待つ力」ではなかったか、とさえ思ってしまうことがあります。出エジプトを経験していくイスラエルがそうです。預言者たちの闘いがそうです。
そしてまた、聖書が描写する人間の罪性には「待てない姿」が多分に含まれています。(シナイ山麓での金の牛祭りしかり、バビロン捕囚の際のニセ預言しかり、12弟子たちの失敗談しかり、十字架につけよと叫ぶ群衆しかり、です)。
 いま、チキンラーメンがブームですが、カップ麺の3分が待てないことがよくあります。なにしろ熱いのが好きなので、ぬるくなるのががまんできない。もうえぇやろ!と、ふたをひっぺがしてたぐりこむと「もうちょっとやったなぁ」ということが。そんなことぐらいならまあ良いですが、「待てない」ことで交通事故が起こり、「待てない」ことで人間関係がぎくしゃくし、「待てない」ことでパニック騒ぎや暴動が起こり、「待てない」ことによって民族紛争が引き起こされていくことさえあることを考えると、「待つ」という態度は人間にとって大切であり、かつ困難なものであるように思えます。
待つ・・・。それには、忍耐力が必要です。その忍耐を支えるものとして、信頼や信仰が必要です。待つ相手や事柄への優しさが必要です。待つ必要の無いものと待つべきものとを峻別する洞察力も必要です。求める力、しかも表面的な欠乏感ではなく、求め自体を問う「問い」が必要です。待降節・・・。それは、神さまへの信頼を豊かに高めていく時です。「救い主」を迎えるのですから、救いって何だろう、人間の幸福って何だろう、といつもより丁寧に見つめていきたいと思うのです。今の時代が、どのような叫び声に満ちているのだろう、どこで、誰が、どんな救いを求めているのだろう、と、新聞を読みながら、ニュースを見ながら、聖書の御言葉と重ね合わせて見つめてみること。そうした自分なりの「思い巡らし」をもって過ごすのが「待降節」なのかな、と考えたりしています。
 (吉癲ヽ陝法                                                                                                                                     


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