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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-01 17:25:55 (155 ヒット)
週報巻頭言

 昨年11月3日、ちょうど1年前にあたりますが、臨時総会で執事選挙がおなわれました日の夕方、当時の現職執事と選ばれた新執事と牧師とが一同に会して夕食会をいたしました。その際、2020年度以降、どのような宣教姿勢と方針をたててこれから歩んで行くかについて大いに語り合わせていただきました。それらを文書化し、さらに協議して文言を整えていったのが2020年度の活動方針と計画案にまとめられています。
 夕食会の中で盛り上がったのは、永年希望されてきた礼拝堂のフローリング化、老朽化し衛生面でも課題のある絨毯をはがしてフローリングにすること。これを具体的なプランにしていくべきではないか。来年度は「クリスマスを新しい礼拝堂で捧げよう」、2020年は東京オリンピックも開催されるので、ネーミングもフロリンピックなんてどうか。「うわぁ、すてき。でもできるのかなぁ」わいわいと語り合いました。でも、総会に提案していこうということになりました。同時並行で、数年かけて検討してきた、教会学校を礼拝後に移動し、クラスの交わりと対話を強めていく案、そしてあらためて市川八幡教会の中長期のビジョンを語り合う一泊キャンプの実施、この三つを2020年度の三本柱にして歩んで行く計画案を総会に提案し、それが決議されていきました。
 方針案に流れる主たる感性は、ゞ飢颪教える、教会が伝える、教会が出て行くという教会中心の目線をあらためて、社会で懸命に生きている人々、そこで培われているリソースからもっと学び、またこの世に合って社会的に周辺化させられているいわゆる社会的マイノリティーの人たちが安心して集まれる場となれるように、そしてわたしたちも含めてこの同時代を生きる人々が、フラットに出会い、解放されていくための仲間になっていける、そのような場をつくっていこう、ということにありました。2019年度に、礼拝堂やホール、牧師室などの境目を遮ってきた扉にガラスを入れて見通しをよくし、市川八幡ひらかれプロジェクトを続けていこう。それは建物施設のことだけではなく、わたしたちの群れがもっともっと時代や社会に開かれた存在になるために、考え続けていこうということでした。そのために礼拝堂もまた、やがて地域社会の人々がなにがしかのホールとして用いていただけるようになればいい、その一歩としてフローリング化に取り組もう、ということにもなったのでした。
 年度末から思わぬ新コロナウィルスショックにみまわれ、残念ながら、4月からスタートするはずであった新しい体制での教会学校は、いまなお延期を余儀なくされており、また9月初旬に実施予定であった一泊キャンプもできませんでした。けれども、動きをにぶらされているこうした状況の中に、たとえあったとしても「フーリング化工事」は計画を曲げないで取り組もう。そのことを確認し、予定どおり着工し、今日の感謝礼拝を迎えることができました。ですから、この礼拝堂のリニューアルには、「教会がもっと開かれた場所になるためにどうするんだ」という宿題かついています。明るく、響きのよくなった教会に、誰が来て、どんな声を響かせていくのですか、という問いが含まれています。
 今日は、そのことを改めて心に留めていきたいと思います。
 神さまは、わたしたちに必要なものを賜ります。わたしたちは賜りますが、それを私物化してはなりません。賜り物を捧げます。賜り物をまた捧げる。いただいたものは、送りだす。等価価値を交換していくという対価経済ではなく、わたしたちは恵みを常に送りだす循環経済でいきていきます。それはやがてまたわたしたちに思わぬ賜り物として、恵みとして戻ってきます。そのことを信じて、わたしたちはここに集まり、ここで祈りと賛美の家をつくり、また恵みに感謝し、捧げ物をささげ、遣わされていく。この礼拝堂をわたしたちの人生の共通の通過点としながら、それぞれが循環するような生き方をしていきたいと思います。

 巡礼の誘いを受けて喜んでいるこの詩人は、エルサレムに行くということがどんなに嬉しく、また心躍ることであるかを言い表しています。エルサレム巡礼、そして城壁の中で過ごす礼拝と交わりの数日は、日ごろ散らされて生活しているイスラエルの人々にとって、慰めと励ましに満ちた体験となりました。
 エルサレム巡礼は、人々にとっていったい何に気づかせ、どのような嬉しい実感をもたらしたのでしょうか。その第一のことは、エルサレムの城門の中に入ると、「神はわがやぐら、わが避けどころ」ということが実感できるという喜びでした。南北に分断されて、あるいは諸国に散らされて生きている人々の日々の暮らしにとって、「櫓(やぐら)」や「砦(とりで)」はまったく無縁のものでした。日々、拠りどころの見当たらない心細さに囲まれて生きているのです。やっとの事で実現したエルサレム巡礼。城門をくぐったときの感動はひとしおであったことでしょう。「神はわが避けどころ。わが高きやぐら」。この実感が、巡礼を終えて再び散らされていく人々の心の支えとなっていったことでしょう。櫓や砦を持たず、裸一貫で生活を切り開いていくしかない「地の民」らは、しかし、その心に城壁を築き、神の守りを信じて歩んでいったことでしょう。
「エルサレムよ、われらの足はあなたの門の内に立っている。」
 この詩は、城門の中にいる、いないにはかかわらず、わたしたちはどこにいたとしても主の守りの中にいるのだ、という思いなのです。
 市川八幡教会の基本指針は「隔ての壁を除く」歩みをしようということですが、心の内に神の守り(護り)の御手を信じて生きることと、他人との隔ての壁を取り除くことは、決して矛盾することではなく、むしろ響き合っていくものではないでしょうか。
 そうです。城壁の中に入った人々の「嬉しさ」のもう一つの実感は、多くの人々と繋がり、結ばれているという事実、「きょうだいしまい」あるいは「仲間たち」の発見ということだったのだと思います。
 日ごろはどこにも行けず、限られた区域の中で、限られたほんのわずかな人々と過ごす日常を生きています。そこから来て、そこに戻っていきます。けれどもエルサレムで出会いは起こります。他者の人生と出会い、自分以外の人々の暮らしに触れます。自分のつながりの裾野が広がり、視野も広がります。自分のささやかな日常につながる仲間たちの存在、手にするわずかなパンの背後にあるものを想います。神を共に礼拝することを通して、戻っていく自分の小さなエリアの中で唱える祈りが、つなかりの裾野を持ったものに変えられ、平和の祈りが生まれていくのです。
 この詩は、エルサレムとシャロームが対語のように響き合いながら閉じられていきます。
 エルサレム、それは「平和の基」という意味です。実際のエルサレムは争いにまみれています。しかし、主がイエス・キリストの十字架の苦しみで真の意味を刻み込んだエルサレムこそが、平和の基です。このキリストのまなざしにとらえられた多くの人々の命を、わたしたちは発見しながら、できれば結び合わされながら、平和を祈る祈りを捧げて生きて参りましょう。結び合い、平和を祈る家になるために、どうかこの教会が、この礼拝堂が豊かに用いられますように。アーメン


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-25 17:38:08 (136 ヒット)
週報巻頭言

 一緒に並んでいる仲間たちの中で、自分が朝一番に雇われたとき、この労働者はどんなに嬉しかったことでしょうか。仕事にありついたのです。そして、今日は日当をもらうことができるのです。心からほっとしたのでした。
 日雇い労働者たちは、毎朝大変厳しい競争にさらされます。朝、求人が集まる寄せ場と呼ばれるところに出向いて待ち、その日の日雇い労働の求人を待つのです。そして、「手配師」とか「人夫出し」と呼ばれる仲介人が差し出す仕事内容と条件とに折り合いをつけて、現場に向かうのです。昨日仕事にありつけたからといって、今日も仕事があるとは限らないのです。朝、仕事が決まるまでは、緊張と不安とでいっぱいです。「明暗を分ける」という言い方がありますが、朝、仕事にありついた人たちは満面の笑顔です。一方、仕事にあぶれた人たちは、ほんとうにがっくりと肩を落として、どこか途方に暮れたようになります。そして、今日一日をどう過ごすか、明日からどうなるのか、という不安に呑み込まれてしまいます。まさに明暗が分かれるのです。それが朝の寄せ場の風景です。
 そんな中にあって、朝一番に雇われたこの男は、その朝、その時、どんなに嬉しく、どんなに喜んだことでしょうか。良い仕事、良い人夫出し、良い雇い主に出会った、と、嬉しく感じ、「よし、今日は一日、ばりばりやるぞ」と張り切ったに違いありません。

 けれども、現場で働いているうち、この労働者にとって気になることが起こり始めました。午前中に一度、そして正午ごろに一度、三時ごろに一度、そして夕方になってまた一度、と、現場に労働者がやってくるのです。「妙だな」と感じました。「どういうことだ」と不思議に思いました。なんだか、雇用主に対して腹が立ってきました。「こんなことなら、最初から雇えばいいじゃないか。」と思ったのでした。そう思い始めると全てに腹が立ってきました。遅れてきた労働者たちを見て、「自分が朝からならしてやった仕事のうえで、ちんたらやりやがって」「今頃、涼しくなってから、なに、のこのことやってきてやがる。」そう思ったかもしれません。でも、思い直すことにしました。自分で自分を納得させようともしたのです。「まあ、当然、それだけ賃金に差がでるんだから、良しとしよう。あんな連中、いくらにもなりゃしねえだろうよ」・・・、そう信じて。
 仕事が終わりました。並んで日当を受け取ります。自分の前に、後から来た連中が並んでいます。「おっ、連中はいくらもらうんだろうか」こっそり見ています。すると、1デナリもらってるじゃないですか。カチンときました。「冗談じゃねえよ」と。でも自分を励まします。「ということは、俺たちはもっと弾んでくれるってことか」と。
 ところが信じられないことになりました。自分に手渡されたのも1デナリだったからです。これには、ぶち切れました。「そんな道理があるか」。「そんな馬鹿なことがあるか」。彼は、即刻、主人にくってかかります。「朝一番からここで働いた俺たちと、昼めし時とか、おやつ時とか、終わる頃になってやって来た連中とが、何で同じ日当なんだ!!」。
 おおよそ、彼がぶち切れてしまった感情は理解できます。彼がそう文句を言いたくなるのはかなり「もっともだ」と思えます。どう見ても「つじつま」が合わないように思えます。でも、合わないはずの「つじつま」が、この主人の一言の前には、合っているのです。そして、この主人の言い分は明快です。
「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしはこの最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」(13節)
 この言葉の前に、彼は立ち尽くすしかありませんでした。彼は、今朝、約束をした、あの恵みの瞬間に、たち戻されてしまうのでした。
 
 朝一番に雇われた男は、実にラッキーな男でした。仕事を取り付けた瞬間、「立ちんぼ」をしている他の誰よりも弾む笑顔を見せることができました。日雇い労働者にとって、仕事がつながるというのは、生活がつながり、いのちがつながることです。彼は、その朝、他の誰よりも「つながった」という「幸運」を感じました。けれども、働いているうちに、彼は自分が幸運だとは思えなくなっていきました。自分が後から来た連中より「不運だ」と思えるようになりました。朝、持っていた笑顔とやる気は、夕方には、不満と怒りに変貌していました。彼の心の中は、「俺は一日働いた。」「俺が一日働いたんだ。」という強い自負と、「それなのになんだ」という激しい怒りが合わさって、悔しさが固まりのようになっているのです。日暮れを迎え、今、彼の心の中からは、忘れてはならなかったはずのいくつもの大事な事柄が吹っ飛んでしまっています。大切なものが、消え去ってしまい、忘れ去られてしまっているのです。それはどんなことでしょうか。
 第一に、今日の朝、自分は「雇われる」「雇われた」という恵みに預かったということをです。そしてそれはとても「嬉しかった」はずだった。「ありがたかった」はずだったということをです。
 二つめのこと、それは、自分は今朝、この「一日の仕事」を聞かされて、そして1デナリで働くことを良しとしたし、その日当に感謝もしたし、楽しみに働いてもいたのではなかったか、ということです。
 三つ目のこと、これも大切なことです。それは、明日の朝になれば、再び自分は寄せ場に「立ちんぼ」をしなければならず、明日の朝も確実に自分が雇われるかどうかはわからないのだ、ということをです。
 しかし、今、彼の心は、「自分は一日働いた。」「自分が働いたのだ」でいっぱいです。自分が恵まれて雇われたことと、明日はまた明日で、この恵みに預かれなければ、働くことさえできない自分なのだということを忘れています。そして残念なことに、「一日よく働いた」という事実が、どうにも、自分の喜びにはならず、不満と怒りの種になってしまっているのです。「よく働き、よくがんばり、よくやった」。人間のその素晴らしい労働・労力が、なぜか喜びにならない。だとすれば、それはとても残念なことです。
「朝一番に!」「朝一番から!」 思えば、自分に注がれた抜群の恵みなのに、その同じ恵みが、後から遅れて来た誰かに注がれているのを知ると、喜びは不満に変わり、感謝が怒りに変わる・・・。明日の朝になれば、緊張と不安を抱えて、再び声をかけてもらうのを待つしかない自分であるという事実が、どこかに吹っ飛んでしまい、「今の不満」に理を探し、「今の怒り」に筋を通そうとする、そうした倒錯は、わたしたちの中にも、しょっちゅう起こっていることがらではないでしょうか。そのような「恵みの忘却」は、私たちの中にも起こり続けているのではないでしょうか。

「それとも、わたしの気前のよさを、ねたむのか」(15節)。 主人は彼に向かって、そう言います。この男の、あたかも正当な言い分の中にうごめいている「ねたみ」を、主人は感じ取っているのです。
「ねたみ」は、人間関係にとってはもちろんのこと、今日の人間世界にとって深刻な影をもたらしている人間感情の一つであろうと思いますが、そうした「ねたみ」とは、今日、自分が憐れみと恵みを受けてここに存在していることを忘れ、また、くる朝ごとに招かれて生きているという素朴な事実から離れ、「自分の力」「自分の業」をことさらに強調したり、絶対化したりするところに生まれるものなのかもしれませんね。自分の正しさ、自分を少しでも高く見積もりたいと思う気持ちと「ねたみ」とは、とても深い関係にあるのです。
 そして、もしかしたら、理が通っているということで安心してきた自分たちの言葉や行動の中にも、こうした「ねたみ」の感情や「優越意識」が渦巻いていることが多分にあるのではないか、そのことを改めて省みてみたいと思わされています。そうしないと、「ねたみ」に裏打ちされた感情は、反発となり、怒りとなり、敵意となり、争いへと人間通しを回していくのではないでしょうか。「自分の正しさ、他人のだらしなさ。」「自国の正しさ、他国の問題性。」そこに、れっきとした優劣、善悪の決着をつけなければならない、と怒りに身もだえている、今日の世界は、そこに一つの根を持つようにして、混乱を来しているとは言えないでしょうか。

「この最後のものにもあなたと同様に払ってやりたいのだ」(14節)と心を配る、この主人に例えながらイエス様があらわしてくださっている神さまの心につながっていたいと思います。私たちも、そして誰もが、神さまの目には、すべてが憐れむべきものとして映り、それでいて、すべてが尊く、大切に映されているのではないでしょうか。災害で被災した人たち、新コロナに罹患して闘病する人々のいのちが何より慈しまれており、でも、同時に、同様に、私たちのいのちと生活もとても大切にしてくださっています。今、この、同じ時にです。私たち元気なものも、今、ぺしゃんこになっていて助けを必要としている人も、実のところは、くる朝ごとに、いのちに招かれ、くる朝ごとに、恵みをいただいて生きている、等しい仲間なのではないでしょうか。そのことを忘れると、「自分たちが働いた」という意識とその事実から、妙なものが生まれ始めるのではないでしょうか。
 今日、こうして礼拝を捧げ、一緒に労することができて、良い一日としましょう。きっと豊かな一日となるでしょう。そして、また、明日を迎えることでしょう。今日の充実が、しかし、明日の充実につながるかどうかはわからないでしょう。明日、もしかしたら、今日、こんなに晴れ晴れと過ごすことができたのに、一転して、何らかの重荷に押しつぶされそうになり、あるいは問題に直面するのかもしれません。けれども、私たちの主は、夕方になってもなお、わたしたちのところに、わたしたちを探しに、繰り返し来てくださることでしょう。「あなたたちも、ぶどう園に行きなさい」。「わたしはあなたたちに、一日働いたひとたちと同様に払ってやりたいのだから。」


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-18 16:17:50 (157 ヒット)
週報巻頭言

 おはようございます。しばらく旧約聖書から聞いてきましたので、今日はイエス様の風景を見つめたいと思います。また秋が深まる季節であり、収穫豊かな時でありますので、収穫に因んだ黙想をしてみたいと思い、本日のテキストを選ばせていただきました。ごいっしょにイエス様の眼差しに触れていきたいと思います。

 イエス様は、自分のもとに集まってくる群衆を見られて「飼い主のない羊」のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれました。そして弟子たちにおっしゃったのです「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。
「収穫は多いが、働き人が少ない」。
 この言葉は普通どのような場面で語られる言葉でしょうか。見わたす限りに穀物がたわわに実り穂を垂れている、それなのに農夫がいない時、そんな時の言葉です。あるいは、漁に出た。すると鰯の大群に出会った。こんな大群は見たことがない。それなのに今日は漁師の数が少ない。そういう時の言葉です。明らかに収穫が多いと見て取れる時の言葉なのです。それなら、とても話は簡単です。
 しかしこの時、主イエス様が見ていたものは全く逆で、「飼う者の無い羊のように弱り果てて、倒れている者さえいる群衆の姿」だったのです。
 いったい「収穫」とは何のことだったのでしょうか。イエス様の目に映った「収穫」とは、私たちが往々にして考えてしまう、すぐ目に映る、見ればすぐわかるような「景気のよい出来事」ではないのです。人間で言うならば、元気な人、即戦力として使えそうな「人材」が溢れているというような状況のことではなかったのです。むしろその逆であって、もはや抜き差しならないような苦悩を背負い込み、あるいは不正や偽りに喘ぎ、貧しさにがんじがらめにされ、生きにくさ、生き苦しさを抱え込み、癒しを、助けを、一縷の希望を必要としている弱り果てた人々だったのです。そうコイノス(汚れ)を身に帯びているからと蔑まれていた人々でした。その人々がこんなにもたくさん集まっている様子を見つめながら、主は深くあわれまれ、この人々の癒されること、この人々が交わりに加えられること、この人々が教えられていくこと、この人々が死に呑み込まれないで信じて生きるものとなることのために、それを伝え、それに関わる働き人の必要を感じられたのです。そして、コイノニア、そう交わりの必要をとても強く感じられたのです。そしてイエス様は12弟子を呼び寄せられ、立てていかれたのです。
 イエス様のこの眼差し、この言葉から、私たち教会の働きをはっきりと受け取っていなければなりません。「収穫」とは、自分自身を満たすことができる何ものかのことではなく、自分自身を届け、捧げるべき何ものかのことなのだ、ということです。そしてその収穫は多いのだと。
 イエス様は、「不毛」と呼ばれるところに意味といのちを吹き込もうとされています。さまよい倒れるいのちに、喜びと「めあて」とを注ごうとされています。

 私たちの生きてきた日本社会は、伝道が難しい国だ、そして今は伝道が難しい時代だとずっと言われて来ました。それは普通の感覚だと「収穫の少ない時代だ」という言葉で言い換えられてしまいそうなことなのですが、イエス様の眼差しは別のことを語っていると思います。これほど、人々が侮られ、貧しく放置されている時代があるだろうか。これほど、人々が疲れている時代があるだろうか。こんなにも多くの人々が自ら命を絶っている社会があるだろうか。これほど放射能だウィルスだと、見えない脅威に脅かされ人間同士が疑心暗鬼にされている時代があるだろうか。
 イエス様は、心を憐れみの涙でいっぱいにされて語られたのだと思います。「収穫は多い」と。それは悲しみと慈しみ、共苦と断腸の言葉なのです。「だから収穫の主に願って、働き手を送ってもらいなさい。」そう「助けたい」「支えたい」「守りたい」という神の想い、そこに収穫の意味があり、収穫の主・神様の願いがあるのです。
 私たちは、私たちの人間的な思いで、人々を集めたり、自ら集まったりするのではなく、収穫の主である神さまのみこころをよくわきまえていたいと思います。ですから、私たち教会のこれからの「人材」としての働き手を望むのではなく、私たちの生きるこの同時代の地続きの社会で苦悩している人々の救いにたずさわるものとしての働き手を望み、願い、自らそこに加わって歩んでいきたい、そのことを祈られねばならないのだと思います。
 そもそも、私たち自身が、主の眼差しの中で、打ちひしがれ弱っているものとして捉えられた一人一人なのです。しかし、主のまなざしには、大切な「働き手」としても捉えられていたのです。私たちは、イエスさまと共に収穫を見つめる「見つめ手」とされ、働き人を更に加えてくださるようにと願う「願い手」とされているのです。

 戦後、この日本社会に改めて蒔かれたキリスト教の種は、芽を出し育ちながら次第に伝道の使命を帯びて行きました。しかし、その時、つまり「伝道」と語る時に、常に「手にしたい・身につけたい」と思ってしまったのは発信器の方でした。こちらにある素晴らしい教えを伝える「発信力」、どうすれば力強く、広く発信できるか、良い発信器としての教会の成長を願いました。そしていま、教会の発信力が弱くなったとか、発信しても聞いてもらえない時代になった、伝道が難しい時代だと嘆いています。問題の理解の仕方が実は転倒していたのです。私たちが身につけなければならなかったのは、発信器ではなく受信器の方ではなかったのでしょうか。問題は、発信するこちらのための「働き手」なのでなく、生きるのに苦悩している群衆のための「働き手」なのであり、それらの人々の痛みや苦しみを聴き、理解し、いっしょに困り果てながらも希望を探し合って行こうとする受信器としての教会の姿ではなかったでしょうか。こちらに既に解決のための答えがあって、それを発信しなければと考えるのではなく、人々の痛みの中にこそ癒やしの窓口があり、人々の渇きの中にこそまた主イエスが下さる潤いの意味がある。それを知らされていく。受信する教会、教えられる教会。知らされ、学び、癒やされていく教会。そのために集められ、そのために交わっていく教会をもっとイメージすべきではなかったでしょうか。

 集められた12弟子は、みな無名で弱き人々でした。この12弟子は、誰一人として「他の誰かではいけない」というほどの人たちではありませんでした。ペテロでなくてはならないことはなく、またヤコブでなければならないという、「特待生」的な選びではありませんでした。けれども、彼らは主の憐れみの中に捉えられ、確かに、ペテロとして愛され、ヤコブとして祝福されたのです。それは、これらの一人一人が、みな憐れみの中に捉えられながら、働き手となっていく、収穫の主の不思議な招きと「すなどり」の業の中に置かれたということなのです。弟子達はせっかく集められながらも、誤解を繰り返し、たくさん失敗もしました。でもその誤解を通して、主が見つめられていた「収穫」の意味を理解していくことになります。最初は、エルサレムに行ってイエス様が王様になったら自分たちは大臣になるぐらいのことを「人生の収穫」だと勘違いしていた彼らも、後に人生に苦しむ人々に自分を注ぎだし、「金銀は私には無い。しかし私にあるものをあげよう。主イエスの名によって立ち上がりなさい」と語る者とされていきました。人間にとっての価値、人生の収穫というものが転換させられた姿で生きる人々となります。この、彼らの「収穫の主に働き人を願う祈りに」聖霊は応えてくださり、日々多くの人々を集めてくださったというのです。それが使徒言行録の証言です。
 12弟子が、選ばれたとき、彼らは十分な使徒たちではありませんでした。しかし、いやだからこそ、やがて主の目に映る収穫に存分にたずさわることのできる可能性に満たされていたのです。私たち市川八幡教会も、こうして集められていながら、今なお、収穫の意味をはき違え、働き手として胸の張ることの恥ずかしいものでありますが、しかし、収穫の可能性は常に私たちに託されています。私たちは、まぎれもなく、収穫の主に呼び寄せられた一人ひとりなのです。
 私たちが、その収穫を得るためにはどうしたらよいでしょうか。イエス様の眼差しを私たちのものにしていくこと。そのことを祈り求めることしかないのだと思います。
 この時代の中で、イエス様が何を見て収穫と感じておられるか。イエスさまが収穫のために誰のところにどのようになさろうとしているのか。そのことを真剣に祈り求めるものでありたいと思います。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-11 13:16:06 (344 ヒット)
週報巻頭言

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
(コヘ3:11)
「コヘレト」には招集者(人々を集めて語り聞かせる者)という意味もあれば、収集者(古
今東西のさまざまな知恵を集める者)という意味もあります。研究者であり教育者です。
本文を読むと、コヘレト自身は人生をどっぷりと生きた「長老」的な存在であり、彼が
語る相手は若者たちであると感じられる箇所が多々あります。たとえば「青春の日々に
こそ、お前の創造主に心を留めよ」と呼びかけるところなどです。ただし、「青春」とは
若者の特権・属性というわけではありません。あえて定義するならば、青春とは「無垢
なまでに、ものごとの意味を問うこと。そのようながむしゃらな生き様を見せるとき」
だということができます。それを考えることで自分が得をするとかしないとか、そんな
ことは度外視して、「本質や真実を知りたい」「理由を知りたい」と自分の内側から湧い
てくる渇望に素直に(苦悩しながらも)従う姿のことだと言えます。ですから、人生を懸
命に探究しようとしている人たちを「聞き手」と理解してかまわないと思います。
そうした青春むき出しの聞き手たちに対して、コヘレトは、かなりニヒルなことを語
りかけていきます。「空の空、いっさいは空である。」などと水をかけるようなことを。
懸命に探求すること、納得を求めて追及すること。それは実に大切な姿です。簡単に
達観したりしないで「おかしい! 」「どうしてなんだ!」と義憤をおぼえ懸命に道理や幸福
への道筋を掴み取ろうとする誠実な姿です。コヘレトは、その姿を決して冷ややかに見
てはいません。が、人生の事実を隠すこともしません。すなわち、人間にはどうにもな
らない出来事が起き、承服しかねる状態が迫ることや、どんなに学習し準備し企図して
も、願ったように事柄を持ち運ぶことが必ずしもできないこと、などをです。
すべての物事には時というものがある。人間には操れない「時にまつわる秘密」がど
うしようもなくある。それが人間の実存です。人間の実存は、自分の過去と未来にだけ
挟まれているのではなく、他者との出会い、神の意志(としか言えないもの)という秘密
を含んでいるのです。そのような「時の秘密」に包まれていることを知りながら、しか
し安易に老成してしまうのでもなく、今という時を青春の日々として生きること。そし
て、青春の日々にこそ自らの創造主と出会うこと。秘密の前で謙遜であり現実の前に誠
実である、そんな人間の生き様をコヘレトは微笑ましく見ているのです。【吉盂陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-04 10:56:15 (224 ヒット)
週報巻頭言

これがあなたの子孫に与えるとわたしが誓った土地である。わたしはあなたがそれ
を自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない。
(申命記34:4)
1968 年4 月4 日、アメリカ公民権運動(黒人解放運動)の指導者の一人、M.L.キング牧
師は一発の銃弾に倒れた。39 歳になったばかりであった。その前夜、テネシー州メンフ
ィスの教会で語った説教が、結局、キング牧師の最後のメッセージとなった。もちろん
それは、イスラエルの出エジプトを率いて来、いよいよ約束の地・カナンを目前にして、
自分自身の進入を神から禁じられたモーセが、ピスガ山の頂から約束の地を眺望する場
面と自分自身とを重ねてなされた説教であることは言うまでもない。そのメンフィスで
の説教の最終部分を下記に紹介したい。
「メンフィスに着いたら、私が狙われているとか、私を狙う計画があるとか聞かされた。心を病んだ
白人兄弟たちは、私をどうしようというのだろう。いや、私自身、自分の身の上に何が起きるのかは
分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことはもう気に
ならない。私は山の頂に登ってきたからだ。だからもう気にならない。たしかに私も人並みに長生きを
したい。長生きにはそれなりの意味がある。でも今の私には重要なことではない。今はただただ神
の意志を体現したいだけの気持ちで一杯だ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂きから約束の
地が見えた。私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。でも知ってほしい。私
たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。だから私は今うれしい。私はどんなことにも
心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだ
から。」(1968.4.3.メンフィス、チャールズ・メイソン記念大聖堂)
信仰による眺望。それは希望の景色、解放の景色を仰ぎ見ることである。信仰者に大
切な作業とは、今日見ている風景を希望の眺望と結び合わせ、約束のもとで今日の自分(の
事実)を再解釈する(受けとめ直す)ことではなかろうか。そのために信仰者は山頂に登る。
山頂とは、神が見せようとする世界を眺める「視座」。たとえば、それはモーセにとって
のホレブ山やピスガ山であり、イエスにとってはゴルゴタの丘であり、弟子たちにとっ
てはガリラヤの山である。眺望する視座、それは目の前の生の厳しさを見つめながら神
の国の祝福から目を離さなかったイエスであり、イエスを復活させた神の御心である。
だから、私たちは、現実という地面に足を取られながらも山に登ることがゆるされてお
り、霧の中に閉ざされながらも眺望することを遮られることはないのだ。吉盂


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市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
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