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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-03-18 18:00:00 (82 ヒット)
週報巻頭言

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:11)

ナザレから程近いカナの町で婚礼がありました。七日間も続いたかと思われる宴の途中でぶどう酒がなくなります。花婿の家にとって恥となる事態です。召し使いたちはそこにいたイエスの母から「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われて、イエスに言われるままにかめの縁まで水を満たします。そこからくみ出すと、よいぶどう酒に変わっていました。合わせて500–700リットルものぶどう酒が突然出現したのです。世話役はぶどう酒の味に驚きましたが、どこから来たのかはわかりません。わかるのはみずから水をくんだ召し使いたちだけです。彼らの労苦は十分に報われました。
 これが「最初のしるし」だったと福音書は言っています。しるしとは神が働かれたことを証拠立てる奇跡です。ただし、大事なのは奇跡そのものではなく、その奇跡が指し示している事がらです。つまりイエスが帯びておられる神の子としての栄光です。水をぶどう酒に変える! 栄光以外の何物でもありません。弟子たちがイエスを信じたのも当然です。しかし、福音書記者はそれを「わたしの時」と言い直しました。元来は「イエスの母は召し使いたちにイエスの言いつけに従うように言った」とだけあったところに母とイエスのやり取りを挿入したと見られるのです。人が目を注がねばならないのは「わたしの時」、すなわちイエスが十字架につけられる時だけだ。どんなに輝かしいしるしが示されても、それが指し示すのは十字架であることを忘れてはならないと記者は言いたいのでしょう。「あなたはわたしとどんなかかわりがあるのです」という母に対するとも思えないことばも、天の父のみに従う姿勢の厳しさを表すものとすれば納得できます。
 季節は巡り、イエスの苦しみの時が近づいてきました。イエスにしかできないこと、その栄光を見つめましょう。しかし何よりもその苦難を仰ぎましょう。世の罪を取り除くという、神の小羊にしかできなかったことを。そしてきょうわたしたちの労苦すべきことに励むなら、きっと豊かな報いを見いだすでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-03-11 18:00:00 (108 ヒット)
週報巻頭言

だから、こう祈りなさい。(マタイ6:9)

東日本大震災からきょうで7年になります。わたしたちがみずからの小ささを思い知ったあの日を思い起こすにあたり、南光台教会の田中信矢牧師は主の祈りを手がかりにしています。がれきの山。無音。異臭。現場に立った人々は、祈ることばが見つからなかったと言います。そんな場所にも、イエスが弟子たちに与えられた祈りはぴたりと適合していました。人間と世界をまるごと把握しておられる方、人々の苦しみをその身に引き受けられた方の祈りだからです。
 この祈りは、「父よ」という呼びかけで始まります。無力な子どものようにわたしたちは神に呼びかけます。その方は高い天にあってわたしたちを愛しはぐくむ方、わたしたちが従うべき方なのです。人が「父よ」と呼びうるのは神がまず「子よ」と呼びかけてくださったからであることも言っておかなければなりません。
 次に神のための三つの願いが来ます。神は人をはるかに超える方であり、キリスト者はその聖なるみ名をあがめるのであって、神のみ業を批評するのではありません。神ご自身のみ国、すなわち愛と正義のご支配を叫び求めるのであって、みずから君臨し支配するのではありません。すべての人が神の戒めに従い、互いに大切にし合う日が来ることを臨むのであって、欲望の充足を賛美するのではありません。
 次に自分たちのための三つの願いが来ます。人は食物をはじめとするさまざまの必要を満たしていただかなければならないことが、震災を通してあらためてあらわになりました。人はまた罪をゆるしていただかなければならない存在です。原発を作って修復できない汚染を起こし、多くの人の故郷を奪い、あるいは放射線の中で生活させる、そんな罪深い存在です。被害者にとってはあまりにも厳しい試みですが、この不幸から救い出すことも神にしかできません。パンも、罪のゆるしも、試みからの救いも、すべて神に求めるしかない者たちが「国と力と栄とは限りなくあなたのものです」(歴代上29:10–11参照)と神の栄光をたたえる。聖書の時代から2000年を経ても、そうした人間のありようは少しも変わっていません。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-03-04 18:00:00 (93 ヒット)
週報巻頭言

彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。(ヨハネ1:41)

バプテスマのヨハネはふたりの弟子に神の小羊イエスを指し示し、弟子たちはヨハネを離れてイエスに近づきました。するとイエスが「何を求めているのか」と言われます。彼らは何を求めてイエスのところに来たのでしょうか。真理でしょうか。永遠の命でしょうか。そんな抽象的なものではありません。「ラビ」(わたしの偉大な人、の意)との出会いを求めているのです。どこに泊まっておられるのかというような些細な手がかりによってでも、イエスという方を、その人格を、知りたいのです。イエスも礼儀正しくふたりを宿に招き入れ、ふたりは40節に「従った」とあるように、正式に弟子となります。
 ふたりのうちひとりはアンデレでした。彼は兄弟ペトロに「わたしたちはメシアに出会った(ヘウレーカメン=見いだした)」と伝えます。アルキメデスが湯ぶねからあふれる湯を見て王冠に使われた金の鑑定方法を思いつき、喜びのあまり裸のまま浴場を飛び出して通りを走りながら叫んだと言われるのと同じことばです。喜ぶのも当然です。彼らが見いだしたのは実にメシア――神によってイスラエルを救う務めに召され、そのしるしとして油を注がれた方だったのですから。
 フィリポも「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」とナタナエルに言います。彼もまたメシアを見いだした喜びを伝えたいのです。ナタナエルはイエスがナザレの出身であることを聞いて初めは半信半疑です。「異邦人のガリラヤ」(イザヤ8:23)と見下すのは当時の人によくあることでした。しかし、自分がイエスに出会う前からイエスのまなざしを向けられていたことを知って「あなたは神の子です」と告白します。ヨハネが神からイエスを神の子と示され、そのヨハネからアンデレともうひとりの弟子が神の小羊を示されたように、ペトロが初めから名を知られていたように、そしてフィリポがまずイエスに見いだされて信じるに至ったように、ナタナエルもイエスを知る前にイエスに知られていました。わたしたちが神を見いだす前に、神がわたしたちを見いだされるのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-25 18:00:00 (103 ヒット)
週報巻頭言

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)

イエスが活動を始められる前、ヨルダン対岸のベタニアで人々にバプテスマを授けていたヨハネのところにユダヤ人たち(の指導層)が祭司やレビ人たちを遣わして「あなたはだれか」と尋ねさせると、彼は告白して否定しませんでした。すなわちこう告白したのです、「わたしはメシアではない」と。世の終わりに神に先立って来ると信じられていたエリヤでもなければ、モーセの代わりに来るとされたあの預言者でもありません。否、否、否を繰り返すばかりなのです(「荒野で叫ぶ声」という答えは福音書の内容を教会の正統的な教えに近づけようとした編集者の加筆と見られます)。要領を得ないまま、使節団はバプテスマを授ける理由を尋ねますが、彼は「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中にはあなたがたが知らない方がおられる」とまたまたなぞめいたことを言います。メシアを名乗るのはもちろん、メシアがほかにおられると告白するのも命がけではありますが。
 なぞが解かれるのは翌日になってからです。ヨハネはイエスが自分のところに来るのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。イスラエルの罪を背負うやぎ(レビ16:21)のように民の罪を取り除く方であり、過越の小羊(出エジプト12:6–7、第一コリント5:7–8)のように罪の支配から解放してくださる方です。わたしより先に、世の初めからおられた方です。ヨハネはイエスを知りませんでしたが、ヨルダン川で人々にバプテスマを授けていたのはこの方に出会うためでした。霊が下ってその上にとどまるのを見て、自分が待ち続けていたのはこの方だと知り、この方こそ神の子であるとあかしするようになったのです。
 ヨハネが何者であるかは結局はっきりしません。はっきりするのはむしろイエスの本性です。神の小羊、初めからおられた方、聖霊によってバプテスマを授ける神の子であることが明らかにされていきます。ヨハネにはこの方を指し示す以外に独自の役目はありません。しかし、指し示す働きに徹する人生のなんと尊く意義深いことでしょうか。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-02-18 18:00:00 (115 ヒット)
週報巻頭言

ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。(マルコ10:47)

盲人のバルティマイは、目が見えないことでたくさんの辛い目に遭い、たくさんのものを失ってきたと思います。それゆえに、彼には欲しいもの、して欲しいことが、いくらでもあったに違いありません。
 「何をしてほしいのか」。このことばを語り掛けてきたのが母親だったなら、彼は「母さん、疲れました。あたたかいスープをつくってください」と答えたかもしれません。父親だったなら「父さん、お願いです。息子の僕を嫌わないでください」と答えたかもしれません。問いかけたのが物乞い仲間だったなら「座る場所を、たまには人通りが多いところと替わってくれないか」と答えたかもしれません。尋ねたのがその街の名士なら「だんな、もう少し、はずんでくれませんか」と答えたのではないでしょうか。
 でも、彼がずっとずっと自分の生命の真ん中のところに抱え持ってきたもの、ほんとうに叫びたかったのは、「見えるようになりたい!」という叫びでした。でも、もうそれは無理だと折り合いを付け、ぐっと封印してきたのだと思います。求めに、望みに、鍵をかけた。それで生きてきたのだと思います。
 でも彼は、この永年封印してきた叫びをいま解き放つのです。なぜならイエス様が接近したことを彼は聞いたからです。バルティマイの心に何が響いたのかわかりません。なぜイエス様に対してそこまでの気持ちになったのかわかりません。ただ彼は、イエス様に対しては「ダビデの子」(メシアと同意味で使われていた言葉)と繰り返しています。このイエスこそが救い主であるとの確信と信頼が彼を動かしています。自分の求めの中心を初めて解き放ちぶつけることのできる方を見つけた。求めなければならない。わたしの求め、わたしの望み、わたしの救いを、いま、ここで、求めなければならない。バルティマイは今その確信にすべての体重をかけていきます。(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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