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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-29 18:00:00 (83 ヒット)
週報巻頭言

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。 (ヨハネ3:30)

イエスは2:13以来ユダヤにとどまっています。ユダヤのどこに来たかは書いてありませんが、人々にバプテスマを授けていたのです。その時点ではヨハネと同じ悔い改めのバプテスマだったのでしょう。ヨハネもサレムに近いアイノン(サマリア最北部か)でバプテスマを授けていました。ふたりが同時に宣教していた時期があるという描きかたによって、同じ時期に同じようにバプテスマをのべ伝えてみたらイエスのほうがより多くの信者を獲得したと語ることにより、イエスがヨハネよりも優れた方であることを強く印象づけています。
 25節の「あるユダヤ人」は難解で、次節以下からはむしろ、清め(バプテスマ)を巡ってヨハネの弟子たちが「イエスの弟子たちに」しかけた論争のように見えます。バプテスマの権威は師にこそ与えられたと確信するヨハネの弟子たちにとって、イエスが同じことをして師以上の信者を集めているのは不愉快な驚きでした。そんなイエスのためにヨハネがあかししたのですからなおさらです。しかし、ヨハネの態度はきっぱりしています。天から与えられていないもの(メシアの地位)をわがものにしてはなりません。ヨハネは自分がずっとそう言ってきたことをあなたがたも知っているはずだと28節で言い、花婿とその友人のたとえを語ります。メシアが来られたことこそがヨハネの喜びです。たとい自分の役目がこれで終わるとしても。イエスも自分の栄光を求めません。自分のことばではなく父のことばを語り(7:16)、自分の意志ではなく父の意志を満たす(5:30)だけなのです。
 ただひとり天から下って来た方が見たこと聞いたことをあかしなさるのに、かつてはみんながあの人のほうへ行ったのに、ヨハネが福音書を書いている1世紀末にはだれもそのあかしを受け入れなくなっていました。ただ、受け入れて命にあずかる者もいます。こうして全人類が二つに分かれるのは、神の意図ではないかもしれませんが、1世紀末の教会が現に経験したことでした。ただ、人は神の意図を完全には知りえないことも認めなければなりません。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-22 18:00:00 (101 ヒット)
週報巻頭言

はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。 (ヨハネ3:3)

エルサレムでイエスが行うしるしを見て信じた人のひとり、ファリサイ派の議員でイスラエルの教師であるニコデモが夜イエスを訪れます。「夜」は周囲の視線への恐れと共に彼の心のやみを象徴しています。しるしを見て信じた彼はもう一歩踏み出す必要があるのです。イエスは「人は上から(アノーテン)、つまり神によって(1:13)生まれなければ神の国を見ることはできない」と言って助け船を出すのですが、ニコデモが初めから(アノーテンにはその意味もある)人生をやり直せと言われたと勘違いし、年寄りが母の胎に入り直すことはできませんよと言うので、霊から生まれることが必要なのだともう一度説き聞かせるのですが、ニコデモは理解できません。イスラエルの教師にしてこれがわからず、新生という地上の経験を語っても信じないなら、天上のことを話したところでどうして信じるでしょう。
 しかし、天上のことを語らないわけにはいきません。新生という経験の背後にある真の意味を説き明かせるのは「人の子」イエスただひとりだからです。モーセが掲げた青銅のへびを見上げてイスラエルの人々が命を得た(民21:9)ように、イエスも十字架に上げられて人々に永遠の命を得させなければなりません。そのために独り子を世に与えるところに神の愛があります。それは世を裁くためではなく救うためですが、結果として裁きも生じないわけにはいかないと記者は言います。み子を前にして信じない者は、やみの中に住まう結果となるのです。知っていることを語り、見たことをあかししては拒絶される経験の繰り返しがそう言わせるのでしょう。これが最終判決だと言っているわけでもないでしょうが、ともかくも光に対する態度によって人の生は明るくも暗くもなります。
 人は自分で自分を救うことはできません。だから神は救い主を送ってくださいました。しかし、有無を言わさず天国に引きずり込むおつもりはなく、救い主が差し伸べられる手を捕らえるか否かは、依然としてひとりひとりに任されていると記者は考えているようです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-15 18:00:00 (116 ヒット)
週報巻頭言

イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2:25)

「しるしを見て」であるとしても、イエスのみ名を信じるのはよいことです。その人には神の子となる資格が与えられます(1:12)。弟子たちもカナのぶどう酒のしるしを見て信じました(2:11)。次の段落に登場するニコデモもそうです(3:2)。しかし、しるしを見て信じるだけでよいかという問題が残ります。しるしを見たら信じるという姿勢は、しるしを見なければ信じないということでもあるでしょうから。4:48でそのことを指摘された役人は、イエスの約束のことばを信じることによって息子のいやしというしるしを経験します。人は、しるしに基づく信仰からみことばへの信仰に進んでいかねばなりません。
 しかし、人の信仰は結局は中途半端であるようです。24節は「イエスご自身は彼らを信用されなかった」と、前節の「信じた」と同じ語を用いて衝撃的なことを語ります。人が神を信じるのであって、神が人を信じるのではありません。神が人をご存じなのであって、人が神を知り尽くすことはできません。この関係が逆転することは決してないのです。イエスが人間についてだれかにあかししてもらうまでもなく、その人の心の中にあるものをご存じだったことはマルコ2:8などにも証言されています。よい人か悪い人かを見分けられるということでしょうか。「彼らを信用されなかった」と言っているところを見ると、むしろその人の思いがどのように悪いかをご存じだったという意味のようです。
 人間の心の中に何があるでしょうか。カルバンは容赦ない厳しさでこう述べています。「アダムから生まれた私たちはみな、神を知らず認めず、腐敗し、堕落し、すべての善を奪われている。心はおよそすべての悪に傾き、よこしまな欲望に満ち、その上、神に対してかたくなである。もし私たちが外見はいくらかでも善良な様子をすることがたまたまあっても、魂の内面は自らの汚れに侵され、ねじくれた背徳の中に沈んでいるのである」(キリスト教綱要初版)。ここに救いがあります。神は人の悪を承知の上で、まさにそのゆえにあわれみ、召されるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-08 18:00:00 (119 ヒット)
週報巻頭言

このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。(ヨハネ2:16)

過ぎ越しの祭り間近の神殿でイエスが犠牲動物の販売や両替を妨害したことは、他の三つの福音書にも出ています。そこではそのあとすぐ逮捕・処刑されることになっており、そのほうが史実に近いかもしれません。いずれにしても、大量の動物を「すべて」神殿から追い出す(どこに?)一方、両替人たちの机も倒すといったことがはたしてイエスひとりでできたのか、疑問が残ります。実際にはごく小規模の象徴的な行為だったと見るほうがよいでしょう。15節の「むち」が3世紀の2種の写本断片で「むちのようなもの」とされているのもその推測を強めます。ひもで作ったむちで羊飼いや牛飼いが家畜を追うまねをして退去を宣告したという程度のことかもしれないし、机を倒された両替人も2, 3人に過ぎないのかもしれません。
 イエスが何をしたのかは今となってはわからない点が多いとしても、そこに含まれていた意味は明らかです。神殿は「わたしの父の家」です。イスラエルの人々にとって、神が共に住んでくださることは大変な恵みだったはずです。しかし彼らはその恵みを無にして、そこを商売の拠点にしました。例えば100人分の神殿税を肖像のついてない神殿で使える硬貨に両替すると、4デナリオンあまりの手数料が取れたのです。神殿のこのありさまの中でイエスの行為が持っていた意味は、やがてローマ軍による神殿破壊を通してだれの目にも明らかになります。
 神殿はイエスを断罪してローマ総督ピラトに引き渡しました。しかし実は神殿のほうがイエスに断罪されていたのです。それでも、霊と真理をもって礼拝する者たちはイエスにつながり続けました。イエスはご自分の体を神殿とされたのに続いて、わたしたちをも聖霊の宿る神殿としてくださったのでした(20:22, 第一コリント6:19)。人間は本来神の像であり(創世記1:27)、神に宿っていただくのにもっともふさわしい存在です。残念なことに罪によって損なわれてしまいましたが、その回復を今も心の深みで待ち続けているのです。わたしたちの体を主の家として整えてくださるイエスに感謝しましょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-01 18:00:00 (108 ヒット)
週報巻頭言

急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。(マタイ28:7)

イエスが逮捕されて十字架につけられたのは、紀元30年ごろのある春の金曜日でした。葬りの場所を見届けた女性たちは、その日から数えて三日目、週の初めの日(日曜日)の夜明けに墓を訪れましたが、天使が降って入り口の石をわきへ転がすと、イエスの遺体はすでになくなっていました。弟子たちが遺体を盗み出してイエスがよみがえったとデマを流さないように番兵が見張っていましたが、死人のようになって抵抗することができません。ここには弟子たちが遺体を盗み出したのだという反対派の言い分が反映しています。墓が空だったことは認めているのが興味深いところですが、イエスのよみがえりを客観的に証明できないことを示してもいます。女性たちが復活の最初の証人として選ばれたことも、女性が裁判の証人となる資格を認められなかったことを考えれば、意味深いことです。
 天使は女性たちの恐れを解き、「彼はここにはおられない」と告げます。イエスはかねて予告しておられたとおり(16:21ほか)よみがえられたのです。彼女らは墓の中を確かめた上でそのことを弟子たちに告げなければなりません。そしてイエスが先にガリラヤに行っておられ、そこでお会いできることも。
 次いで、恐れと大きな喜びと共に弟子たちのところへ走って行く彼女らにイエスご自身が現れ、「喜べ」(新共同訳「おはよう」)とあいさつされます。彼女らの喜びをよしとされたのです。足を抱くのはひれ伏すのと同じく神の人に対する敬意の表現(王下4:27参照)です。イエスもまた彼女らの恐れを解き、「兄弟たち」に伝言されます。くもの子を散らすように逃げ去った弟子たちは今や「兄弟たち」とみなされ、よみがえられたイエスにお会いすることを許されるのです。
 よみがえられたイエスが弟子たちを招かれるとき、そこにわたしたちも含まれています。イエスを信じる者は、イエスがよみがえって自分たちと共に――どこから見ても頼りない自分たちと共に――おられるという、どこから見ても確かな約束に自分も招かれていることを認め、その約束から生きる者です。 (高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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