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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-05-28 18:00:00 (170 ヒット)
週報巻頭言

もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。(ガラテヤ5:2)

「罪の奴隷であった人間がイエス・キリストの信仰を通して自由にされ、神の子、相続人とされたことを聞いてきました。それなのに、ガラテヤの人々はこの貴重な自由を投げ捨てて律法の奴隷になろうとしています。割礼を受けるか受けないかは、律法を行うことで神に自分を認めさせるかイエス・キリストが示された神の恵みに身をゆだねるか、人の業による救いか神による救いかの選択を意味します。この二つの道に中間はありません。割礼を選ぶことはすなわちキリストを選ばないことなのです。律法全体を行って一つのまちがいも犯さなければ、救いの希望もあるでしょう。パウロは最初その道を取りましたが、高慢と差別に陥っている自分に絶望するしかなくなりました。そのときキリストの大きな恵みを知り、百八十度歩みを転換したのです。二つの道に中間はありません。聖霊にあって信仰に基づく希望、すなわち義の希望を待ち望めとパウロは勧めます。割礼の有無ではなく、愛を通して作用する信仰にこそ救いの力がある――このことばで2:15以下の長い議論が結ばれます。
 ガラテヤの人々がキリストの信仰に頼る生きかたを捨て、割礼に頼ろうとするようになったのはなぜでしょうか。邪魔をした連中がいたからです。わずかなパン種がパン生地全体を発酵させて除酵祭に使えないものにしてしまうように、律法が信仰かというたった一つのことが教会全体をキリストにふさわしくないものにしてしまうのですから、堅く立たなければなりません。そして彼らはそうするでしょう。それ以外の福音(1:6–7)は彼らの念頭にないことにパウロは主にあって信頼しています。割礼を勧める連中は、パウロだってかつては割礼をのべ伝えていたのだと宣伝していたのかもしれません。しかし、パウロがなお割礼をのべ伝えているのなら、迫害を受けるはずはありません。それをやめたからこそ迫害を受けており、十字架のつまずきを身に負っているのです。
 あなたにとって失ってはならないものとは何でしょうか。ほかに何もなくても大丈夫なものとは何でしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-05-21 18:00:00 (237 ヒット)
週報巻頭言

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。(ガラテヤ4:22)

「語調を変えて話したい」と願うパウロですが、律法を支えにして生きるか神の恵みに信頼して生きるか、言い換えれば律法の奴隷か自由な相続人かという問題についてなお論ぜずにはいられません。律法を振りかざす相手には律法の土俵で論じましょう。イスラエルの祖先であるアブラハムは、まず女奴隷ハガルによってイシュマエルをもうけ、次いで100歳のとき妻サラにイサクが生まれます。神の約束の成就です(創世記16, 21章)。イシュマエルの子孫はアラブ人、イサクの子孫はユダヤ人で、アブラハムの跡を継ぐのも後に律法を受けるのも後者ですが、パウロは「ハガルは今のエルサレムに当たる」と意外なことを言いだします。
 律法は人を奴隷にし、神の恵みの約束は人を神の子とするとパウロは考え、アブラハム一家の物語に神と人間の二つの契約という「別の意味が隠されている」と解釈します。ハガルはアラビア(語)ではシナイ山を意味するから(確かにアラビア語に岩、石といった意味のハジャルという語はあるが、少々苦しい)女奴隷ハガル→シナイ山→そこでモーセが受けた律法→肉の行い(割礼)→人間の奴隷化→女奴隷の子、と話がつながるのです。実際、律法の行いによる義を頼んでイエスを信じない「今のエルサレム」はローマの奴隷にされています。これに対してキリスト者こそ自由な女から生まれた子であり、シナイ契約を超える新しい契約に属する「天のエルサレム」の子らです。天のエルサレムは、イザヤ54:1のことばで祝福されます。しかし、イシュマエルが幼いイサクをからかったように、今もユダヤ人がキリスト者を迫害しています。
 それでも、キリスト者はやがてエルサレムを相続するでしょう。聖書が約束しているからです――と言って引用する創世記21:10は神の命令のように聞こえますが、本来はサラのせりふです。母が奴隷だから子も奴隷と決めつけてよいのかという疑問も残ります。結局これは24節に言うように一つのたとえであり、その趣旨は自由という貴い贈り物を投げ捨てるなということに尽きるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-05-14 18:00:00 (194 ヒット)
週報巻頭言

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。(第一コリント15:53)

コリントの教会に「死者の復活などない」と説く者がいました。体が死んでも魂は生き続けるから復活は必要ない、肉体という重荷をもう一度背負い込むのはむだなことだ、と考えたようです。そこでパウロは12節からの長い反論を書いています。死者の復活やキリストの復活を信じるのはむなしいことでしょうか。聖書は、神が土をこねて人を造られたこと、すなわち「体」として造られたことを神の愛の業として受け止めています。人は確かに罪ある者であり、いつか土に帰らなければなりません。「肉」と呼ばれる一面を持っているのです。しかしこの体が神の傑作であることに変わりはありません。ひとりひとりが違った存在として認識されるのも、力を合わせて神の業に参与できるのも、体あってのことです。では肉ゆえの弱さはどうなるのでしょうか。「霊の体が復活する」というのがその答えです(44節)。
 ただし、肉と血は神の国を受け継ぐことができません。つまり人は自分を救うすべを持っていません。だから、終わりの日まで生き長らえた人でも変えられなければなりません。すでに眠りについた人は朽ちない者として起こされ、生きているわたしたちは変えられます。パウロ自身は後者のつもりだったようです。でも、その前に眠りについても起こしてもらえるのだからそれでよいのです。いずれにせよ、起こしたり変えたりなさるのは神であることが重要です。人にはそのすべがなくても、神にはおできになります。着物一枚着せるようにやすやすと。たちまち、一瞬のうちに、人間は不朽と不死によって衣服のように守られ、肉の弱さから解放された霊の体となるのです。神がどうやってそれをなさるのか、それは「神秘」です。
 この約束が実現する時、それはイザヤ25:8、ホセア13:14の預言が実現する時です。死の武器である罪が抜き去られる時、罪の力である律法が廃棄される時です。神はわたしたちがキリストのものだというだけでご自分の勝利を日々わたしたちに与えてくださっています。主にあって、ガラテヤの人々の労苦はむなしくはならないのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-05-07 18:00:00 (217 ヒット)
週報巻頭言

わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、わたしを受け入れてくれました。(ガラテヤ3:14)

パウロはユダヤ人ですが、異邦人に福音を伝えるために食事のしかたをはじめとするこまごました律法へのこだわりを捨てて異邦人のようになりました。だからガラテヤの人々にもパウロと同じようにイエス・キリストの信仰に決然と立ってほしいのです。その信仰があればこそ、彼らはあのときパウロを正当に扱ったのです。
 使徒言行録16:6によれば、パウロはアシアに伝道の歩みを進めようとしたのですが、「聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って」行きました。それが具体的には「体が弱くなった」ためであったことが13節からわかります。救いを説く人が病弱では説得力がないと感じる人は多かったでしょう。病気を神罰と考える人ならなおさらです。しかし、ガラテヤの人々はこの「試練」、すなわちパウロの病をさげすんだり忌み嫌ったりせず、彼を心から受け入れました。なぜでしょうか。この弱々しい人のどこからシリアからここまで旅する力が出て来るのだろう、この人の力ではない、神の力が働いているに違いないと思われたのではないでしょうか。その驚きは神への感謝になり、パウロへの愛になりました。目の不自由な(6:11参照)パウロのために自分の目をえぐり出して与えようとするほどの愛に。パウロの弱さが彼らを神の力に気づかせ、愛する幸いに招き入れたのです。
 しかし、結局真理を語ったパウロが敵視されることとなりました。「あの者たち」がガラテヤの人々を真理から――イエス・キリストの信仰による無条件の救いという真理から――締め出そうとしているからです(マタイ23:13参照)。それは善意からではなく、自分たちに対して熱心にならせるためです。パウロのように善意から熱心に慕われるのならよいのですが、無条件の救いという真理を隠し、努力しなければ救われないと思わせて自分の支配下に置こうとする迷惑な宗教家も当時からいたことがわかります。パウロはガラテヤの人々を再び信仰者として産むための陣痛に苦しみ、途方に暮れながらも、直接会って愛を込めて語りかけられたらと願うのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-04-30 18:00:00 (258 ヒット)
週報巻頭言

神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(ガラテヤ3:9)

「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。何という大きな恵みでしょう。しかし、ガラテヤの人々はどうでしょうか。神を知らなかった昔、神でない神々、無力で頼りにならない「諸元素」の奴隷だったのはしかたがないとして、神を知った、というより神に知られている今、どうやって「諸元素」の支配のもとに逆戻りしようとするのか、とパウロは問いかけます。ギリシャ人は火・風・土・水を世界のあらゆる物質の根源と考え、これらを崇拝する人もいました。その影響を受けたユダヤ人の中には、律法こそ世界の根底をなす諸元素だと説く人が現れました。「いろいろな日、月、時節、年などを守っている」とされるガラテヤの人々も、安息日(出20:8)、新月(アモ8:5)、過越祭や仮庵祭(申16:1–17)、安息年(出23:11)などの律法とギリシャの哲学とを融合させようとしていたのでしょうか。
 パウロは「あなたがたのことが心配だ」と言います。彼らに福音を伝えたのは、奴隷の立場から解放されて神の子らとしての自由を得てほしかったからです。それなのに再び諸元素の奴隷に逆戻りすることも、割礼を受けて律法の奴隷になることもいとわないガラテヤの人々。救われるためならだれの奴隷になってもいいと言う彼らは、イエス・キリスト以外のだれにも人を自由にし、安心させることはできないことを皮肉な形で実証しています。
 なぜ日や月や時節や年を守ることに頼ってしまったのでしょうか。科学的知識が乏しかったためもあるでしょう。しかし今日のように科学的知識が普及しても、将来のことをすべては見通せませんし、不安が完全に消えるものでもありません。だからと言って魔術的な方法で諸元素を操り、自分に都合よく動かそうとすべきではありません。世のすべてを支配しておられるのは諸元素ではなく神なのですから、そんなことをするのは自分を神の上に置くに等しいのです。ひとえに神に頼ることがどうしても必要ですが、この単純なことがとても難しいようです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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