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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-07 18:00:00 (197 ヒット)
週報巻頭言

渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:6)

1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスはエフェソに神殿を建てさせ、自分と妻と前2代の皇帝の巨大な像を立てさせました。この神殿のおかげでエフェソの市民は様々な特権と利益を得る一方、皇帝礼拝に参加しないキリスト者には敵意をいだき、迫害を加えるようになったと考えられます。現地のローマ総督も迫害を先導こそしなかったものの、告発を受ければ処刑をためらわなかったことは少し後の文献からも推測できます。この状況の中でパトモスという島に逃れたヨハネは、ある日曜日に幻を見ます。その内容は、神が恐るべき戦いの末に地上を支配する悪しき勢力を打ち倒し、迫害されているキリスト者を救い出されるというものでした。
 悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれ、死者を吐き出した死と陰府がそのあとを追って、神の勝利で戦いの幕が閉じると、新しい天と新しい地が現れ、新しいエルサレムが天から下ってきます。天はもはや最初の天ではなく、地ももはや最初の地ではありません。天が新しくなるので神と人との関係が変わります。神が人と共に住まれ、人が神の民(複数形で、全世界の救いを示す)となり、神は彼らの神となられるのです。地が新しくなるので人の生も変わります。死も悲しみも労苦もない世界が出現するのです。神の国では、すべてが根本的に変わってしまいます。
 渇きもまた命の水の泉によって価なしにいやされます。水は生命の維持に欠かせないものです。ここに言う「命の水」は命の木に年に12回実を結ばせる奇跡的な水(22:1–2, エゼキエル47章参照)であると同時に、教会が経験している霊的な渇き、すなわち迫害の苦痛をいやし、恐怖を解くものでもあります。神は何の代価も要求なさいません。わたしたちの行いのゆえにではなく、ただイエス・キリストのゆえにわたしたちに勝利を差し出しておられます。ただ、それを受け取ることを選ばないでおくびょうや不誠実などに陥ることのないように、黙示録の時代のキリスト者は特に注意しなければなりませんでした。命の水の泉から飲ませていただく1年としたいと思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-31 18:00:00 (196 ヒット)
週報巻頭言

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(第一コリント15:44)

コリント教会に「死者の復活などない」と主張する一派が現れました(12節)。その真意は、おそらく死んでも霊魂は生き続けるので、体が再生する必要はないということでしょう。ギリシャの多くの哲学者はそう考えました。しかし、ユダヤ人であるパウロには体のない人間というものが考えられません。人は神が土をこねて形造ったものなのですから。何よりもキリストが復活の体を受けたのですから。では死者はどんなふうに復活するのでしょうか。どんな体で来るのでしょうか。体である限り苦痛を免れないのではないでしょうか(35節)。
 まかれた種が芽を出し、根を張り、枝葉を伸ばして形を変えていくとき、種は死んでいきます。死ぬことによって命を得るのです。同じように、死者の体も朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものとして起こされます。卑しさと弱さのうちに自然の命の体がまかれ、栄光と力のうちに霊の体が起こされます。体が肉にほかならないとすれば、霊の体などというものがどうしてありうるでしょうか。それは、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が命を与えられるからです(22節)。キリストは命を与える霊であり、わたしたちの体を地に属するものから天に属するものに変えてくださいます。わたしたちの中に眠りにつく(死ぬ)者もそうでない者もいますが、神の力で朽ちないものに変えられるという点は皆同じです。そのとき、死はもはや力を持ちません。死のとげである罪とその力である律法がキリストによって乗り越えられてしまったからです。
 だから、わたしたちは動揺する必要がありません。ただ主の業に常に励めばよいのです。主の業とは、神を愛し隣人を愛すること以外にはありません。キリストの体の一部とされていること(12:27)を自覚して生きること以外にはありません。わたしたちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせあすは死ぬ身ではないか」(32節)とは言いません。主にあって自分たちの苦労がむだにならず、朽ちないものに実ることを知っているからです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-24 18:00:00 (189 ヒット)
週報巻頭言

あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:30–31)

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、天地創造(はじめ)以来の神さまの言(愛と祝福の想い)が肉体(歴史の中で具体的な人)となった出来事です。神さまの愛が私に宿ったことを祝う祭りです。
 1971年に『二十歳の原点』という本がベストセラーになり、2006年に新装版が発行されました。学園紛争のさなかに理想を砕かれ恋に破れ、大学のキャンパス(人生)の孤独者になっていった高野悦子さん。当時二十歳の痛烈な魂の叫び、「孤りであること・未熟であること・それが私の原点である」という有名なことばを彼女は遺し、逝きました。この『二十歳の原点』は父親が彼女の死を悼んで彼女の日記を出版したものです。その日記の5月7日にはこのように書かれています。
 「どうしたって他者が気になる。『他者を通じてのみ自己を知る』か。どこかに、この広い宇宙のどこかに、私を見つめているsomeoneがいるに違いない。会って話がしてみたいものだ。」
自分を見つめるsomeone「誰か」。それは誰だろうか。人間は見つめられて生きている。自分のことを本当に見つめてくれるsomeoneとは誰なのか。これが感性豊かな高野悦子さんの問いであり、彼女が自己の原点と定義した「孤独であること」から放たれた魂の叫びでした。さて、みなさん。あなたを見つめる誰かとは誰ですか。
 あなたを見つめる目があります。あなたを見つめ、あなたを探すsomeoneがいてくださいます。それが神さまです。あなたへの神さまの愛のまなざしです。この神さまの限りない愛があなたに(人類に、ではなく)宿っているのです。生まれたのです。そのしるしがイエス・キリストです!これを「福音」と言います。クリスマスはこの福音(良き知らせ)を自分の中に聴き取り、喜び祝う祭りなのです。
“おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。”ルカ1:28(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-17 18:00:00 (253 ヒット)
週報巻頭言

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。(マタイ4:4)

イエスは荒野に行かれました。悪魔の試みを受けるという積極的な目的があってのことです。40日40夜の断食の末に飢えられたイエスは、試みる者(悪魔)の「神の子なら、石がパンになるように命じてみよ」とのことばに申命記8:3をもって答えます。そこでモーセが指し示すのは、エジプトを出たイスラエルの民がパンに飢えたとき、神がみことばをもってマナという食物を与えられた、あのでき事です。わたしたちは自分で自分の飢えを満たすべきでしょうか。いいえ。人となられたイエスは自分で自分を救おうとはなさいませんでした。次に悪魔はイエスを神殿の境内の端に立たせ、眼下の谷に飛び降りさせようとします。神は天使たちに命じてあなたを支えさせると歌う詩編91:11–12を根拠にしてしかしイエスは申命記6:16を引いて退けます。わたしたちは神を立ち上がらせるために危険を冒すべきでしょうか。いいえ。イエスは神を操ろうとなさいませんでした。「神の子なら」ということばは十字架につけられたイエスへのあざけり(27:40)と響き合っています。
 第3の試みに至って、全体を通して何が問われているかが明らかになります。人はだれをみずからの主とするのでしょうか。神のみことばに期待しないで自分で飢えを満たそうとするのは、みずからを神とすることです。神に奇跡を起こすように強いるのは、神をみずからの下僕とするとことです。いずれにしても人と神との関係の破壊であり、「主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13)という戒めとは正反対の姿勢なのです。
 人として生まれたイエスは、ここでどこまでも人として神への従順を貫かれました。十字架につけられてむざむざと死ぬような神があるだろうか、飢えに苦しむような神があるだろうか、と言う人もいるでしょう。しかし十字架の死に至るまで従順であられたからこそ神の子なのです。みずから飢えを味わわれたからこそ多くの人を豊かに養われるのです。日本でも他の国々でも多くの人が飢える中、世は飢えた人をよいもので満たされる方を必要としています。(高市和久)

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