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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-10-01 18:00:00 (36 ヒット)
週報巻頭言

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。(出エジプト12:29)

ついに、その日は来ました。主なる神はイスラエルを奴隷のくびきから解放するためにエジプトのすべての初子を撃つと予告されます(11:4–6)。イスラエルは羊をほふってその血を家の入り口に塗るように命じられました。「滅ぼす者が家に入ってあなたたちを撃つことがないため」です。エジプトから解放された後も、民は毎年この儀式を守り、この日のでき事を子どもたちに伝えなければなりません。
 恐ろしい裁きがエジプトに下りました。エジプトで最高の地位を持つファラオの家から牢屋につながれている捕虜の家まで、免れた家は一つもありませんでした。なおも神に反抗し続けたら、エジプト人は皆死んでしまうでしょう。ファラオはついに降参してイスラエルの民全員が家畜もろとも去ることを認め、エジプト人たちも民をせきたてます。たった一夜のでき事だったので、パンの練り粉に酵母を入れて膨らませる暇もありません。このため彼らはパン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。これもまた毎年儀式として守られることになります。金銀の装飾品や衣類というおまけまでつきました。
 神はなぜこんなに厳しくエジプトを撃たれたのでしょうか。悪に悪を返してよいのか(ローマ12:17参照)と疑問を持たれるかもしれません。しかし、イスラエルの立場から見てみましょう。彼らは奴隷として日に日に労働を重くされ、男の子を皆殺しにされ、先祖の神を礼拝したいという願いさえ拒まれていました。彼らの叫びを聞いてくださる神に頼るしかありませんでした。神は彼ら貧しく虐げられた者の肩を持たれたのです。過ぎ越しの祭りは、元来は春先に牧草地を移動する羊飼いたちが新生獣の安全を祈る儀式であり、種なしパンの祭りは農民が麦の初穂を感謝する儀式だったと見られます。それが出エジプトのでき事と結びついたのは、エジプトを脱出したごく少数の奴隷たちが農民や羊飼いに呼びかけて共に自由な国を作っていったからでしょう。自由を与える神、自由を奪う者に厳しく立ち向かわれる神に出会った人々が、世界を変えていったのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-09-24 18:00:00 (41 ヒット)
週報巻頭言

エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。(出エジプト10:7)

イスラエルを去らせないファラオに対して、ぶよ、あぶ、疫病、はれ物、ひょうと、主なる神は次々に災いを下されます。そのたびにファラオは悔い改めたふりをしてモーセにとりなしを頼みますが、災いが過ぎると直ちに約束をほごにします。ひょうが草木の葉や麦の穂を打って農業に大打撃を与えても、ファラオの態度は変わりません。そこで主はエジプトにいなごの大群を送り込み、ひょうの害を免れた農産物を食い尽くさせることにしました。エジプトの全住民に飢えの危険が迫ります。
 モーセたちはファラオに災いを予告しただけで、今回も拒まれたのでしょう、そのまま身を翻してファラオのもとを退出します。しかし、家臣たちが動揺してファラオに妥協を勧めました。「即刻男たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう」。エジプトの滅亡を憂慮せずにはいられないのです。この提案にヒントを得たのか、ファラオはモーセとアロンを呼び戻して男だけを行かせるように誘導します。全員だ、家畜もすべてだとモーセが主張すると、「主とやらいう神がおまえたちと共にいてくれたらいいのだが。しかし荒野では災いが待っているから、男たちだけで行って主に仕えるがよい」と言います。モーセたちの主に対する信仰を皮肉り、女子どもを危険から守るようなふりをして人質に取ろうとしているのです。「君たちはまだ自治能力がないから」と植民地支配を押しつけた帝国主義の論理を思わせます。モーセはエジプトの地につえを差し伸べるしかありません。
 すると主は一昼夜にわたって東風を吹かせ、地が暗くなるほどのいなごの大群をエジプトに送り込みました。ひょうの害を何とか免れた草も木の実もいなごに食い尽くされ、エジプトのどこにも緑のものは残らなかったと言います。ファラオは例によってモーセを呼び戻しますが、「主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した」と過ちを認める点で少し進歩が見えます。しかし、モーセの祈りによっていなごが去ると、またしてもかたくなな態度に戻ってしまうのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-09-17 18:00:00 (43 ヒット)
週報巻頭言

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。(創世記28:15)
 アブラハムの子イサクにはエサウとヤコブのふたりの息子が生まれました。父イサクが晩年になって兄に長子としての祝福を与えようとしたとき、ヤコブは父をだまして祝福を横取りしました。怒った兄は殺意を口にし、ヤコブは遠くハランにいるおじラバンのもとへ逃れなければなりませんでした。たったひとりの旅であり、日が沈めば石を枕に野宿するしかありません。きょうの聖書はそんな一夜のでき事です。ヤコブは不思議な夢を見ました。天に達する階段が地に向かって伸び、神のみ使いが上ったり下りたりしているのです。恐れに打たれたヤコブは、その場所が神の家、天の門であることを知って、人が踏み込んではならない聖なる場所であることを示すために、枕にした石を記念碑として立て、その場所をベテル(神の家)と名づけました。有名な聖所の始まりです。
 夢の中で、主なる神はヤコブの傍らに立ち、約束のことばを与えられます。アブラハム(15:5–7)とイサク(26:4)に対する土地と子孫の約束が再確認され、その上に「わたしはあなたと共にいる、あなたを守り、この土地に連れ帰る」と約束されたのです。ことに後者はヤコブにとってありがたいものでした。父をだまし兄を出し抜くという決してほめられない前歴にもかかわらず、神はヤコブを見捨てることなく、かえって祝福を約束されたのです。
 その後ヤコブは無事にラバンの家に着き、長くおじに仕えて家畜を飼いますが、やがてその家を脱走してカナンの地に帰り、兄エサウとの和解も遂げました。その間、ラバンの娘レアとラケルを妻とし、二人の側室も含めて12人の息子を得ました。この12人から出た子孫がイスラエル十二部族となります。11番目のヨセフは兄たちに憎まれてエジプトに売られますが、エジプトの宰相となってききんの際には父と兄たちを助けることになります。こうして、神の約束が真実であったことが立証されました。48章でヤコブはベテルでのでき事を振り返り、49章で息子たちに最後の祝福を与えます。最後まで、神の恵みと守りの生き証人だったのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-09-10 18:00:00 (44 ヒット)
週報巻頭言

あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。(士師7:2)

300人ですよ。せっかく勇気を出して集まってきてくれた3万2千人を300人に削ってどうします?「3万人2千人いれば、作戦によってはなんとかなるかもしれない」と考えてたのに、それを300人に?1%。もう笑っちゃいますよね。多勢に無勢、もう尋常な勝負にはなりません。話にならない。敵方連合軍は“いなごのように数多く、らくだも海辺の砂のように数多く数え切れなかった”って書いてます。もう敵陣の前で、ひらきなおって“えぇじゃないか”を踊るしかないじゃないですか。
 でもね……。この戦いで、ギデオンをはじめイスラエルが闘わなければならなかったものは、ほんとうは何だったのでしょう。多勢に対して多勢で拮抗する。強い兵力に対しては強い兵力でもって対抗する。そうした「力の論理」と闘うことこそが、神が望んでいたイスラエルのなすべき戦いだったのです。
 農耕神・豊穣神のバアルやアシュタロテへの心移り。それは荒野の40年で経験したはずの「人間の養いは天からくる」ということを忘れ、生産性を高め、富国強兵を願う人間の欲望、拡大の欲望を投影した偶像礼拝でした。富めること・強いことを「力」と考える。そうだから、いっそう強いものに屈服し、富ませるものに膝をかがめる。多勢には多勢で臨まねばならないし、できないなら、強い者、長い物には巻かれるしかない。そんな風に生きてしまった結果、一番大切なことをイスラエルは忘れてしまったのでした。「神が生かす、神が養う、神が共にいる。だから神が共にいる人間としての生き方をしよう」と、そういう生き方を忘れてしまったのです。
 神は、おっしゃっているのです。「あなたが見失いかけている、私の力に拠り頼む信仰を取り戻す闘いをせよ」と。ギデオンに(イスラエルに)、それを命じているのです。(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-09-03 18:00:00 (46 ヒット)
週報巻頭言

ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。主が仰せになったとおりである。(出エジプト5:17)

主なる神はモーセを通して奴隷たちを去らせて荒野で神に仕えさせよと命じられましたが、ファラオはまったく取り合おうとしません。ついに神はファラオに対する行動に出ました。まず、モーセがナイル川の水を打つと血に変わり、エジプト人は水が飲めなくなります。しかし、エジプトの魔術師が同じことをしたので(どうせなら血を水に戻せばよいのに)、ファラオはモーセの要求を拒みます(7:14–24)。次に主が用いられるのはかえるです。あの動物が家に入り込んで寝台からパン作りに使うこねばちまで占領するさまを想像するだけでぞっとしますが、かえるはけがれた動物とされていましたから(申命記14:9–10)古代人にとってはなおさらです。魔術師たちは今回も同じことをしますが、ファラオはモーセたちを呼んで「主に祈願してかえるが退くようにしてもらいたい」と頼みました。
 人間の生存がどんなに多くの条件によって支えられているかを一連の物語は思わせます。水がなければ生きられないのはもちろん、かえる、ぶよ、あぶのような小動物に入り込まれるだけで悩まされます。疫病も一度に多くの人命を奪いますし、ひょうやいなごは畑の作物をだめにしてしまいます。言い換えれば、神が一つ一つの脅威から守ってくださるからこそ人は生きられるのですが、ファラオにその認識はありません。ここにくまやライオンのような猛獣が登場しないのは意味深いことのように思われます。一匹一匹は吹けば飛ぶようなものでも、群れをなして押し寄せればたいへんな力を持つのは、奴隷たちとファラオの関係に似ているように思うのです。わたしたちは自然に対してファラオのようにふるまっていないかも考えてみる必要がありましょう。
 主の前に降参したかに見えたファラオでしたが、モーセの祈りによって一息つく暇ができたのを見るとたちまち頑迷になり、またふたりの言うことを聞き入れなくなりました。支配者が相手を安心させておいて譲歩を引き出すと前言を翻す例は、今日も見られます。主とファラオの対決がまだまだ続きます。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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