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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-09 20:16:50 (223 ヒット)
週報巻頭言

あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰の ために共に戦っている(フィリピ 1:27 より)
イエス・キリストの生き方は、単独者としての生き方ではない。単独者として真 理を悟り、単独者としてそれを説き、単独者として(彼だけは)完全に生きた、とい うのではない。主イエスは、いつも誰かを見つめ、誰かを受け入れ、誰かを担い、誰 かと痛み、誰かと歩いた人である。主の死に場所は十字架。そこは、確かに徹底的に 孤独な場所であり、事実、すべての人々から捨てられた「単独」の状態だったのだが、 しかしあの場所でさえも、否、あの場所でこそ、主イエスはすべての人々と共にいた のだった。それが、主イエスの人生の姿、主イエスの死の姿。そして主イエスは、人 を永遠の単独、永遠の過去に閉じ込める墓の中から、人々とのいのちの交わりの中へ とよみがえった。聖霊は、この主イエスのいのちを吹きかけ、聖霊は、この交わりへ と私たちを押し出し給う力である。それが、使徒たちを、弟子たちを、動かしていっ た。そして、パウロも、その力に生きた。 パウロがフィリピの人々に手紙を書いたとき、獄中にあって孤立しており、また、 いつ死の宣告をくだされてもおかしくはない孤独な(生と死の)境目に挟まれていた。 しかし、彼は単独者ではなかった。主イエスの霊が彼を離れることはなかったし、彼 の心は、フィリピの人々のために燃えていた。私たちにとって「福音」とは、単独に してしまう諸力から人間を解放する出来事であり、また、人間を交わり、しかも神と 人々との交わりの中に保ち続ける力が私を包んでいるということだ。 もちろん、私たちは、自分を、自分で生きるしか無い。生きることに自分としての 責任を引き受けるしかない。だから、それぞれがそれなりに闘いながら生きている。 しかも、人を分断したり、孤立させたりする世の力の中で戦っている。その闘い(戦 い)の中で浴びる苦しみを、平気な顔で「恵み」だと語れはしない。ただし、私たち は単独者ではない。私と共に生き、私を共に生きる交わりへと招く聖霊によって、私 たちは結ばれている。そして、「恵み」はその交わりの中から染み出てくるかもしれ ない。 (牧師 吉 叶)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-02 16:51:01 (214 ヒット)
週報巻頭言

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。(ガラテヤ 6:14a)
                     
【就任の辞】
主の御名を賛美いたします。
私・吉盂陲蓮∋埓酥幡キリスト教会よりいただきました牧師への招聘に、感謝と新たな決意をもってお応えし、これを受諾申し上げます。これより、私は、市川八幡キリスト教会の牧師として聖書を読み、祈り、考え、語り、交わることを「自分の務め」として受け取ります。
市川八幡教会にとって、必ずしも、私が最適な者であるとは思いません。しかし、この杯、この使命を受け取る決心をした以上、私が市川八幡教会の牧師であり、それゆえ、果たすべき責務があることを忘れず、その立場から逃げず、努力していく所存です。とりわけ、「隔ての壁を取り除きたい」と掲げる市川八幡教会の牧師として、まずは自らの中にある「壁」を見つめ、それが砕かれることに自らを開きたいと思います。自分を自分自身で守ろうとする「力み」から解き放たれ、何事も「決まっていること」として語らず、また自分が知っている者として傲らず、私の外から届く声に耳を傾けることに努めたいと願います。
ただ、こうした思いを抱いていながら、なお、自分に固執するあさましい人間でしかない私です。どうぞ、皆さまから、時に厳しい諌めを、できれば優しいご助言を賜りますよう、謹んでお願い申し上げます。
何より、牧師としての務めは、私に固有・特有の職務ではなく、教会に連なる皆さまとの関係の中で立てられていく「関係の職務」だと思います。ですから、私は、皆さまとの協力・協働を心から求めます。「主イエス・キリストの十字架と復活が、なぜ、人間にとって解放の出来事であるのか。」「福音とは、こんにち、私たちにとって、私たちが出会う『この人』にとって、何なのか。」このことを、ぜひご一緒に求め、ご一緒に味わい、ご一緒に経験し、さらに多くの方々とわかちあっていく「求道」と「伝道」の歩みに励んで参りましょう。
主イエス・キリストのみが、まことの主、教会の主であります。
主に栄光が、世に平和がありますように。 アーメン
これをもって、「就任の辞」といたします。               主にありて
  2019年6月2日
            市川八幡キリスト教会 牧師 吉癲ヽ
                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-24 18:43:08 (245 ヒット)
週報巻頭言

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)

「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人の問いに対してイエスさまは、神の国は見える形で来るのではなく、「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。」と答えられました。この「ある」という言葉は現在形です。つまり、今すでに神の国は「ある」と答えられたのです。
しかし現実社会に目を転じれば、そこは経済力や権力、腕力など力による支配が横行し、多くの争いがあります。不平等、憎しみ、悲しみ、不信感の渦巻く中で多くの人が傷つき苦しんでいます。私たちは「神の国」をどこに見て希望をつないでいったらよいのでしょうか。
第2次世界大戦に従軍したイギリス人の若者が、日本軍の捕虜となりタイ・クワイ河の収容所に送られました。泰緬鉄道建築の過酷な強制労働により病に倒れ、彼はごみを捨てるように「死の家」に送られます。彼を絶望の底に追いつめたのは、手当てもされず悪化をたどる病だけでなく、捕虜同士の盗み合い、憎しみ、欺きでした。彼を今まで支えてきた教育、道徳、善意がことごとく否定されたのでした。醜い人間の本性に絶望した彼は、無気力、無感覚となり死臭の漂うその場でただ死ぬのを待っていました。
そのような中、収容所内の彼の戦友が、彼の虫が這う体をきれいに洗い、清潔な寝床を用意し、強制労働の後の疲れた体で、彼に丁寧なマッサージを施し根気強いリハビリを続けてくれたのです。やがて彼の動かなかった手足に感覚が戻り、徐々に生きる気力を取り戻します。ひとりの老いた女性宣教師によりもたらされた神の光が、憎しみと不信に満ちたこの収容所内を少しずつ変えていきます。神の愛を知った彼は仲間と聖書を読み、自分がしてもらったように傷ついた仲間に仕え、ついにこの収容所の中に教会を立ち上げます。
まさに「神も仏もあるものかという」悲惨な状況下にあっても、「神の国」は人の間にすでにあるのです。「神の国」は目立たないかたちでひっそりと人と人の間に打ち立てられ、人と周りを根底から変えていきます。
このような特殊な状況を持ち出すまでもなく、私たちが、礼拝で、祈祷会で、また日常生活の中で、イエスさまのお名前を通して祈る時、もうすでにそこは「神の国」のご支配の中にあります。イエスさまが来てくださったことにより実現した、「神の国」のご支配があまねくこの世に行き渡るまで、私たちは今ある現実に絶望するのでなく、希望を持ってイエスさまに従うものでありたいと思います。
                        (篠塚 薫)                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-03-03 21:18:12 (280 ヒット)
週報巻頭言

園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。』(ルカ 13:8)

月が改まって、いよいよ2018年度最後の月となりました。
市川八幡教会にとっては大いに揺さぶられ、慌てふためきながら、しがみついたり、とにかく担いだりしながら歩んだ一年でした。みなさまお疲れさまでした。
でも、その市川八幡教会という「いちじくの木」の傍らには、「ご主人様、この木を切らないでください」「どうか、この木をもう少し辛抱して待ってやってください」「この木の世話をわたしがやってみますから」と言いながら懇願してくださっていた主イエスがいたのです。イエス様の「ゆるし」と「とりなし」、ほんとうは、そこにおいてだけ存在させられた教会(わたしたち)だったのだということを憶えていたいと思います。そうです。私たちの2018年度の歩みは、いつもの年以上に、主イエスの必死の「とりなし」が注がれた一年だったのかもしれません。きっと、そうです。傷ついたり、情けなかったり、しんどかったり、それでもばたばたしていたりの一年でしたけれど、イエス様の期待が教会の命をつないでくださったのです。神様の前に、そしてこの街の人々にとって、味わい豊かな実りになるようにと呼びかけ、ただし、「その味の源はここ(十字架)にあるよ」と、自ら痛みながらとりなしを祈って下さるイエス様が、私たちの傍らには確かにいたのです。 インマヌエル、アーメン。
市川市八幡2丁目。この街に植えられて、この街のある部分の土地を所有して、私たちは根を張り、枝を張っています。歴史もそれなりにできました。でも、そうだから私たちは教会として存在している、というようなものではありません。この教会には、イエス・キリストの血が注がれています。そして主イエスの復活の知らせが太陽のように注がれています。実を結べ、人々を生かしめる実を結べと、とりなされ、励まされています。だから、私たちは教会なのです。
 私たちが、私たちの教会という交わりが、主イエスの十字架があってもなくても変わらないような言葉で語り合い、主イエスの復活があってもなくても変わらないような気持ちで進んで行こうとするならば、2019年度の活動計画を、どんなに一生懸命立てても、誰もが何かをしていても、忙しく話し合いをしていても、それは葉っぱばかりのいちじくの木になってしまうかも知れません。
 今週、3月6日より、レント(受難節)に入ります。3月11日には、東日本大震災の記念日も迎えます。いよいよ、人間の愚かさとはかなさに思いを凝らし、主イエス・キリストの慈しみと愛とに深く接続する日々となりますように。 (協力牧師 吉癲ヽ陝
                                                                                                                                     


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-01-13 20:13:45 (304 ヒット)
週報巻頭言

人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言 16:9)

24年前の1995年1月にこの教会堂の献堂式が行われました。
当時、旧会堂が老朽化し雨漏り対策を迫られて、会堂建築の幻が一気に現実の課題となっていました。しかし私たちの建築資金が予算見積もりに届かず困っていたところ、アメリカの建築資材を使ってアメリカの建築ボランティアによって教会を建てるという案を知り、何度も話し合って採用することになりました。順調に進んでいるとみえたときに、思わぬ事情で教会が混乱して、当時の牧師が辞任し何人かの教会員も去って行きました。
教会はその痛みを引きずり、不安のなかで第1陣のボランティアを迎えることになりました。しかし彼らは献身したセミプロ級の建築奉仕者で、あたたかく前向きな信仰とはたらきで私たちを励ましてくれました。その姿を見た教会員も現場に通ってボランティアと一緒に働くようになり、「建築デー」には子どもたちも参加して階段の釘を打ち、青年たちは十字架の屋根を作りました。第2陣、第3陣と与えられたボランティアと仲間たちと一緒に作業をすることによって、教会は苦難の中から癒やされて、祈りと感謝と讃美にあふれる群れへと作り変えられました。そのことを思うと今でも胸が熱くなります。
主任牧師不在の今は忍耐の時ですが、これから主が私たちに何を期待しておられるのかご一緒に祈りつつ待ち望みたいと思います。
<建築ボランティアリーダー、パスカル・ハリスさんの証し>
(建築を通して)以前私たちの国同士は戦争で争っていたこと、そして今はこうして私たちアメリカ人が、日本人とお互いに愛し合っていることを何度も思わずにはいられませんでした。人の心にイエスさまがおられると、そこには愛が生まれるのです。
(松浪衣子)                                                                                                                                      


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